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『清い心が創られるように』 2024年9月15日

説教題:  『清い心が創られるように』

聖書箇所: 旧約聖書詩編51:1-14 

聖書箇所:  新約聖書 マタイによる福音書5:7-8

説教日: 2024年9月15日・聖霊降臨節第18主日

説教: 大石 茉莉 伝道師


はじめに

前回から主イエスが弟子たちはじめ人々に向けてお語りになった山上の説教を聞いております。「幸いなるかな」で始まるこの教えは8つの幸いが示されています。先週はその前半部分の4つから聞きました。今日は後半の四つのうち、憐れみ深い人々、心の清い人々の幸いから聞きたいと思います。前半にありました貧しさ、悲しさなど、それのどこが幸いなのかといえば、そのような現実の中で神を求める者たちには祝福が与えられる。それが大いなる恵みである、ということでありました。私たちは厳しく辛い状況において、初めて砕かれ、そして神を呼び求めるしかない、ということに気づくのです。そこに信仰、神への信があります。信仰は弱さがそのまま神の前に曝け出されることであり、そうしないではいられないのです。神を呼ばないでは生きていくことができないのです。そうして与えられる祝福が前半の4つの幸いに示されていました。

 

■神の憐れみ

7節には「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」と記されています。この7節だけ他と少し違うことにお気づきになるでしょう。「憐れみ深い人は、憐れみを受ける。」と記されており、「憐れみ」という言葉が繰り返されています。私たちは「憐れみの気持ちを持つ」という言葉をどのように理解して、どのような時に使うでしょうか?誰かに対して、可哀想に、とか、気の毒に、とか、不憫に思う、同情する、などというような時に、何かをしてあげる、そのような気持ちを持つ、というような場合が多いのではないでしょうか。そして知らず知らずのうちに、相手を自分よりも低いところに置いていないでしょうか。しかし、誰よりも「憐れみ」深いお方は主イエス・キリストでした。誰よりも低くなられたのは主イエスでした。ヘブライ人への手紙2:17-18にこう記されています。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」主イエスは誰よりも高いところにおられたお方ですが、最も低いところに降りてこられ、人間と同じ姿になられ、そして苦しみをお受けになったのです。主イエスほど、憐れみに満ちたお方はありませんでした。「主よ、憐れみたまえ」と願う父に、盲人に、主はご自身の体が痛みを覚えるほどの憐れみを覚えて、その息子を、そして盲人の目を癒されました。私たちはどんなに思いを寄せても、主イエスと同じ憐れみを持つことはできません。しかし、主イエスに倣う者として、隣人を憐れむことができると主は言われるのです。なぜならば、私たちは神からの憐れみを受けているからである、と言われるのです。私たちが誰かになす憐れみに先立って、神の憐れみが注がれているのです。それゆえに「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」というこの言葉は、あなたがたは「憐れみ」に生きることができるのだ、という主イエスの祝福の宣言なのです。

 

■神の憐れみと慈しみ

旧約聖書において、神を表す言葉として「憐れみ」という言葉が使われます。同時に、「慈しみ」という言葉も神を表す言葉です。私たちの神は「憐れみと慈しみの神である」というようにセットで使われることが多くあります。今日の詩編51編1節でも「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみを持って。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。」と書かれておりましたし、詩編だけでもあちらこちらに、25編6節には「主よ思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。」とか、103編4節には「慈しみと憐れみの冠」というように神のことが言い表されています。その元をたどりますと、出エジプト記34章において、神ご自身がモーセに対してご自身を示されたとき、神はこう言われました。6節、「主は彼(モーセ)の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。』」神ご自身のご性質がここに示されています。神がご自身を表すのに、憐れみ深い、ということが真っ先に語られているのです。そして神は、憐れみ深く、恵み深く、忍耐強く、慈しみとまことのお方である、と語られており、それらの言葉を連想ゲームのように考えていきますと、神の愛にたどり着きます。神は愛を徹底して貫かれるお方であり、そして神はその正しさゆえに、たとえ相手が不誠実、不真実であったとしても神は愛される、神はその人に憐れみを持って捉え続け、守ってくださるのです。私たち自身に当てはめますと、私たちの愛はとても自分中心な愛であり、相手によって左右される愛です、とても貧しい愛であります。私たちの憐れみはとても貧しいものでありますけれども、そのような貧しさを知る者は幸いである、と主イエスはこの教えの初めに語られました。神の憐れみを受けていることを知り、この憐れみの中に生き続けることを知る者は幸いなのです。自分の憐れみが貧しく、そして人々に対してそのような貧しい憐れみしか持てず、それでもなおそのような自分が神の憐れみのなかに生かされている、そのことを知るものは幸いなのであります。

 

