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『生きている者の神』 2023年7月2日

説教題: 『生きている者の神』 聖書箇所: マルコによる福音書 12章18~27節 説教日: 2023年7月2日・聖霊降臨節第六主日 説教:大石 茉莉 伝道師

■はじめに

今共に読んでおりますマルコ12章は主イエスがエルサレムへ入られて、十字架にお架かりになるまでの5日の間の出来事であります。神殿から商人を追い出したことが記されていた11章15節のあと、権威についての問答、皇帝への納税についての問答、が記されておりました。そして、今日の復活についての問答、と彼らとの論争が続いております。ここまでの対決の共通の主題は「権威」であります。明らかに「神の権威と力」のことが示されているのです。そして、権威問答、納税問答、それに続いて今日の箇所では復活についての問答であります。ここも同じように、神の権威と力について語られています。


■真打ち登場

さて、復活についての論争に登場しますのは、サドカイ派です。主イエスを捕えるために、ファリサイ派とヘロデ派が手を組んで罠をかけたものの、失敗に終わってしまいましたから、真打ち登場です。サドカイ派がモーセの律法の厳守の問題を取り上げて主イエスのもとにやってきたのです。18節冒頭にありますように、彼らは復活などない、と言っている者たちでありました。このサドカイ派は政治的な党派であり、最高法院、サンヘドリンの議員の大半を占めていました。大祭司はこのサドカイ派から指名されていました。彼らは当時の体制の中で、特権階級、上流階級に属していた人々であり、ローマ帝国の支配下にあって、ヘロデ家やローマ軍に妥協的な祭司貴族でありました。ローマの軍隊により政治的治安が維持されて、神殿での礼拝が認められ、自分たちはその中で祭司の役割が果たせれば安泰と考えていたのです。そして彼らは旧約聖書の経典化されたモーセ五書のみを正典として認めていました。つまり、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五書のみであり、ここに書かれてある律法だけを重んじていました。このモーセ五書に書いていないことは否定するというスタンスです。モーセ五書には復活について明確に書かれていません。ですから、彼らは復活を否定する、という立場をとるのです。別の言い方をしますと、彼らは特権階級にあり、経済的にも社会的にも安定しており、この世の生活においては満ち足りており、現世社会での満足に価値を置く現世主義であったともいえます。この世の生活において満ち足りることに関心があり、この世における幸福が彼らの関心事でありましたから、死後のことには関心が向かなかったのです。復活によって与えられる新しい命よりも、今の生活における幸福の方が大切であったのです。

ファリサイ派も律法を重んじる律法主義者でありますけれども、ファリサイ派はモーセ五書だけでなく、それを軸として次々と加えられる掟についての解釈や口伝律法と言われるものをも含めて律法として重んじました。その点で大きく異なっております。また、ファリサイ派は民の中で生きていました。律法学者である彼らは民衆が神の民イスラエルとしての自覚と誇りを持って生きるために、律法に基づく生活を教え、勧めていたのです。そしてローマによる支配を屈辱的と思い、現実から解放される救いを信じていました。ダニエル書12章2節以下にこうあります。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。」死は眠りであり、苦難の後、眠りから覚める時が来る。そして永遠の命に与る人々は星と輝く、という希望が語られています。ファリサイ派の人々はここに書かれている復活、永遠の命を信じ、希望を見いだしていました。このようにファリサイ派とサドカイ派では、律法理解もその生き方も大きく異なっていたのです。この両者の復活をめぐる対立は使徒言行録23章6節以下に記されています。


■サドカイ派の質問

さて、サドカイ派の人々が持ち出した質問は申命記25章5節以下に書かれている律法のことでありました。男子には一族の名を遺す責任がありました。子孫を残し、家系を絶やさないことが神の祝福を受け継いでいることであったからです。本人が子どもを残さず死んでしまった場合、夫を亡くしたその妻がその兄弟と結婚し、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせる、レビラート婚と言われるものがありました。それはその一族の名前がイスラエルの中から絶えないようにするためのものであったわけです。

彼らはその律法を根拠にしながら、極端な想定事例をあげます。七人の兄弟があり、長男が妻を迎え、そして跡継ぎを残さずに死んでしまいます。そのため次男がその女性を妻に迎えますが、やはり子供を残さず死んでしまいます、三男も同様であり、結局、七人の兄弟皆同じでありました。そしてその女性も亡くなる。さて、復活の時、その女性は誰の妻ということになるのでしょうか?という質問です。彼らは例として七人をあげました。『七』というのは完全数でありますから、彼らとしてはそれをもって、もれなく、自分たちのその喩えの正当性を主張したかったのでありましょう。彼らのこの質問は架空の話です。実際に、現実に、このような境遇の女性がいて、死後の命の問題で悩んでいるというのではないのです。彼らの律法理解は人々の中で生きる律法ではなく、ただの規定であり、これだけで申命記が律法として意図し、指し示していることからも離れています。そして彼らは復活を信じていないのでありますから、この23節にある「復活したら」という条件文も馬鹿にした表現であります。議論を吹っ掛けるためだけの空しい質問であります。


