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『深いあわれみ』 2022年6月12日

説教題:『深いあわれみ』 聖書箇所:マルコによる福音書 1章40節~45節 説教日:2022年6月12日・聖霊降臨節第二主日 説教:大石 茉莉 伝道師


■はじめに

今日の御言葉の直前39節には、「ガリラヤ中の会堂へ行き、宣教し、悪霊を追い出された。」と書かれております。主イエスは神の国の福音を宣べ伝えながら、病人を癒し、悪霊を追い出されておられました。そんな主イエスのもとに、重い皮膚病を患っている人が来たのです。この人も主イエスの救いを求める人でありますが、この人だけ、直前に書かれている多くの癒しの御業と切り離されて、記されていることに注目いたしましょう。今日の登場人物は多くの人の癒しの御業に含めてしまうことができない特別な意味があるのです。

彼はひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがお出来になります。」と言いました。彼は癒されることではなく、清くされることを願いました。ですから、ここで語られているのは、ガリラヤ中でなさった癒しの御業ではなく、汚れている人への清めの御業なのです。

以前の口語訳聖書は、「みこころでしたら、清めていただけるのですが」となっていました。この口語訳からは、「もしよろしければ・・・」というような、日本人によくある謙遜的な意味合いに読めてしまいますが、そうではありません。直訳しますと、「あなたが望むなら、あなたはわたしを清くすることができます」と彼は言ったのです。「わたしを清くしてください」というお願いではなく、「あなたはわたしを清くすることができる」「あなたならできるのです」という主イエスへの信頼、信仰が語られています。彼の信仰告白の言葉ともいえましょう。それに対して、主イエスは、「よろしい、清くなれ」と言われました。彼が「あなたは望むなら、そうできるのです。」と言ったのに対して、主イエスは、「わたしはそう望む」とお答えになりました。主イエスのご意志が問われ、主のご意志によって彼は清くされたのです。


■重い皮膚病

当時、重い皮膚病を患った人は、肉体的に悲惨な生活を送っていただけではなく、宗教的にも神の罰を受けた者として、人々から忌み嫌われていました。レビ記13章には皮膚病について細かな規定が記されています。『祭司によって「あなたは汚れている」と言い渡された者は、隔離され、家族からも切り離されて、独りで宿営の外に住まなければならず、人に会うごとに「わたしは汚れた者です、汚れた者です。」と言わなければならない。』と記されています。病であれば、家族が看護するでしょうが、これは、病ではなく汚れなので、彼は家族だけでなく、共同体から離れ、隔離され、孤独とも闘わなくてはなりませんでした。それゆえ、汚れていると言い渡された人々は、病気とは別の深い悲しみ、苦しみがあったのです。


■汚れという差別

汚れによって、社会、共同体から切り離され、忌み嫌われる。現代に生きる私たちにも決して無縁なことではありません。ニュースとしてよく取り上げられるのは、子どもたちの中にあるいじめの構図です。陰湿ないじめは、誰かを汚れた者として差別し、仲間から締め出して、周囲もそれに同調するという形で大きくなります。それが自殺にまで至るような深刻な事態になってしまうのでしょう。これは子供達の社会だけでなく、職場や、ご近所付き合いなど、私たちの生活しているなかで十分に起こりうることです。最近はSNSなどの投稿でもそのような悲しい出来事が起こったことがありました。SNSでは、匿名でできることもあってか、人を傷つけ差別することに対して鈍感になります。それを受ける相手は、世の中すべてから差別され、切り離され、受け入れられないと感じてしまうのです。自分自身が「重い皮膚病を患った人」になることもありうるし、そして私たちは、気づかずとも、人に苦しみ悲しみを与えてしまうことも十分にあるのです。自分が汚れていると思うものを遠ざけることによって、自分の清さを保つことができると私たちは安易に考えてしまうのです。それだけ、私たち人間の持つ罪というのは、根深いし、自分自身では理解できていないのです。


