『生きる神の言葉』2025年12月7日
- NEDU Church
- 6 日前
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説教題: 『生きる神の言葉』
聖書箇所: 旧約聖書 エレミヤ書36:1-10
聖書箇所: 新約聖書 マルコによる福音書7:1-13
説教日: 2025年12月7日・待降節第2主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
待降節の第二主日を迎えました。救い主の誕生を待ち望む時です。私たちはすでに救い主である主イエスがきてくださったということを知っておりますけれども、キリスト以前の人々は救い主を待ち望みながら、与えられないままに死を迎えることとなったという人々が多くあります。その中には、民は受け入れなくともその神の言葉を語り続けた預言者もいます。今日、私たちに与えられた旧約聖書はエレミヤ書36章1節以下、この預言者エレミヤもその一人であります。
■預言者エレミヤ
エレミヤが預言者として召されたのは、紀元前627年、南ユダ王国ヨシヤ王の時代でした。北イスラエル王国はすでにアッシリアに滅ぼされていました。南ユダ王国も揺れ動き、南からエジプトが勢力を伸ばし、北からはアッシリアを滅ぼしたバビロニアが侵略の機会を狙っていました。国内では、支配者に納める貢ぎ物を調達するために民には重い税金が課せられ、また王や貴族たちは自分たちの保身だけを考えて、民の苦しみには目を向けませんでした。王は民の不満を鎮めるために、エルサレム神殿に礼拝さえすれば、国は安泰となり、生活も安定するとして神殿礼拝を推奨しました。そのような風潮の中で、エレミヤは「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」という神からの言葉を語りました。エレミヤ書7章に記されている神殿での預言です。しかし、これを聞いた祭司たちは怒り、エレミヤは殺されそうになります。王の書記官の取りなしで命は助けられますが、これ以降、エレミヤは神殿への出入りを禁止されてしまいました。
■バルクによる巻物の朗読
そのような背景があり、時は今日のエレミヤ書36章へと移ります。ヨシヤの子ヨヤキムの第四年とあります。ヨヤキムの即位が紀元前608年とされていますから、604年のことになるでしょうか。バビロニアでは王ネブカドネツァルが即位した年です。主の言葉がエレミヤに臨みました。2節、3節です。「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」あなたが語ってきた言葉、それはエレミヤが預言者として神の言葉を民に伝えてきた言葉、すべて、ということです。エレミヤは627年に召命を受けましたから、すでに20年以上、語り続けてきたということになります。エレミヤは召命の時、すでに北からの災い、つまり、バビロン捕囚について語っています。「主はわたしに言われた。北から災いが襲いかかる/この地に住む者すべてに。」エレミヤ書1章14節です。そして実際にバビロニアがエルサレムを陥落し、民を捕囚として連れ帰ったのは紀元前598年ですから、捕囚はここから12・3年後の出来事になります。そのような民にとって厳しい預言をするエレミヤは民から受け入れられなかったのです。エレミヤは書記のバルクを呼び寄せ、彼に示されてきた神の言葉をすべて口述筆記させました。そしてエレミヤは神殿に入ることを禁じられておりますから、書記のバルクが書記シャファンの子ゲマルヤの部屋から、その窓を開いて、すべての人々に巻物を読み聞かせたのでした。今日、読んでいただきましたのは10節までにいたしましたけれども、その後、11節以下を見てみますと、それを聞いたミカヤが役人たちに聞かせてくださいといって、書記バルクは2度目の朗読をすることが記されています。それを聞いた役人たちは、このエレミヤの忠告を真摯なものと受け止めて、この言葉は王に伝えなくてはならないと判断しました。「このままだと国は滅びてしまう。神に立ち帰り、政策を変えなければならないと思ったのでした。そしてその後、20節以下には、再度、このエレミヤの巻物が王の前で朗読されるわけですが、王はそれを拒絶し、巻物をナイフで切り裂き、暖炉の火に投げ入れ、ついに巻物をすべて燃やしてしまったということが記されています。当時、神に立ち帰る、つまり、悔い改めるには衣を裂いて灰を被るということをしましたが、王のヨアキムは自分の衣ではなく、巻物を裂き、そして巻物を灰にしてしまったのでした。王はバルクとエレミヤの命も狙いましたが、主が二人を隠されました。そして主の言葉がエレミヤに臨みます。「改めて、別の巻物を取れ。ユダの王ヨヤキムが燃やした初めの巻物に記されていたすべての言葉を、元どおりに書き記せ。」こうしてエレミヤは改めて口述し、バルクがそれに従って書き記しました。これが今のエレミヤ書のもとになっていると言われています。
■神の言葉を書き記す
