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『まことの王として』2026年6月28日

  • 6月29日
  • 読了時間: 10分

説教題: 『まことの王として』

聖書箇所: イザヤ書57:14-15

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書21:1-11

説教日: 2026年6月28日・聖霊降臨節第6主日 

説教: 大石 茉莉 牧師


はじめに

このマタイ福音書の連続講解に入りましたのが、2024年の7月でしたので、ほぼ2年にわたって共に聞いてまいりました。イエス・キリストの系図に始まり、誕生の次第が記された後、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになって、そして主イエスの公生涯が始まりました。弟子を招き、そして癒しの御業を示されながら、神の国についての教えを語られました。律法学者、ファリサイ派と対立し、その緊張感も次第に高まりを見せてきました。場所はガリラヤ湖をホームグラウンドとしながら、北のシリア・フェニキアという異邦の地にも出向かれました。そしてご自身による3度の受難予告ののち、ガリラヤ湖から南へ、ヨルダン川沿いにエルサレムを目指して最後の道のりを歩んでこられたのです。ガリラヤ湖から死海まではおおよそ150キロぐらいと言われています。一日30キロ程度、おそらく5日ほどかかったでありましょう。主イエスの十字架が一歩ずつ近づく、その道のり、主イエスはどのような思いで歩いていらしたのでしょうか。

 

■ダビデ契約

そして今日の箇所で主イエスはエルサレムに入城されます。主イエスの地上での最後の1週間が始まります。エルサレムは神の民であるイスラエル民族にとって特別な場所です。中心の神殿には神がおられると思っていました。そしてその神殿はイスラエルの偉大な王、ダビデによって計画され、基礎を築き、準備されたものであります。ダビデは莫大な資材、金銀、レバノン杉、石材などを確保し、神から受け取った詳細な神殿の設計図と建築の指示を息子ソロモンに託しました。ダビデの生涯にわたる準備を引き継いだソロモン王によって神殿は築かれました。しかし、紀元前10世紀に建てられたこの第一神殿は紀元前586年、バビロニアによって破壊されることとなり、バビロン捕囚の時代になります。そして捕囚から帰還したユダヤ人たちによって第二神殿と呼ばれる小規模な神殿が再建されます。その後、紀元前20年ごろに、ヘロデ大王によって大規模な改修、拡張工事が行われました。主イエスの時代にもまだ工事は続いていたといいます。当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、政治的にも宗教的にも抑圧されていました。それゆえに、イスラエルの民はかつてのダビデの栄光をもう一度取り戻したいという強い思いを抱いていたのです。そしてサムエル記下7章において預言者ナタンを通してダビデに告げられた神の約束を信じていました。7章8節以下、「わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に圧迫されることもない。わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」人々は、ダビデ契約と呼ばれるこの約束、ダビデの家系から永遠の王座に就く救い主、メシアが遣わされると信じていたのです。人々が期待していたメシア像は、ローマ帝国を打ち破り、イスラエルを再び興してくれる強力な王であり、そして神の律法に従って民を正しく裁く指導者でありました。しかし、主イエスが歩もうとしてられる道は、人々のそのような期待とは大きく食い違っていました。主イエスはすでに3度にわたって、ご自分がエルサレムへいき、多くの苦しみを受け、十字架につけられて殺され、そして三日目に復活することを告げておられました。受難の地、エルサレムへ足を踏み入れようとしておられる主イエスの思いと迎える人々との間には大きな隔たりがあったのです。

 

■ろばに乗って

主イエスはもちろんそのような人々の期待、気持ちをよく知っておられました。主イエスはベトファゲに来た時に、二人の弟子を使いに出されます。このベトファゲというのはエルサレム神殿から2-3キロ手前に位置しているようです。神殿の東側にあるオリーブ山の斜面にある村で、主イエスがよく滞在していたベタニアよりもエルサレム寄りのところです。オリーブ山の尾根をこえて、キドロンの谷に向かって急な坂を下り、神殿に行くには再び丘を登っていくということになります。主イエスは弟子たちに言われました。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」これはゼカリヤ書9章9-10節の預言の言葉の成就であります。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」主イエスはご自身でその手筈を整えて、弟子たちを遣わしてろばと子ろばを引いてこさせました。そしてそれに乗ってエルサレムへと入城されたのです。弟子たちがろばに服をかけて鞍の代わりにしました。そして大勢の群衆は自分の服を道に敷いて、また木の枝を切って道に敷いて、花道を作りました。そして人々は「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と叫んで主イエスを迎えました。主イエスはわざわざ、ろばを用意して、そして人々の歓迎の叫びをお受けになってその中を進まれました。主イエスは王としてエルサレムにお入りになったということです。そして人々の大きな期待と異なる王であることを主イエスはろばを用いてお示しになりました。古来、王が乗り物とする代表的な動物といえば馬でした。馬は戦闘用の動物として最も優れ、足が速く堂々とした気品に溢れています。そして戦場では敵を蹴散らすのに長けていました。馬は軍事力の象徴であり、優秀な馬を確保することは戦いの勝敗を左右するほどの重要な要件でありました。さて馬が王としての強い力を象徴するのに対して、主イエスがお乗りになったろばは何を象徴しているでしょうか。ろばはゆっくりと歩く動物であり、堂々としているというよりは、穏やかでこじんまりしたイメージでありましょう。しかし、ろばはどんな時に力を発揮するかといえば、重荷を運ぶのに適していました。人々が自分の足で歩くことが叶わなくなった時、弱った人を乗せて歩き続けることができる耐久力を持ち合わせているのです。ここに主イエスがろばを用いてエルサレムにお入りになった意味が示されています。軍事力によって人々の上に君臨する王としてではなく、傷つき弱った人を背負い、その重荷を背負う、仕える王としての姿が、ろばに乗る王としてあらわされているのです。

