説教題: 『溢れ出る神の恵み』 聖書箇所: マルコによる福音書 7章24~30節 説教日: 2023年1月8日・降誕節第三主日 説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
アドヴェントの時から主のご降誕までルカによる福音書から与えられる御言葉に聴いてまいりましたが、今週から再びマルコによる福音書に戻ります。今日は7章24節から30節の御言葉が与えられました。まず、聖書巻末の地図、6.新約時代のパレスチナ、というところをご覧ください。地中海沿い、ずっと北の方にティルスと記されているところを見つけることができると思います。今まで読んでまいりました主イエスの活動の場はガリラヤ湖を中心としたところでありました。今回の舞台、主イエスが行かれたティルスはかなり離れた場所であります。そして見ていただいている地図にも点線の境界線が引かれているように、ここはもうユダヤ人の地ではなく、異邦人の地であります。かつてソロモン王がエルサレム神殿を建設した時、つまり紀元前970年頃、ティルスの王がレバノン杉や金などをソロモン王の望むとおりに提供してくれたために荘厳な神殿の建設が可能になったと言われています。また、紀元前874年から22年間在位した北イスラエルの王アハブの妻イザベルはティルスの北にあるシドンの出身でありました。そのため、彼女の影響でバアルやアシラという偶像礼拝がイスラエルに持ち込まれました。そのようにユダヤ人と関わりはある所ではありましたが、異邦人の土地、そしてまたユダヤ人に対する敵意の強いところでありました。
またこの地は港町でありますから貿易が盛んでした。そのため、ギリシア系の住民が多かったようです。主イエスはこの地に誰にも知られないように行かれたのでした。ということは、伝道が目的ではなかったようです。明確な理由は書かれておりませんけれども、すでに悪化していたファリサイ派を避けるため、また、8章に入りますと、主イエスが明確にご自身の受難を予告されていきます、その前に弟子たちと深い交わりの時、神の御心を仰ぐために祈りの時を持つ、そのような目的のために行かれたのではないか、とも想像できます。
それでも主イエスのことはすでに遠く離れた異郷の地まで伝わっていました。主イエスがこの地に来られていることを聞きつけて、見つけ出す女性が現れたのでした。
■シリア・フェニキアの女性
その女性はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれとあります。ギリシア生まれかどうかはわかりませんが、ギリシア語を母国語としていたという意味でしょう。北アフリカもフェニキアと呼ばれる国がありますから、それと区別するために、シリア・フェニキアという呼び名が付いたそうです。このティルスというのは、シリア・フェニキアに属しておりますから、この女性はこの土地の人ということになります。その女性の娘は「汚れた霊に取りつかれていた」とあります。幼い娘がそのように、汚れた霊に取りつかれたとしか言いようのない状態になり、苦しんでおりました。母親である彼女は何とかしてやりたいと思っても、どうしてよいかわからず、何もできず、娘の苦しむのを見守るしかなかったのでしょう。主イエスが癒しの御業をなして下さるお方であるということは、このティルスにも知れていました。3章7節以降に、あらゆる地域から人々が主イエスの来ておられることを聞いて、集まってきて主イエスに触れようとしたと書かれておりましたが、その中にティルスという地名もありました。ですから、この女性も主イエスのことは聞いて知っていたのでしょう。主イエスというお方が来られた。娘を汚れた霊から解放してくださるのは、きっとこのお方に違いない。そう思っていた女性は、主イエスの元に来て、その足元にひれ伏します。そして「娘から悪霊を追い出してください。」と癒しを求めたのです。
■主イエスの拒否