■神を見る人

「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」8節にはそのような主イエスのお言葉があります。さて、心が清い人々、自分はその中に入るだろうか、いや、心は全くもって汚れていて、不純な思いに満ち満ちている。それゆえに私は神を見ることはない。そのように考える人が多いのではないかと思います。心が清くなるようになんとか努力はしたいけれども、なかなか教会に通っても心は清くならない・・・そんなふうに感じられる方もあるかもしれません。

さて、自分の心、は自分の体のうちにあるものでありますけれども、そんな自分の中にあって、自分が持っているようであっても、自分で自分の心を清くすることはできるでしょうか。今日、旧約聖書は詩編51編を選びましたが、この詩編は1節、表詞と言われる説明書きにありますように、ダビデが部下の妻バトシェバを奪い、その罪を預言者ナタンによって指摘されて、自分の犯した罪に恐れ慄きつつ、神の赦しを求める悔い改めの詩です。「神よ、ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」とダビデは祈り願っています。自分で取り返しのつかない大きな罪を犯していながら、身勝手のようにも思えますけれども、実際のところ、私たちは自分で自分を清くすることはできず、ただ神の前にへりくだり、祈ることしかできないのではないでしょうか。詩編24編3-4節にも「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心を持つ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる。それは主を求める人。ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。」と記されています。同じように、詩編32編2節にも「いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」とあります。自分に言い訳をしたり、隠し立てをしたり、弁解したり、という生き方は罪や咎を隠す生き方であり、主の赦しを知りません。しかし、主の光の元に引き出された人は、全てが神に知られていることを知り、そして、自分ではどうしようもない汚れを神に清くしてください、と祈るだけなのです。それはこの上ない幸いである、と詩編に詠われています。その時、その人は神を見るのです。「見る」と訳されている言葉は、単に視覚的に見るのではなく、神との関わりの中にある、という意味です。まさに、神に祈り、神によって清くされることを祈り求めるとき、神と出会い、神との関わりの中に生きるのであり、それは大いなる神の祝福の中にあるということなのです。

 

■ファリサイ派の清さ

旧約の時代、清さと汚れ、ということはとても重要な意味を持っていました。旧約聖書レビ記の11章以下をご覧いただきますと、「清いものと汚れたものに関する規定」が事細かに記されています。こういうものは汚れている、そしてそれに対してこうすれば清くなる、それは祭司の贖いの儀式によって清められる、というような具合です。マタイ15章にも「昔の人の言い伝え」というところに、食事の際に手を洗う、をいう清めのことが書かれています。この並行箇所であるマルコ7章にも書かれています。ユダヤ教においては、この手の洗い方についても、一定のやり方が定められていました。単に衛生上の問題ではなく、律法に定められているからです。律法を守ることによって、清さを保つことができる、清い者として神に認めてもらえると考えていたからです。「手を洗う」ことを現代生活に当てはめてみますと、単に手を洗うのではなく、石鹸をつけて洗う、さらには爪ブラシを使って爪の間を綺麗にする、そして洗い流す時は、最低1分は洗うこと、そしてその後は清潔なペーパータオルで水気を拭い取り、そして最後にはアルコールの噴霧器に手をかざす、などと考えていったら、きれいにするためのルールは追加されて際限はありません。それを守っているから良い、守っていない者は裁かれる、という旧約時代の律法に縛られる構図がそこに成立するというわけです。その代表がファリサイ派でした。主イエスはマタイ23章25節―46頁で、こう言っておられます。「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」この杯は自分たちの肉体のことを表しているのはいうまでもありません。このような儀式、律法を守ることによって、自らが清い存在である、とするのは誤りであり、自らの行いによって清くなるのではなく、神の前に祈ることによって、ただ神への信頼によって清くされるのだ、と主イエスは言われるのです。

 

■結び

今日は「憐れみ深い人々」そして「心の清い人々」の幸いから聞きました。私たちは「◯◯な人々」と見ますと、ついつい自分自身が「憐れみ深い」人間か、「心が清い」人間か、と自分の持てるものとして測ってしまいますが、これらすべて元々が私たち人間には欠けているものなのです。それらが私たちの中に湧き起こるのは、ひとえに神の恵みによるものであって、私たち自身の資質によるのではないのです。私たち自身の内側を見るのではなく、ただ主イエスを見る、十字架におかかりになった主イエスを仰ぎ見ることでしか、神を見ることはできない、神との関係に置かれることはないのです。神は恵み深く、私たちの罪を赦しへと変えてくださるお方。神は私たちを愛し、導き、守ってくださるお方なのです。私たちの存在を清めてください、清い心を創り出してください、与えてください。そのように祈り願う歩みを続けてゆくことができますように、と祈り願います。

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