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『目を覚まして生きる』 2023年8月20日

説教題: 『目を覚まして生きる』 聖書箇所: マルコによる福音書 13章32~37節 説教日: 2023年8月20日・聖霊降臨節第十三主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

今日の御言葉は13章の最後のところです。皆さま、聖書の見開き両ページを見てください。今日の13章最後のところが90頁の上段に記されておりますけれども、その後をみていただきますと、14章、イエスを殺す計画、ベタニアで香油を注がれる、ユダ裏切りを企てる、過越しの食事をする、主の晩餐、と小見出しがパッと目に入ってくるだけでも主イエスの最後の場面が刻一刻と近づいてくる緊張の場面になることがわかります。14章は主イエスの十字架の二日前の出来事なのであります。すでにお話してきましたように、この13章は弟子たちへの最後の教え、今日がその締めくくりの箇所なのです。


■グレゴリウス

今日の32節から37節までには、「目を覚ましていなさい」が繰り返されている事がどなたでもお気づきになるでしょう。33節、「気をつけて、目を覚ましていなさい。」、34節、「門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものである」、35節、「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか、分からないから」、37節、「あなたがたに言うことはすべての人に言うことである。目を覚ましていなさい。」と繰り返されています。ここで「目を覚ましていなさい」と訳されている言葉は、ギリシア語ではグレゴレオという言葉です。ラテン語やヨーロッパ言語において、グレゴリウスという形で男性の名前によく使われます。歴代ローマ教皇にも6世紀のグレゴリウス1世に始まり、16世までその名を見出すことができます。このグレゴリオと言う言葉は、目を覚ます、と言う意味だけでなく、「見張る」という意味があります。キリスト教界全体を統治し見まわす、監督するという意味からもローマ教皇にこの名がつけられているのです。今日の聖書箇所にも門番という言葉が34節に出てまいりますけれども、まさに、門番は見張っている、ということが仕事であります。


■居眠りもダメ?

さて、「目を覚ましていなさい」と聞きますと、眠らずに起きている、睡魔に襲われた時も頑張って起きている、という意味に取るのが普通でありましょう。そうしますと、32節「その日、その時は、誰も知らない。父だけがご存知である。」とありますから、ずっと起きていないといけないことになります。居眠りもダメでしょうか・・・いえ、ここで言われております「目を覚ます」は肉体的な修行のようなことが言われているわけでは、もちろんありません。今日まで共に聴いてきましたこの13章は、終末、終わりの日について語られてきました。26、27節にありますように、終わりの日には救い主がきてくださり、そして神の救いの御業を完成してくださることが語られておりました。ですから、その時まで惑わされないようにしなさい、耐え忍びなさい、最後までしっかり立ちなさい、と主イエスは弟子たちにお話になられたのです。ここで言われております「目を覚ましていなさい」はその言葉たちとつながって、信仰の目を覚まして、救いの日を待つ歩みをしなさい、ということが語られています。今日の御言葉の始まり、32節には、「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である。気をつけて、目を覚ましていなさい。」ここにありますように、「気をつけて」いなければならないのです。もし、いつであるのかを知らされていたとしたら、わたしたちは、その時だけ気をつける。そしてそれ以外の時は神を忘れ、様々なものに惑わされ、信仰の目が閉ざされて、見るべきものがきちんと見えなくなる。そのことが問題なのです。


■主人を待つ門番

それは今日の御言葉で主イエスがお語りになった門番のたとえ話でもよくわかると思います。34節以下で信仰者の歩みを旅に出る主人と門番にたとえて語っておられます。「それはちょうど家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたにはわからないからである。」このように書かれております。わたしたちキリスト者は僕として描かれ、主人のいない間、きちんと主人のことを思い過ごさなければならないと言われています。門番は目を覚まして見張り、主人の帰りを待つように言われているのです。主人がいつ帰って来るのかは、わからないからです。ここでは門番のことを特に取り上げて話されていますが、それは仕事を割り当てられた僕たち、皆同じことです。それぞれに責任を持たせ、と言われていますように、きちんと主人のことを思い過さなければ、その責任は果たせないのです。この「僕たちに仕事を割り当てて、責任を持たせ」と書かれておりますところは、6章7節で十二人の弟子たちに「権能を授け」と訳されている言葉と同じ言葉です。主人の留守の間、それぞれの僕に主人から割り当てられた責任、それは権能である、というのです。主人がしてきた仕事を割り当てる、後はよろしく頼む、と僕に託す、ということです。つまりそれは、主イエスが今までおひとりでしてこられたことを、弟子たちにお委ねになったということです。それは主イエスと共にいた弟子たちから、その弟子たちは群れとなり、共同体となり、そして建てられている教会となり・・・つまり私たちに委ねられているということなのです。繰り返しますが、それは単に主イエスと共にいた十二弟子だけ、もしくはそれを現代にあてはめて、教会の牧師たちだけのことを指すのではないのです。キリスト者すべては主の弟子であります。誰一人欠けることなく、主イエスから主の権威を委ねられ、この今生きる世にあって、主からの仕事が与えられているのです。主イエスは今、地上にはおられません。再び、この地に戻られることを約束されて、父の元へ昇られました。戻られるのはいつなのか、それはわからないのです。主イエスが再び来られるその時まで、私たちキリスト者は教会を守り続ける僕たちであります。そのように考えますと、「目を覚ましていなさい」と言われるその言葉は信仰の目のことが言われているのがお分かりいただけると思います。


