『清められた神殿として』2026年7月5日
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説教題: 『清められた神殿として』
聖書箇所: エレミヤ書7:1―11
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書21:12-17
説教日: 2026年7月5日・聖霊降臨節第7主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
前回からともに聴いております21章から、主イエスがその人としてのご生涯を過ごされる最後の1週間となるエルサレムでの日々になっています。主イエスの受難週の日々です。主イエスはエルサレムにお入りになり、そして神殿に行かれました。そこで何をされたのかというと、神殿の境内で売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたというのが今日与えられた御言葉に記されている出来事です。このエルサレム神殿については前回もお話しいたしました。ソロモン王による第一神殿がバビロニアによって破壊され、帰還した民によって小規模な神殿が再建されました。その後、紀元前20年ごろにヘロデ大王によって大規模な拡張工事がなされていました。この神殿の外側には外壁があり、それは南北に長い長方形で東西側の壁はそれぞれ約500メートル、南北はそれぞれ300メートルもありました。そして9つもの門がありました。中に入ると一番外側が異邦人の庭と呼ばれるエリアで、ここは誰でも入ることができました。ここは高さ11メートルもの円柱が並んだ回廊となっていました。その内側に女性が入ることのできる婦人の庭、そしてその内側には、清められたユダヤ人男性だけが入れるイスラエルの庭、さらなる内側に祭司のみが立ち入ることのできる祭司の庭、そして一番中心部に聖所という構造になっていました。今日の箇所で「神殿の境内に入り」、主イエスが商人を追い出し、台や腰掛けをひっくり返したとあるのは、一番外側の異邦人の庭での出来事です。
神殿の両替人というのはユダヤ人巡礼者にとっては宗教的な義務を果たすために不可欠な存在でした。まず、成人ユダヤ人男性は年に一度、神殿税を納める義務がありました。半シェケルです。しかし、当時一般に流通していたローマ帝国の硬貨は、20章1節にも出てくるデナリオンなどでありました。これらのローマ帝国の硬貨には、ローマ皇帝の肖像が刻まれていましたから、これらを献金することは、偶像崇拝禁止という十戒に違反することになるため、汚れたお金から宗教的に清いとされている硬貨に両替する必要があったのです。また、神殿での礼拝には、牛や羊、鳩などの動物を生贄として神に捧げなければなりませんでした。それらは律法に従い、「傷のない清いもの」でなければなりませんでした。ですから多くの巡礼者は祭司によるチェック済みの、いわばお墨付きの動物を購入していたのです。この購入資金を用意するためにも両替商は必要でありました。
■強盗の巣に
主イエスはそのような両替商がいる異邦人の庭に入ってこられて、その台や腰掛けを倒されました。この主イエスによる宮清めの出来事は4つの福音書全てに記されている大切なエピソードです。主イエスは何を怒り、そして何を示そうとされたのでしょうか。主イエスの怒りの言葉が13節に記されています。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」これはイザヤ書56章7節の引用です。主の神殿は祈りの家であり、神に心を向け、神との交わりの場、まことの礼拝が捧げられる場であるにも関わらず、強盗の巣にしてしまっている、と主イエスは怒りを露わにされました。そして今日お読みいただいた旧約聖書はエレミヤ書7章1節から11節です。これはエレミヤがイスラエルの民に対して語った神の言葉です。この言葉をエレミヤが語った時代、それは南ユダ王国存亡の危機の時代でした。国を正しく導いていたヨシヤ王が亡くなり、エジプトの圧政に苦しみ、そしてバビロニアという脅威が迫っていました。そのような不安な状況の中で、人々は神殿に依り頼みました。神殿によって我々は守られる、エルサレムは絶対に滅びない、という強い思いが人々にはあったのです。神殿に逃げ込みさえすれば何をしていても良いというような人々の不信仰をエレミヤは9節、10節で告発しています。「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。」日常的にこのような大きな罪を犯しているにも関わらず、彼らは「私たちは安全だ」と言っていたのです。強盗の巣とは、強盗が悪事を働いた後、追手から逃れて身を隠すための隠れ家、アジトのことです。人々が神殿を罪の隠れ家として利用していた、それを主イエスは引用されました。エレミヤが当時の人々の礼拝に対して厳しい警告を発して問うたように、主イエスもこの時代の人々に対して、あなた方の行なっている礼拝は本当の礼拝か、祈りの家であるのかということを大いなる怒りを持って、厳しく問われたということです。
■まことの礼拝
主イエスは祈りの家とはどのようなものであるか、それは今を生きる私たちに、教会とは、礼拝とはどうあるべきか、ということをここで問うておられるということです。今日の14節以降で、主イエスは真の祈りの家の姿を示されます。「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄ってきたので、イエスはこれらの人々を癒やされた。」とあります。主イエスはこれまでにもあらゆる場所で癒しの御業を行なってこられましたけれども、この14節にありますように、その癒しの御業が「境内でなされた」ということに大きな意味があります。当時、目の見えない人や足の不自由な人は、たとえユダヤ人であったとしても神殿に入ることはできませんでした。これはサムエル記下5章にその根拠があります。