■主イエスの答え

主イエスは言われました「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」ここでは「思い違い」と訳されていますけれども、実際に主イエスの言われたお言葉はもっと強い意味であろうと思います。思い違いといいますと、誤解とか、思い込みとか、意味を取り違えた、というようなニュアンスで理解するのが普通でありましょう。たしかにこの言葉はそう訳されることもありますが、誤りを犯すという意味があります。そのような強い意味であろうと思います。また、別の意味には「迷い出る」という意味もあります。有名なルカ福音書にあります、100匹の羊の内の1匹が迷い出た、という時に使われている言葉です。ですから、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、迷い出てしまっている、それは滅びにつながっているものなのだ。」と言われたということでもあるのです。なぜ迷い出てしまっているのか、それは「神の力を知らないから」です。これは主イエスの痛烈な皮肉ともとれるお言葉であります。「聖書も神の力も知らない」と主イエスは言われました。「聖書」とはこの時代は旧約聖書のことであり、学問的には研究しているかもしれないが、究極的な神の力を信じないで聖書を解釈する。それは聖書も神の力も知らないあなたがたのこと、と主イエスは言われました。聖書を知り尽くし、すべて暗記しているほどの彼らなのです。この言葉を聞いて、おそらく怒りを燃えたぎらせたに違いありません。聖書を読んでいても、自分の理解の範囲で理解しているにすぎず、それは本当の意味での聖書を知るということではないのです。彼らはこの世を満足に生きていくための知恵を読み取っていただけとも言えるでしょう。聖書を知るということは、私たちの力を大きく超えた神の力を知る、ということなのです。

死者の中から復活するときには、「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる。」主イエスはそう続けられました。「めとる」とか「嫁ぐ」、婚姻関係というようなルールはこの世における事柄であり、復活の命においてはそのようなことは全く関係ないと言われました。サドカイ派の人々は復活を単にこの世の人生の延長上に捉えていたことがわかります。だから、復活したら誰と誰が夫婦なのか、という問いになるわけです。主イエスはそれを否定され、そして言われたことは「天使のようになる」であります。「天使のようになる」と聞きますと、私たちは白い衣をまとって、羽根があり、頭に金の輪があって・・・というように描かれる天使の姿を想像いたします。そのようなイメージが先行してしまう言葉でありますから、あまり良い訳とは言えないかもしれません。聖書の翻訳の難しい所でもありましょう。原文に忠実に訳しますと、「天にいるみ使いのようになる」であります。天はしばしば神と同義語とされてきました。ですから、神のもとにある者となる、とも言うことができるでしょう。私たちが今生きているこの地上とは異なる天にいる者となる、神のもとで、神と結ばれて歩むということが、復活の命を生きるということであります。ですから、婚姻関係というような人間の絆を超えて、神との絆において生きるということなのです。


■生きている者の神

そして主イエスが引用されたのは出エジプト記3章「柴」の箇所です。「神がモーセにどういわれたか、読んだことがないのか」と言われました。はじめに申し上げましたように、サドカイ派はモーセ五書のみを正典として、自分たちの拠り所として律法を守っている人々であります。そらんじているともいえる正典を「読んだことがないのか」とは主イエス、これまた痛烈なパンチを彼らに送りました。この柴の箇所とはモーセが神に召し出され、エジプトから逃れるイスラエルの民の指導者となる。神の山ホレブにおいて、火が燃えているのに燃え尽きない柴がある。その柴の中から語りかけられる神の言葉をモーセが聞くのであります。その時、神が名乗りを上げられたお言葉が「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」でありました。この御言葉が死者の復活のことを語っていると主イエスは言われたのでありました。神の自己紹介ともいえるこのお言葉、これは単に、イスラエルの先祖アブラハム、そしてその子供であるイサク、孫であるヤコブ、を導いた神である。」という人間の歴史の系図、その継続を示されたのではありません。「あなたの父が生きていた時、わたしはあなたの父の神であった。」とは言われません。「アブラハムが生きていた時、イサクが生きていた時、ヤコブが生きていた時、わたしは神だった。」とも言っておられません。それは過去形ではなく、現在形なのです。「わたしは彼ら一人一人の神である。」、と「である。」、と今、神であられること、神が今、生きておられることが宣言され、そしてそれは、彼らが今、神のもとで、神と結ばれて歩むということが、復活の命を生きているということが語られているのです。それゆえに、主イエスのお言葉がこのように続きます。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。生きておられる神が、神に従う者を生かし、その神であり続けられる、という宣言です。


■結び

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、つまり、それは、わたしの神、あなたの神であります。わたしたち一人一人の名を呼んで、その命の御手の中で生かしてくださるということであります。イザヤ書43章1節「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」と主は言われます。この御言葉は私たちの救いです、わたしたちの信仰です。こうして生きておられる神が私たちの名を呼んでくださるのですから、わたしたちの命は肉体の死によるものを超えるのです。

主イエスは今日の御言葉をお語りになった僅かあとに、十字架につけられ殺されました。死といのちのせめぎあいの緊張の中で、主イエスは生きておられる神についてお語りになられたのです。主イエスは父なる神を、御自身の神として従順に歩みぬき、生き抜かれました。そして、神はその主イエスの神として愛を注ぎ続けておられました。そのような永遠なる御方との人格的交わりに入る者は、死と滅びを乗り越えて、復活、新たな命の中に生きるのです。主イエスは三日の後の日曜日の朝には、復活されました。わたしたちは生きておられる神の御手の中で生きる、み使いのようなものと主イエスが言われたような霊的な存在に変えられ、永遠なる御方と直接的な交わりができる存在として新たな命が与えられて生きるのだと、そのことをご自身の復活によってお示しくださったのです。神は「わたしはあなたの神」と一人一人に臨んでくださる、これに勝る幸いはありません。


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