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『洗礼によるはじまり』 2022年4月10日

説教題:『洗礼によるはじまり』

聖書箇所:マルコによる福音書 1章9節~11節

説教日:2022年4月10日・受難節第六主日

説教:大石茉莉 伝道師


 今日の聖書には主イエスが洗礼を受けられたことが書かれております。

洗礼をお受けになっていらっしゃる方々は、ご自分の洗礼の時を思い出していただきたいのです。皆様が洗礼を受けるに至るには、まさに十人十色、さまざまな道があった事と思います。

 人生において、自分ではどうにも解決できない悩み、苦しみ、そのような経験はどなたにもあったことと思います。どうしてよいかわからない辛さ、神様どうしてですか?と問うような出来事や時を過ごしたことのない、という方はいないでしょう。はじめは、もしかしたら今、私たちが崇めている神、主イエス・キリストの父なる神ではなかったかもしれません。しかしながら、いずれにしても日本人が昔から持っている宗教心、神仏に手を合わせる、ということはあったのではないでしょうか。

 そしてそれぞれに主イエスとの出会いがあり、主がそれぞれを捉えてくださいました。自らの造り主を覚え、自らの限界を知り、自らの罪を自覚して、自分を中心とするのではなく、神をその中心に置く、という方向転換が起こりました。主イエスがこの世に人として来てくださり、十字架にかかってくださったのは、私の罪の身代わりであったことを知り、主イエスこそが救い主であり、「生ける神の子、キリスト」である、という信仰告白をいたしました。そして洗礼の恵みへと導かれたのです。

 そのようにして洗礼を授けられた私たちは、キリストに結ばれ、主のものとされています。ローマの信徒への手紙6章3節以下に次のように書かれています。「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死に与るために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与るものになりました。」

 洗礼、つまり、バプテスマ、このバプテスマの語源はバプティゾウという言葉で、「浸す、ぬらす」という意味です。したがって、洗礼は水に浸され、主イエスの中に浸されることを表しています。それが「主のものとされる」ということです。そしてその時はキリストの死に与り、キリストと共に葬られることを意味しています。水に浸されるということは、人は水の中では生きてはいけませんから、死を意味しているのです。キリストと共に死ぬという経験が洗礼の中にはあるのです。

 私は洗礼を受けたとき、教会の礼拝堂のとなりの大きなプールで洗礼を授けていただきました。牧師と共に、プールの中に入りまして、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」と牧師がおっしゃって、私の頭をぐいぐいっと水面下に押さえつけるわけです。リハーサルと言うか、「こんな感じでやりますから」という説明があったので、理解はしていましたが、想像以上に先生がすごい力で頭を押さつけ、そしてとても時間が長かったので、浮かび上がろうと思っても、すごい力ですから、顔をあげることもできなくて、結構苦しくなり、プールの中でバタバタしました。さらに私はかなづちで、泳げないものですから、本当に溺れてしまうのではないか、とさえ思いました。後から思えば、まさにキリストと共に死ぬという意味を持つ洗礼、そのような感覚を私に残すために、牧師は長く、力一杯、押さえてくださったのだと今になって感謝しています。

 この根津教会はじめ、現在、日本基督教団では、その大半は滴礼式という頭に水を数滴かける洗礼方式を取っています。地方においてスペースに余裕がある教会では、講壇の床下に洗礼槽を持っている教会もありますが、ほとんどの教会はそのような水槽桶をもつことは難しいこともあり、滴礼の洗礼方式が主流となっているようです。バプテスト派と呼ばれる教派は、今も全身を水に浸すという浸礼洗礼を行っています。

 さて、話を戻しますと、そのように洗礼は、「キリストと共に死ぬ」こと、つまり、神なしに生きてきた古い自分が死ぬことであり、罪に対して死ぬことを意味しています。そして、同時に新しい命に生きることでもあるのです。洗礼の恵みは、主イエス・キリスト御自身であり、主の十字架の出来事であり、主の死であり、そしてまた今、共に生きているキリストであり、キリストによる新しい命なのです。


 今日の聖書に目を向けましょう。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」今日のみことばの始まりに書かれています。

「そのころ」というのは、このバプテスマのヨハネが活躍していた紀元20年後半ごろのことです。ローマの支配下にありました。前回もお話したように、ローマの圧政に対する不満などから、人々は救いを求めていたと言えるでしょう。そのような時代でありました。マルコは「イエスはガリラヤのナザレから来て」とあっさりと記していますが、神の子であられる主イエスが、人の子として普通の生活をされていたナザレの村から、ナザレを出られて、神の子としての道を歩まれる時が来たことを、この一節は告げています。そしてヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられました。

 先週お読みした4節にはこう書かれています。「洗礼者ヨハネが、荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」洗礼は罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼である、というのです。