■深い憐れみ

重い皮膚病を患った人は、人に会うときは「わたしは汚れた者です」と言わなければならない。それは本来、このような人は人に会ってはならない、ということを意味していました。ですから、この人が主イエスの前に来るのには、勇気のいることだったことでしょう。主イエスを、この人こそと信頼したからできた行動です。そして、「みこころならば」とひざまずいて語った彼には、信仰の姿勢が見られます。「みこころならば」というのは、神様が、主イエスが、ご自由になさってください。神様がお決めになる事です、主イエスがご自由にお決めになることです、しかし、もし願いを言い表すことが許されますなら、救われたいのです。ここで語られたのはそのような言葉でありましょう。そして主イエスは「よろしい、清くなれ」と言われました。主イエスのご意志によってです。主イエスはその時、深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れられました。

この「深く憐れんで」という言葉は、本来、「内臓、はらわた」という言葉を元にしています。内臓までもが痛むような痛み、日本語でははらわたのよじれるような、と訳すのが良いのかもしれません。そして「はらわた」は感情が宿る所とも考えられていました。主イエスはこの人の苦しみに対して、ご自分の肉体に痛みを感じてくださったのです。私たちは人の苦しみや悲しみを見聞きする時、「おつらいでしょう」とか、「たいへんなことです」という言葉と共に、人に寄り添うことはできます。しかし、自分の体にその人と同じ痛みを覚える、同じように苦しむ、ということはどうやってもできないことです。「深く憐れんで」と言う言葉は父なる神と主イエス以外には用いられていない言葉なのです。

主イエスは愛の人です。はらわたのよじれるような、ご自身の肉体が苦しむような痛みをもって彼を見つめ、語りかけ、手を差し伸べて触れられたのです。「汚れた者」に触れることは、汚れが移ると考えられていましたから、直接に触れる、という行為は当時の人にとって考えられないことでした。主イエスはそのように愛を示してくださったのです。私たちには到底できないことです。私たちは寄り添うどころか、たとえ「お気の毒に」と思うことはできても、自分でなくてよかった、自分の家族でなくてよかった、自分の知り合いでなくてよかった、というような思いが、人間の心の中にはほんのわずかでも生まれるものなのです。そして、そのような人に直接触れる、そのことにためらいを覚えない人はいないことでしょう。主イエスだけがおできになるのです。主イエスはこの場で彼の汚れをその身に引き受けてくださったのです。この場では、この重い皮膚病の男の汚れだけをお引き受けくださいましたけれども、これから先、主イエスは私たちすべての罪を黙ってお引き受けくださったということを私たちは知っています。私たちの代わりに汚れた呪われた者となってくださったということを私たちは知っているのです。


■祭司への証明

そして主イエスは、彼を社会の共同体に戻すことも考えてくださいました。何故それがわかるかと言いますと、「すぐにその人を立ち去らせようとし」と聖書に書かれているからです。私がその男の人だったなら、今までの汚れを一瞬にして変えて下った主イエスから離れたくないと思うでしょう。お側にいさせてください、と言うように思うのです。しかし、主イエスは、そんな彼の気持ちを察するがごとくに、「立ち去らせようと」なさいました。それは主イエスの愛の行動なのです。「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」と言われました。レビ記14章に書かれている清めのしかるべき儀式を祭司が執り行い、「その儀式を受けた者は、衣服を水洗いし、体の毛を全部そって身を洗うと、清くなる。この後、彼は宿営に戻ることができる。」のです。彼は家族、仲間のもとに戻ることができ、もはや人々を避けなくてもよくなります。そのようにして彼が通常の社会生活を営むことを主イエスは望まれたのです。それは、何を意味するかというと、再び神の民として、共同体に復帰し、共に礼拝を捧げる生活に戻るということです。主イエスがなさったことは、信仰生活への復帰だったのです。


■「だれにも話さないように」

そして、主イエスは「誰にも何も話さないように」と厳しく注意されました。しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広めはじめたのでありました。主イエスが「厳しく誰にも言うな」とおっしゃったのに、「イエス様が私を清めて下さった!」と彼は人々に告げ知らせるのです。主イエスによって清くされ、神の民の一員としての信仰生活をも回復してもらった彼は、主イエスの御業を語らずにはいられない喜びに満たされていたからです。45節で「大いにこの出来事を人々に告げ」と訳されている「告げる」は39節の「宣教し」と同じ言葉です。「宣べ伝える」と訳される言葉です。神の救いを宣べ伝えるという教会の伝道の働きを伝える言葉です。主イエスによって癒されたこの男は、「主イエスが私を清めて下さった。神の支配がはじまっているんだ。」熱心に、そのように語ったのです。それまでは汚れた者として、人々から忌み嫌われ、避けられていた彼は、今や、人々に喜びを告げる者と変えられたのです。彼が喜びの知らせ、福音を告げる者になりました。