 

■揺り動かすお方

こうしてエルサレムに入られた主イエスを見て、「都中の者が、『いったい、これはどういう人だ。』と言って騒いだ。」と10節にあります。この主イエスのエルサレム入城の出来事は他の福音書も記していますけれども、「都中の者が騒いだ」という表現はマタイ独特の表現です。そしてこの「騒ぐ」という言葉は「揺り動かされる」という意味の動詞です。そしてこれが名詞になりますと、「地震」であります。この「地震」「揺り動かされる」という言葉をマタイが意図して使っている箇所があります。すでに読んできたところでは、8章23節以下に「嵐を静める」という記事があります。この出来事もマタイだけでなく、マルコ、ルカにも並行記事がありますが、マタイは「激しい嵐」、マルコとルカは「突風」とあります。この「激しい嵐」は元の言葉では「大きな揺れ」、つまり大きな地震が正確な訳です。先週、日本ではかなり大きな地震が青森県、そして山梨県、とありました。これほど科学が進んでも、地震の完全な予知は難しいと言われています。神の創造の御業、その力は私たち人間には計り知ることのできないものであるということを改めて思いました。そして主イエスが十字架上で死をお迎えになったとき、マタイは27章51節で「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け・・・」と記しています。神の力、主イエスの力は、途方もなく大きいということです。つまり、主イエスによって、人々が揺り動かされました。今日の10節で「いったい、これはどういう人か」と言って人々が騒いだわけですが、また8章の嵐を静めたところでも弟子たちが、「いったい、この方はどういう方なのだろう」と驚いている様が記されています。弟子たちも、人々も、そして私たちも、「いったい、このお方はどういうお方なのだろう」と驚きと共に、心が揺り動かされているのです。

 

■へりくだった王

この王はろばに乗ってこられました。「彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る。」というゼカリヤ書の言葉通り、「高ぶることなく」協会共同訳では、「へりくだって」と訳されています。今日与えられた旧約聖書のイザヤ書57章15節に「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。」とありますように、このお方、主イエスは打ち砕かれた者を慰めて、罪人を憐れんでくださるお方です。マタイ11章28節以下の有名な御言葉「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。」主イエスはこう言われるお方なのです。立派な馬に乗って人々に君臨する王ではなく、ろばに乗ってゆっくりと人々を見つめ、徹底的に下に立ち、弱き者を支え、慰め、そして民のために死んでくださるお方なのです。

 

■結び

「この方は、いったいどういうお方なのか」と揺り動かされ、驚きと期待と共に、主イエスを「ホサナ」と讃えながら、王として迎えた人々は、この週のうちに、「十字架につけろ」と叫ぶことになります。それはどうしてかと言えば、自分たちの期待していた王とは違ったからです。主イエスと歩みを共にしてきた弟子たちも主イエスが捕えられた時、一斉に逃げ去りました。そして、「こんな人は知らない」という拒否の言葉を口にするのです。それは今の私たちとて同じことであります。主イエスはそれら全てをご存知で、ろばに乗ってエルサレムにお入りになったのです。この主イエスのエルサレム入城が示していることは、主イエスがダビデの子であるまことの王であられ、そして確かに王としてこの世に来られたということです。わたしたちが一般的に考えるすばらしさとは全く異なったすばらしい王であられるということです。主イエスはろばに乗り、徹底的に低くなられて、へりくだって、柔和な王としてこられ、私たちの罪をお一人で背負って十字架で死んでくださいました。それは普通では考えられないことでありますけれども、父なる神がそのようにお決めになり、主イエスはそれに従われたのです。この神の壮大なご計画と主イエスの従順、そこに示される神の愛が神の御心であると知る時、私たちは改めて主イエスを王としてお迎えし、真の王に従い続けたいと思うのであります。

         

 

 
 
 

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