■ゲッセマネで眠る弟子

そしてこの「目を覚ましていなさい」という主イエスのご命令を弟子たちがどう受け止めたのか。主イエスと共にいた弟子たちは、この時この後にやってきます主イエスの十字架、死、そしてそれに続く復活の御業、救いの御業を見てはおりません。ですから、主イエスのお言葉をしっかりと理解していたわけではないのです。この13章の神殿の崩壊に始まる「終末の徴」の主イエスのお話を自らに重ね合わせることは彼らには難しいことでありました。そのことがこの先の14章32節以下で示されております。ここで使われている「目を覚ましている」この言葉は今日の箇所とこの後のゲッセマネで主イエスが祈られる時、弟子たちに「ここを離れず、目を覚ましていなさい」にあり、「目を覚ましているように」と命じられたにもかかわらず、主イエスが祈りを終えて戻って御覧になると、彼らは眠っていたのでありました。主イエスは言われました「誘惑に陥らぬよう、目を覚ましていなさい。」このように今日の箇所と後に読むことになりますこのゲッセマネの祈りは深く結びついております。

この時の弟子たちとは異なり、主イエスの十字架と復活を知っております私たちは、主イエスのお言葉「目を覚ましていなさい」の意味を受け止めることができるはずなのです。


■パウロのすすめ

このことをパウロがテサロニケの人々に書き送っている言葉から聴きたいと思います。テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章1節以下です。パウロはこう言います。終わりの日はたしかにいつ来るかわからない。しかし、主の日が来ることは私たちを脅かすものではない。そなぜなら・・・4節以下にこうあります。兄弟たち、あなたがたは暗闇のなかにいるのではありません。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは夜にも暗闇にも属していません。従って、他の人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。ここでも「目を覚ましていること」が大切であると述べられています。今日の聖書箇所では夜中の門番という譬えが使われましたけれども、それはこの「目を覚ましている」ということをよくわからせるための譬えでありますから、矛盾するわけではありません。キリストという主人に従っている者たちは、他の人々とは違って明るい光の中に置かれているのだとパウロは言うのです。そして「身を慎んでいよう」と言っています。これはいつ主人が戻ってきても大丈夫なように日々、目覚めの心で生きるということであります。パウロは続けます。その目覚めの心で生きることは、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶって生きることであると言います。そうして主の業に生きる。それは日々の生活のなかで主の業にいそしむことに喜びを見いだして生きるということでもあります。パウロはこのようにテサロニケの人々を励ましています。コリントの信徒への手紙Ⅰ13章の有名な信仰、希望、愛がここでもつかわれておりますけれども、ここでこの言葉が使われていることからも、この3つが単なる感情的なものでないことは明らかであります。信仰は福音に対する確信であり、愛は人々の中にあって、信仰を具体的な行為として具現化するものであります。そして希望は主イエスがふたたびきてくださるという再臨に対する確固とした期待なのであります。


■結び

主イエスは、32節で「その日、その時は、誰も知らない。父だけがご存知である。」と言われました。父だけが知っておられるということは何という慰めでしょうか。父なる神、私たちは主イエスが執り成してくださるがゆえに、神を、「アバ、父よ」と呼ぶことが許されており、私たちはこの神から、子とされているのです。そうであるとすれば、もはや、「その日」をいつと問うことは愚かなことであります。前回もお話しいたしましたように、ルターは「たとえ明日、世界が滅びようとも、今日、私はリンゴの木を植える。」と申しました。それは父なる神への絶対的な信頼があるからであります、神のもとにある希望が言わせる言葉であります。

この13章は十字架が間近に迫っておられる主イエスが弟子たちに教えた最後の総括であります。耐え忍び、気をつけて、目を覚ましていなさい、と語られてきました。そのような言葉が並びますと、ずっと緊張を強いられるように感じるかもしれませんが、決してそうではないのです。居眠りが見つかったら大変だという恐れではなく、喜びをもって待ち望みつつ生きるということなのです。「父だけがご存知である。」ということは、わたしたちには知らないということであり、それは確かにある種の緊張感の中に生きるということでありましょう。そのように生きる私たちの歩みにおいて、主イエスは共にいてくださるのであります。先ほどのテサロニケⅠ5章10節でもパウロはこういっています。「それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」まさに主イエスはわたしたちと共に生きてくださっているのであります。主イエスが父なる神に絶対の信頼を置かれたように、主イエスと共に生きる私たちも父なる神を信頼してすべてをお委ねすることができます。私たちのこの先にどんなことが起こるのか、また、この世界にどんなことがおこるのかはわかりません。それを知ることもできません、しかし、自分がすべてを知っている必要はなく、知らないことで不安になる必要もありません。逆に申しませば、父なる神がすべてを知っておられ、必要な救いを与えてくださるという大いなる安心であるのです。わたしたちに知らされていることは、主イエスが必ず帰って来られるということ、そしてその時にはすべてが神の支配におかれ、救いが完成するということです。その約束を信じ、目を覚まして、忍耐と希望、そして喜びを持って、それぞれに委ねられている務めを果たす者でありたいと思います。

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