しかし、主イエスはなぜ、「誰にも言わないように」と厳しくおっしゃったのでしょうか。カファルナウムのシモン・ペトロの家での姑の癒し、ガリラヤの様々な場所での癒しの御業、悪霊の追放、そして重い皮膚病の男の清め、それらの出来事によって、主イエスの評判は広まっていました。四方から人々が癒しや悪霊の追放を求めて集まってきたのです。癒された人々は皆、主イエスについて、「いやいや、驚いた。もう一生治らないと思っていたのに、あのお方の手によれば、あっという間に良くなったよ。まるで魔術師のようさ。」「あんたのところのお父さんも長患いしていたな、連れて行ってみてもらいな、きっと癒してくれるさ、間違いないよ」などと、誰彼構わず、言ったに違いないのです。

そのようにして口から口へ、人から人へ、主イエスの癒しの御業は、一人歩きして広まっていき、そしてたくさんの人が主イエスのもとに押し寄せてくることとなりました。主イエスはそのように癒しの御業が一人歩きしてしまうことを見越していらっしゃったのです。主イエスがいらしたのは宣教が目的であって、ミラクル治療師として登場することではありませんでした。そのため主イエスは、この男に誰にも言わないように、と言ったのです。

しかしながら、この男を含む人々は言い広め、その結果、主イエスはどうなったかと言えば、押し寄せてくる人々のために、「もはや公然と町へ入ることができず、町の外の人のいない所におられ」ることとなりました。主イエスの偉大な御業を話せば話すほど、主イエスは人々から遠ざけられたのです。

前回、「メシアの秘密」ということをお話しいたしました。ここにも「メシアの秘密」のヒントが書きあらわされました。このマルコ福音書は、様々な表現を用いて、イエスとは何者なのか?ということを浮かび上がらせているのです。男の清めの過程も秘められたままで、ただ主イエスのご意志であったということだけが示されています。

主イエスが今、ここで私たちの主、癒し主、救い主として共にいて下さる、ということも、秘められた神の御業であり、聖霊の働きであることも、人間の言葉で説明できないことですが、間違いなく力強く働く事実であることにも感謝いたします。

そして、ここで思い出していただきたいのは、汚れた者はどうしなければならないか、についてレビ記に書かれていた言葉です。「汚れた者は独りで宿営の外に住まなければならない」と書かれておりました。マルコが「イエスは町の外の人のいない所におられた。」と記すこの言葉は、レビ記のこの言葉を意識して書かれていると思うのです。主イエスの清めによって、汚れた男と主イエスの立場が逆転しました。主イエスが男の汚れをお一人で引き受けて下さったことをマルコはこのように象徴的に言い表しているのです。


■結び

主イエスは私たちを憐れんでくださいます。ご自身の身体に痛みを覚えるほどに私たちの苦しみ、悲しみに寄り添い、手を伸ばして触れてくださいます。憐れみは行動を伴う慈しみなのです。そうして主イエスはこの重い皮膚病の男だけでなく、私たちすべての汚れをお一人で引き受けてくださいました。まことに清いあのお方は、十字架への道を歩まれました。主イエスは十字架に向かう最後のゲッセマネで、「アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られました。そして父なる神は、愛する御子イエスを十字架へと送られました。父なる神は私たちを深く憐れんでくださっっています、私たちへの計り知れない神の愛、神の慈しみのために、主イエスは十字架へ歩まれました。主イエスは神の慈しみを、十字架の死という形で私たちに示してくださっいました。私たちはただただ、この父なる神、主イエスの深い憐れみを受ける者です。主イエスの前に立ち、「あなたはわたしを清くすることができるお方です」という信頼を、日々、重ねて告白いたしましょう。


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