なぜここまでしてエレミヤ書は書き記されたのでしょうか。それは神の言葉を書き記せという神の命令があったからです。そしてその目的は「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。」からでありました。そして神は「そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」と言われました。神はイスラエルの民の罪を赦そうとして聖書を記述させたということです。神はイスラエルの民のみならず、今、聖書を読む私たちが神に立ち帰り、神に悔い改めを求め、そして神が私たちに罪の赦しを与えるために聖書を書き記させたということなのです。神の言葉が記される、そしてそれを聞く者たちはその言葉を聞くように、というのが神のご命令です。聖書がこのような形で成立したその背後には神の救済のご意志が働いているのです。王ヨヤキムによって燃やされた聖書、神の言葉でしたが、神は元どおりに書き記せ、と言われました。これは神の民とされたイスラエルの人々のため、そしてすべての人々を救いへと導くための神の熱い思いであるということです。そのようにして、神は御言葉に生きよと言い続け、罪から救いへと私たちを招き続けてくださるのです。神の言葉はたとえ火の中に投げ入れられて闇に葬ろうとする者があっても、神は何度でも「もう一度書き記せ」と言われるのです。預言者イザヤも同じ言葉を語ります。40章8節、「神の言葉はとこしえに立つ。」私たちにはこの強さが与えられています。そしてそれは主イエスという人、神の言葉を民に直接に語ることのできるお方、として示してくださったということです。
■古い契約の破棄
エレミヤが先ほどの巻物を再作成して勧告したにもかかわらず、王ヨヤキムは悔い改めず、紀元前598年、バビロニア軍が南ユダ王国を侵攻し、王ヨヤキムは戦中に命を落としました。その子であるヨヤキンが王となりますが、バビロニア軍に捕虜として連れていかれ、バビロンで生涯を終えます。紀元前587年には再びバビロニア軍がエルサレムを攻め、宮殿も神殿も焼かれて、南ユダ王国は滅びました。エレミヤは預言を続け、エジプトでその生涯を終えました。書記のバルクはエレミヤの預言を記し続け、ユダヤに戻り、絶望の中にいる人々にエレミヤの言葉を伝えました。エレミヤの預言の成就を見た人々は、廃墟となったエルサレムで、また捕囚地バビロンで悔い改めたのでありました。絶望の中でこそ、神の言葉は聞かれて、それから今までエレミヤ書は人々に慰さめを与え続けているのです。
エレミヤ書において、最も重要な箇所はエレミヤ書31章31節-33節であろうと思います。このように記されています。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」ここに記される「新しい契約」それがまさに「新約」であり、主イエスの到来を告げるものであると私たちは理解しています。この箇所はエルサレムが陥落して、人々が絶望の中にいる時に主がエレミヤに語らせた言葉です。エルサレムの陥落、それは古い契約が破棄されたということです。「わたしの新しい律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」と神は言われました。
■神の計画の成就
今日の新約聖書で主イエスは「昔の人の言い伝えによって神の言葉を無にしている」と言われました。この「昔の人の言い伝え」とは律法そのものというよりは、律法を守るための細則ともいうべきもので、人々を縛るものとなっていました。本来、神の言葉である律法は人々を生かし、人々が正しく神との関係に生きるためのものでありましたが、ファリサイ派や律法学者たちによって、律法が人々を支配し、神の言葉が神の言葉として生かされなくなっていました。主イエスはそのような律法ではなく、新しい律法を示してくださいました。イスラエルは「あなたの神、主に従いなさい」と命じられ、そして選ばれた民であったにもかかわらず、破滅への道を歩みました。それらの人間の罪を赦すために、神は新しい律法を、新しい契約を、主イエスという神の子を人としてこの世にお遣わしになることで示されたのです。エレミヤはこの国の滅亡を神のご計画、神の祝福として捉えています。エレミヤ書29章11節「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」この祝福の計画の成就のために、主イエスが来てくださったのです。
■結び
主イエスはそうしてこの世に新たな契約、新たな律法をお示しになり、そして神の我々への祝福の計画を成し遂げてくださったのです。主イエスは捕えられる前日、弟子たちと共に最後の晩餐を持たれた時、このエレミヤの「新しい契約」を引用されました。ルカによる福音書22章20節「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」主イエスは預言者エレミヤが焼かれても再び書き記し、神の思い、神の愛、神の赦しを生涯、語り続けたことを思いながら、この言葉を口にされたに違いありません。神の言葉は生き続け、そしてエレミヤが待ち望んだ新しい救いの契約は、こうして私が引き継ぐ、私が残し続ける、そう言っておられるのです。今日、私たちはこの後、聖餐に与ります。エレミヤによって語られた神の言葉が私たちの中に生き続けるよう、主イエスという救い主が与えられたクリスマスを待ち望み、そして主イエスの十字架の前にひざまずく、今がその時であります。感謝を持って、聖餐に与りたいと思います。


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