『父なる神のまなざし』 2025年1月5日
- NEDU Church
- 1月6日
- 読了時間: 9分
説教題: 『父なる神のまなざし』
聖書箇所: 旧約聖書 エレミヤ書9:22-23
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書6:1-8
説教日: 2025年1月5日・降誕節第2主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
主の年2025年の最初の主日を迎えました。共に新しい年を迎えられましたことを神に感謝いたします。元旦礼拝でもお話しいたしましたけれども、主のご計画を尋ね求め、主にある喜びのうちに歩んで参りたいと思います。アドヴェントからご降誕の喜びを分かち合う12月は主イエスが人として来てくださったその神様のご計画から聴くためにマタイの連続講解から離れましたが、今日の主日から再びマタイに戻りたいと思います。5章から7章は山上の説教と言われる主イエスの教えの箇所で5章は主イエスの愛の律法が示されていました。そして今日から6章に入ります。この6章では小見出しを見ていただくとお分かりになる通り、〜するときには、という文字が目につきます。ですから、日々のわたしたちの生活においての主イエスの正しさ、神の義、神の正しさが示されているのです。
■施し・祈り・断食
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」今日の御言葉はこのように始まっています。この言葉を中心としてこの後3つのことが語られていきます。それは施し、祈り、そして16節以下の断食です。今日の2節には「人からほめられようと」とあり、そして5節には「人に見てもらおうとして」とあります。さらに16節にも「人に見てもらおうと」という共通の表現があります。祈り、施し、そして断食。これらのことは当時のユダヤ人たちの信仰生活にとって、とても大事なことであり、そして生活に密着したことでありました。これらのことをする際、その動機が大切であるということです。誰に向かってするのか、人から褒められるためなのか、人に見てもらうためなのか、ということが問うておられるわけです。そしてこれと対になるかのような表現が同じく3箇所に出て参ります。4節「隠れたことを見ておられる父」、6節、18節に「隠れたことを見ておられるあなたの父」と書かれています。この対比はマタイの計画的な表現であります。人間と神、「人に見てもらう」と「神が見ておられる」、今日の箇所の中心テーマがそこにあります。
■心の底に
人間は何かをなすとき、なんらかの報い、つまり見返りを無意識でも期待しています。例えば、誰かに対して、何かをした時、その人はお礼が欲しくてしたわけではないとしても、もし相手が「ありがとう」の一言もないとしたら、気分を害したり、その人に対してマイナスな感情を持つというのは普通の反応であるといえましょう。人として当然のことをしただけであったとしても、ありがとうというお礼の一言は当然の報いであるとして無意識のうちに要求しているのです。それは人間の持つ本能的なものと言えるでありましょう。3節に「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とありますけれども、人間は心の底では、自分のしたことを知ってもらいたいという思いがあって、できることなら、人からの賞賛や褒め言葉が欲しいと思っているのです。右の手を左の手どころか、右の足にも左の足にも、知らせたくて仕方がない、それが人間の本性であります。人から認められたい、自分を価値ある存在として認められたい、という願望です。それは心理学的な用語として言われるところの、承認欲求というものです。
今で言えば、SNSの時代で、みた人が共感したりすると「いいね」とポチッとクリックします。いいねの数が多いことでその人の評価が高まったような感じになる。確かにそのようにして評価が上がることは単純にそれによってモチベーションアップにはつながるかもしれません。そのように認められるならば、もっと良いものを見てもらいたいとか提供したいというような意識につながるのでありましょう。しかし、主イエスは「そうやって人に知ってもらい、人から褒められたところでそれが何だ」と言っておられるのです。
■神への義の表し方
11月の最後の説教で、マタイ5章の神の義についてお話しいたしました時に、今日の箇所の1節、「人の前で善行をしないように注意しなさい。」の「善行」これが「義」という言葉と同じであり、神に対する義の表し方が示されている、という話をいたしました。ここで示されている「施し」、「祈り」、「断食」それらは全て神に対して義を表すためのものであり、つまり、神に向かって、神のために行われるものでなかったら意味がないということです。誰に認められるためのものであるか、ということです。先ほどお話ししたように、人間の心の底には、誰もが認められたいという願望を潜ませているわけですから、主イエスはそれに「注意しなさい」と言われるのです。私たちは神に心を向ける、そのことを意識し、注意しなかったら、神をそっちのけにして、人に見てもらうための良い行い、人に聞いてもらうための祈り、人から頑張っているねと言ってもらうための断食をしてしまうということです。そうして、自分の目は神に向くのではなく、自分に焦点を当てて、神を喜ばせる代わりに、そのような行為をしている自分を満足させることを望んでしまうということです。