しかし、主イエスはそっけない返事をされるのです。拒否と思える言葉です。27節です。「まず、子供たちに十分に食べされなければならない。子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」これはどのような意味かと言いますと、初めに出て来る「子供たち」これはユダヤ人のことです。ユダヤ人、イスラエルは神の選びの民です。そして小犬、これは異邦人のことです。「パン」と表現されているものは「神の救い、福音」のことです。主イエスは「わたしの救いは神の子どもであるユダヤ人のためのものであって、あなたのような小犬、異邦人に与える分はない」とこうおっしゃったのです。この主イエスのお言葉を聞くと、「主イエスは罪人のためにいらして、すべての民の救いのためにいらしたのではなかったか。」主イエスは異邦人伝道をされたのではなかったか、このような差別をする御方だったのか、と思ってしまいがちです。主イエスの語られたお言葉の背景を、じっくりと聖書が書き記している言葉、そして言葉にできない思いから聴く必要があります。
■神とイスラエルの契約
主イエスは父なる神の救いのご計画の実現のために遣わされました。主イエスは主の僕として、父なる神の救いの計画に忠実に従う僕であられました。その父なる神の救いのご計画が現実の出来事としてなるために選ばれたのは弱く小さなイスラエルの民でありました。すべての始まりは神がイスラエルと結ばれた救いの契約、選びの民の契約です。それはアブラハムの契約に始まります。創世記12章で神がアブラハム、この時はアブラムでありますが、を選ばれ、そして15章でアブラムに子供が与えられ、数えきれない星のように子孫が繁栄することを約束されたのです。そしてそれに続き、シナイ契約と呼ばれるモーセの契約があります。モーセは民を率いてエジプトを脱出し、紅海を渡り、そしてエジプト軍の追跡から逃れることができました。シナイ山で神はこう言われます。出エジプト記19章5節以下です。「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。」こうして神はイスラエルの民を選ばれ、契約を結ばれたのです。この選びと契約は旧約聖書を貫くテーマです。しかし実際には、イスラエルの民は、神に従わず、神への背きを繰り返してきました。主イエスは神に背き、父なる神の愛を受け入れないかたくななイスラエルを救うことを一番に考えておられたのです。すべての民が救われるためには、その基となる選びの民、イスラエルに真の福音が確立することが必要だと考えておられました。弱く小さなイスラエルの民に救いが与えられ、彼らに栄光が輝くなら、異邦人の誰もが神の大いなる働きを知るに違いないからです。
■「主よ、お言葉通りです」
主イエスは、こうして、父なる神のご計画に忠実に従い、イスラエルの民に真の福音が確立すれば、やがてはすべての民が救われていくと考えておられました。ですから、シリア・フェニキアの女性に対してあのようなお言葉を言われたのです。しかし、その拒絶の中にも主イエスは恵みを示されました。主イエスの使われた「小犬」という言葉です。ユダヤ人は異邦人のことを軽蔑、差別の意味を込めて、「犬」と呼んでいました。しかし、主イエスは「犬」ではなく、「小犬」という言葉を使われています。この女性は、主イエスの言葉を聞きつつ、その言葉の深い意味を読み取り、主イエスが示そうとされている恵みを聞きとりました。彼女は「小犬」という主イエスの言葉から、食卓の光景を思い描ききます。主イエスとフェニキアの女性の間に交わされた会話からは、次のようなシーンが浮かんできます。家庭で食卓についている子どもたちの足元には、愛犬、小犬がチョコンと座っています。子どもはなかなかお行儀よく食べることができず、パンくずをこぼします。そして食卓の下で待ち構えている小犬は、落ちてくるパンくずを喜んで食べるのです。子どもはもしかしたら、甘えてくる小犬の様子がかわいくて、わざとパンのかけらを落としたかもしれません。一緒に食事をしている親も気づきながらも、黙っていたことでしょう。小犬は尻尾を振って喜んで、落ちてくるおこぼれに与るのです。まさにこのような光景が浮かんでまいります。28節にこの女性は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパンくずはいただきます。」