 神の子である主イエスは悔い改める必要があったというのでしょうか?そもそも主イエスは罪のない、神の子です。洗礼をお受けになる必要があったのでしょうか。

 主イエスは悔い改める必要のないお方であるにもかかわらず、ヨハネから洗礼をお受けになりました。それは私たち罪ある者に連なるため、私たちと切り離さないために洗礼をお受けになったのです。ですから、私たちが今、洗礼を受けるのも、主イエスご自身が洗礼をお受けになったからです。罪なきお方が、私たち罪人と等しくなられた、ということは、十字架を待つまでもなく、このヨルダン川で実現したのです。

 主イエスが洗礼を受けたことと、十字架の出来事は深く結びついています。主イエスは、十字架にかかって死を引き受けられることを、洗礼と結びつけて「わたしには受けなければならないバプテスマがある。」(ルカ12:50)と言っておられます。主イエスがヨハネから洗礼をお受けになった時、主イエスはすでに十字架への道を決意されていたのです。それは私たち人間の罪を、ご自分のものとなさり、そして罪人である私たちと連帯していたからです。

 主イエスが洗礼を受けられた後、水から上がるとすぐに、天が裂けました。そして「聖霊」が鳩のように主イエスに下って来るのをご覧になりました。ここで注目していただきたい言葉は「天が裂けて」という言葉です。

 天が裂けるというのは、神がご自身を現わされる時に使われる表現です。イザヤ書63章に「どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。」とあるように、神がこの地に介入される時には、天が裂けるのです。神の聖霊がこの地の面を覆うのです。

 マルコによる福音書では、この言葉は2回しか使われていません。1箇所がこの主イエスの洗礼の時、そしてもう一回は16章の主イエスが十字架上で息を引き取られた時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と記されているところです。つまり、主イエスの公けの生涯の始まりのバプテスマで天が裂け、主イエスのご生涯の終わりに神殿の幕が裂ける。いずれも、神が介入されたその中心に主イエスがおられるのです。


 そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声が主イエスに届けられました。天の御父は独り子である主イエスに、「あなたはわたしの愛する子」と語りかけられました。あなたはわたしの子、神の子、というだけでなく、「愛する子」と呼びかけられました。

 この神の語りかけは、いくつかの旧約聖書からの言葉です。詩編、創世記とイザヤ書のことばからの引用です。詩篇は2編で、王様の即位の際に歌われたもので、神が王を祝福し、「お前はわたしの子」と呼んでくださり、王は国を支配する権威を神から与えられました。『お前はわたしの子/今日、わたしはお前を産んだ』ですから、この箇所にしたがって主イエスの洗礼を紐解きますと、神によって祝福と聖霊を与えられ、主イエスが王として立てられ、主イエスによって神の恵みの支配が成就するということです。そして、ここには「愛する子」という言葉は入っていませんが、この言葉からは次の聖書箇所が思い浮かびます。創世記22章のアブラハムにイサクを捧げるよう命じられる場面です。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行き、焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」と神はアブラハムに言われました。神はアブラハムのイサクへの愛情をもちろん知り抜いていらっしゃいました。この主イエスの洗礼で神様が「愛する子」と語りかけられた時、神様はアブラハムが背負った苦しみと同じように、愛する独り子である主イエスの命を十字架で犠牲にするという大きな苦しみを背負われたことを示していると思うのです。後半はイザヤ書42章1節です。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。」と言う訳の中の、「わたしが喜び迎える者」が「わたしの心にかなう者」に対応しています。このイザヤ書42章は捕囚の時代にあって、捕らわれている民に向かって宛てられた言葉です。続く言葉は、「彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」とあります。これを聞いて、捕囚の民はこのような救い主こそ、期待するメシアである、と思ったことでしょう。けれども、イザヤ書はさらにこう続きます。42章2節以下です。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦をおることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく、裁きを導き出して確かなものとする。」この神の僕は、力をもって制する者ではなく、とことん弱い者の弱さを担いながら、神の救いの御業を成し遂げていく者でありました。この神の僕こそ、御心に適った者であり、まさにそれが主イエスであったのです。


 主イエスの上に、神様の霊が置かれました。主イエスが神様のみ心に適う者として立てられました。神様も、そして、主イエスも洗礼の時から、すでにその十字架への道を知っておられました。それは、誰のためでもなく、私たちのためです。神は主イエスに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と語りかけられただけでなく、この言葉は私たち一人一人へのみ言葉であることを知らされます。慈愛と恵みに満ちた父なる神様からの語りかけに喜びをもって応え、その愛の中で生きることで、私たちは御心に適う歩みを続けることができるのです。

 主イエス・キリストが成し遂げて下さった救いの御業に改めて感謝し、一人でも多くの方が洗礼へと導かれ共に歩む群れに加わることができるよう、私たちを用いてくださるように祈り願います。


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