それゆえに主イエスは、神に焦点を合わせるために、「祈る時は、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」と言われるのです。一人でいる時の自分、それが本当の自分です。私が今、祈っていることを知っている人が少なければ少ないほど良いのです。祈りは神と自分との対話です。言葉を飾る必要もありませんし、あなたと父とのやりとりなのですから、何でも打ち明けたら良いのです。パウロは、こう言いました。「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」フィリピ4章の6・7節です。一人になった部屋で、たとえそれが本当に戸の閉まった部屋でなくとも、父なる神との対話である祈りによって、人知を超えた主イエスにある平安が与えられ、喜びが与えられるのです。このような平安と喜びが神から与えられる報いであります。
今日のエレミヤ書にありましたように、人間は自分の知恵を誇り、力を誇り、富を誇る。それがマタイ5章に出てまいりましたファリサイ派の人々の義であります。エレミヤが「誇る者は、神を知ることを誇りなさい。」と言いましたように、私たちの義はただ神を誇る、自分を誇るのではなく、主を誇る。このことに尽きるわけです。
■偽善者
今日の箇所で何度も登場している「偽善者」という言葉は、元々は俳優とか役者を意味する言葉です。役者は人に見られることを意識して役を演じるわけです。また、「見てもらおうとして」の「見られる」という言葉は、テアトロ、つまり劇場という言葉の語源となっています。ですから自分を舞台の上に置いて、観客がいる状態をイメージしてください。その舞台の上で、何か良い行いをする、また、祈りを捧げる。どうでしょうか?それは誰のためであるか、と言えば、その舞台を見ている観客のために演じている自分がいるということがよくお分かりになることでしょう。役者は自分の本来の顔ではなく、その役の仮面を被り、その役になりきる。演劇としてみた場合には、そこに描かれる世界にリアリティを見出し、感動したりするわけですが、それが舞台ではなく、日常の生活の中で行われた時、それは神によってその仮面を剥がされる、神の前では通用しない偽りであるということであります。主イエスは、偽善者たちはすでに報いを受けている、と言われます。この「報いを受ける」というのはどのような意味かと申しますと、原語では「清算済み、支払い済み」というような意味があります。つまり、彼ら、偽善者は人から褒められ、人からの評価を受けて、それで十分で満足しているということであり、天の父からの報いを必要としないということです。
■現実の中で
しかし、私たちが今、生きている社会、現実は常に何かの舞台の上にいると言えます。常に誰かから見られています。人は一人で生きているわけではありません、必ず、誰かとの関わりの中に生きており、身近なところでは、夫婦、家族。その関係性を見てみても、私は一人の人間でありながら、夫であり、父である。自分の父母に対しては、息子である。所属する会社においては、例えば経営者である、部下を持つ役職者である。妻であり、母であり、娘である。子どもの立場であったとしても同じことです。友人に対して、両親に対して、学校の先生に対しての自分がある。それぞれ見せる自分があるのです。職場において、家庭において、それぞれがいくつもの顔を持っているというのが現実であります。それらは全てその立場、その関係において、必要なことでありましょう。むしろ、それぞれにおいて適切な自分を見せられること、それが社会性のバロメーターでもあると言えるでありましょう。言い方を変えますと、私たちは計算ずくの世界に生きていると言えます。
■結び
そのような計算ずくの世界に生きる私たちに与えられているのが主イエスの教え、神に従って生きるという信仰です。これは決して相反することではなく、むしろ、この現実世界を生きていくにあたって、私たちを自由にし、豊かにするものではないでしょうか。自己満足で自分を慰める必要もなく、誰かの評価を気にすることもなく、神の子とされて、神が見てくださっているということ、これが神の恵みであり、神のすばらしい報いであります。この報いは自分の頑張りとか、良い行いによって得るのではなく、ただ主イエスにおける神の恵みによって、すでに与えられているのです。その恵みの中で私たちは生きる。その生き方は、人の目から自由になり、神が見ていてくださるということに大いなる喜びを得ることができます。私たちのために、主イエスを遣わしてくださった父なる神は、私たちの隠れた行いを見ていてくださり、私たちそれぞれが一人で祈る、その祈りを聞いてくださり、喜んでくださるのです。周囲から評価されなくとも、誰も見てくれなくとも、私たちには父なる神の愛のまなざしがあります。主イエスによる罪の赦しがあります。そして聖霊に導かれて歩むことができるのです。この父なる神のまなざしに支えられ、神の愛のうちに置かれて生きる私たち、それはなんと幸いな歩みであろうかと思うのであります。
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