と言っていますが、口語訳聖書では「主よ、お言葉通りです。」と訳しています。主イエスの厳しい拒絶とも聞こえる言葉を、その通りですと受け入れました。彼女は来た時から、主イエスの足元にひれ伏していました。ひれ伏して、娘の悪霊からの解放を願うも主イエスは関心を示されず、そして拒絶とも思える言葉が彼女に投げかけられました。しかし、彼女は腹を立てず、お言葉通りです、と答え、そして主のお言葉の中にある恵みを聞き取ったのです。この女性は主イエスの恵みは溢れていると聞き取ったのです。思い浮かべた光景を口に致します。「かわいがられている小犬、愛犬であれば、こぼれたパンくずを食べても、あっちへ行けとは言われないでしょう。」そう思って、「食卓の下の小犬も、子どものパンくずはいただきます。」と言ったのです。
聖書には、主イエスと人々との対話、論争、会話、さまざま出てまいります。いつも主イエスが人々に教え、そしてそれは正しいものであり、勝ち負けでいいましたら、主イエスの一本勝ち、というものが常でありますが、ここではシリア・フェニキアの女性によって主イエスが説得させられた、という珍しい出来事が語られているのです。彼女は主イエスを脱帽させる機知に富んだ返答をしたのでした。
このシリア・フェニキアの女性の物語の前には、「汚れ」についての話が出てまいりました。律法学者たちは、異邦人や罪人は汚れており、汚れを取り除くために、手を洗って清めなければならないと定めていました。そして主イエスはそのような言い伝えに基づいて汚れているとか清いとかいう律法主義的な区別は意味がないと宣言されたのでした。そう宣言された主イエスが、今、ここティルスという異邦人の地に足を踏み入れておられるのです。つまりそれは主イエスによる救いが異邦人の地、シリア・フェニキアにも及んでいるということです。
■結び
はじめに申しました通り、神の救いのご計画は神の民イスラエルから始まるものであります。神のご計画の忠実な僕であられる主イエスは、背き続けるイスラエルの民の救いのために来られました。しかし、その恵みはユダヤ人、イスラエルに留まらず、あふれ出るものでありましょう。「異邦人は、その余って溢れる恵みでよいのです。その恵みに生きる者の中に、私を加えてください。私の娘も加えて頂きたいのです。」シリア・フェニキアの女性はそのように主イエスに願い出たのです。その姿勢はひれ伏して、そしてへりくだるものでありました。主イエスは言われました。「それほど言うなら、よろしい。」新共同訳ではこのように書かれていますが、口語訳聖書では「その言葉で、じゅうぶんである。」と訳されています。主イエスはこの女性と娘に恵みを注がれました。あなたが語ったその言葉のゆえに、娘は既に癒されている、と主イエスは言われたのです。主イエスは女性の願いを聞き入れ、娘についていた悪霊を取り去るという癒しの御業を行われました。
このシリア・フェニキアの女性の物語は、ユダヤ人と異邦人の問題を手掛かりとして、信仰とは何か、ということを示しています。
イザヤ書42章以下には「主の僕」によってイスラエルの民のみならず、神が新しい契約を結び、諸国の異邦人に救いがもたらされることを預言されています。
神のご計画の大きさ、そしてまた、主の僕によって異邦人にも救いがもたらされる、このイザヤの預言の成就にこのシリア・フェニキアの女性が大きく関わっていたのです。
謙虚に主の前にひれ伏し、へりくだって「主よ」と呼びかける。主の御前にひざまずくことの大切さをこの女性は教えてくれます。そうして主を仰ぐことで、主のみ声を聞くことができ、そして主の恵みをうけることができるのです。
イスラエルの民に注がれる神の愛、恵みがどんなに大きいか、あふれ出るものであるか、それを「私は知っています」と信仰告白をしたのは、この異邦人の女性でありました。私たちへの主イエスの救いは、この大胆にして謙虚なシリア・フェニキアの女性によって開かれたのであります。「主よ、あなたは恵みそのもの、恵みに溢れたお方です。」ひざまずき、ひれ伏して、へりくだって、そして主を仰ぎ続ける信仰を持ち続けたいと願います。
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