ダビデ王がエルサレムを占領した時の物語がここに記されているわけですが、ダビデ王がエルサレムに攻め入ろうとした時、エブス人、つまりエルサレムという名前になる前、この地に住んでいた先住民であるエブス人が、エルサレムが強固な要塞であることを誇りにして、ダビデをからかうように「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ。」と言いました。しかし、ダビデはこの要塞を陥れ、そしてこれ以来、エルサレム神殿に身体の不自由な人が入ることは許されなくなったのでした。ダビデ王はこのような形を持って自分の力を誇っているということです。それ以来、神殿の門の外側にしかいることが許されなかった人々が、主イエスの宮清めの出来事、混乱に乗じて、神殿の中に入り、そしてなんとかして主イエスのお近くにと寄ってきたのです。そして主イエスはそのような彼らを癒やされました。彼らは癒しの御業により、更なる内側のイスラエルの庭まで入って、他のユダヤ人たちと共に礼拝を捧げることができるようになりました。この主イエスの御業を見た人々、そして子どもたちまでもが境内で「ダビデの子にホサナ」と言って主イエスをほめたたえました。エルサレム入城に際して、人々から「ダビデの子にホサナ」という叫び声に迎えられてエルサレムにお入りになられ、それに続いて、この宮清めが行われ、神殿においても主イエスが「ダビデの子にホサナ」と子どもたちが主イエスを讃えたのです。神を讃える礼拝が捧げられたということです。しかし、これを聞いていた祭司長たち、律法学者たちは腹を立てました。主イエスが神の子であり、そしてダビデの子、救い主であるということを彼らは認めていませんから、彼らにとって、このように主イエスをほめたたえる声が上がることを認めるわけにはいきません。やめさせろ、と主イエスに抗議しました。それに対し、主イエスは彼らに対して「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」と言われました。この言葉は詩編8編3節の引用でありますけれども、「賛美を歌わせた」というところに目を留めたいと思います。「幼子や乳飲み子が賛美した」ではなく、「幼子に賛美を歌わせた」です。つまり、この賛美の業も神がそのように授けてくださったものだということを主イエスは言われたのです。当時、子どもたちはものの数に数えられていませんでした。しかし、そのような彼らが、神の恵みによって、礼拝を捧げました。さらには目の見えない人、足の不自由な人たちも癒やされて礼拝の群れに加えられました。今まで神の御前に立つことが許されなかった人たちが、このように主イエスが来られたことで、神の恵みを受け取り、そして礼拝をお捧げするという姿がここには描かれています。一方、本来ならば、この神殿においてまことの礼拝をお捧げする中心人物である祭司長や律法学者たちは、主イエスの「不思議な業」を見て、礼拝するのではなく、腹を立てました。15節に「不思議な業」という言葉があります。このマタイ福音書に主イエスがなされた奇跡の御業は今までもたくさん記されておりますけれども、「不思議な業」というこの言葉は他では使われていません。マタイのみならず、他の福音書にも使われておらず、ただこの1箇所のみで使われています。この言葉は、「不思議な」というよりも「驚くべき」というように表現する方が適しています。この驚くべき御業に驚いたのは、子どもたちであって、信仰の指導者たちではありませんでした。信仰指導者である彼らが先頭に立って、神の御業をたたえ、礼拝するはずのこの場所で、彼らが示したのは怒りでありました。本来であれば、彼らが礼拝を司り、人々を礼拝へと導くはずの者たちが礼拝を妨げる者たちとなっていたのです。
■結び
主イエスはエレミヤの言葉を用いて、神殿のあるべき姿を問われました。祭司長、律法学者たちを厳しく糾弾いたしました。神の恵みを心から受け取り、神をたたえ、祈り、そしてその御言葉に従って生きるものとなっているか、と問われました。この問いは、神を、また、礼拝を、自分たちの都合のよいように、利用していないか、と、現代の私たちの教会に投げかけられているものでもあります。その問いに私たちは自信を持って答えられる者たちではありません。私たちは到底、神の前に立つことのできない者たちなのです。主イエスはそのような私たちのために、この地にきてくださり、そしてこの地を歩まれ、そしてエルサレムにお入りになりました。何のためにエルサレムにお入りになってすぐに宮清めをなさったのか、何のための救い主であるのか。それは私たち、人間の罪を清めるための救い主です。当時の祭司長、律法学者によって強盗の巣となってしまったエルサレム神殿はもちろん清められる必要がありましたが、根本的に清められなければならないのは、すべての人間の罪であります。かつてのエルサレム神殿では、鳩や羊を捧げることで罪の赦しをえていました。しかし、主イエスによって、主イエスが十字架におかかりになってくださったことによって、もう鳩を捧げる必要は無くなりました。一回限りの、すべての罪を赦して余りある主イエスの命によって、すべての罪は清算されました。支払われたのです。私たちにはもう、神殿税も鳩の捧げ物も必要ありません。両替人も必要ありません。さらには父なる神は、主イエスを死に勝たせ、十字架の死から復活させてくださいました。それによって私たちにも復活した主イエスと共に生きる新しい命を与えてくださいました。私たちは主の日ごとに、その恵みに感謝し、その恵みを受け取り直し、神を礼拝しつつ歩んで行きます。そこにまことの神殿が築かれてゆきます。1コリント6:19-20「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」私たちが主イエスによって清められた神殿なのです。主イエスと結ばれ、主イエス・キリストの体である教会に連なる者とされ、新しい命をいただき、私たちの口に賛美の歌が備えられていくのです。私たちの口に授けられる讃美「ダビデの子にホサナ」。今日もそのように共に讃えつつ、私たちの歩みが確かなものとされるよう、祈りましょう。
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