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『沈黙の主イエス』 2023年10月22日

説教題: 『沈黙の主イエス』  聖書箇所: マルコによる福音書 15章1~15節 説教日: 2023年10月22日・聖霊降臨節第二十二主日 説教: 大石茉莉伝道師


■はじめに

ゲッセマネで捕らえられた主イエスは、大祭司の屋敷に連れて行かれ、祭司長以下、長老、律法学者たちからの尋問を受けました。本来、最高法院はエルサレム神殿において、日中に開かれるものでありましたが、何とかして主イエスを亡き者にしようとする彼らの計略のために、既に根回し済みの者たちが集まり、夜中に裁判が開かれました。そもそも、彼ら、祭司長、律法学者たちは、民衆の暴動を恐れて、祭りの間はやめておこうと思っていましたが、ユダが行動を起こしました。過越しの食事の後、ゲッセマネで祈っておられる主イエスのもとに、彼らを率いたユダが近づき、接吻をした。そして主イエスは祭りの間に捕らえられることになったのでした。実際に事を運んだのは人間でありますが、それは神のご計画でありました。主イエスは過越しの祭りに捧げられる犠牲の小羊として捧げられなければならなかった。そしてそれによって私たちを含むすべての人間の救いが成し遂げられる、それが神の赦しのご計画なのです。ですから、祭司長たちは祭りの間は避けようとしましたけれども、神はこの時でなければならない、と決めておられたということです。エレミヤ書31:31-34にはこう書かれております。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した時に結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、きたるべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。そのとき、人々は隣人同士、兄弟同士、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を止めることはない。」つまり、完全な神の赦しが与えられる新しい契約を結ぶ日が来るのだ、と神は言われたのです。


■新しい契約の血

今、夜が明けて、主イエスは捕らえられピラトに引き渡されましたが、その数時間前、弟子たちと過越しの食事をとられた時、主イエスはご自身でこう言っておられます。マルコ14章24節「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」ルカではもっとわかりやすくこうあります「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である。」主イエスは今お読みしたエレミヤの預言、これをはっきりと意識しながら、私が十字架で流す血は、主が約束された神の完全な赦しのための新しい契約である、このように言っておられるのです。聖餐式において第一コリント11章の主の晩餐の制定の言葉が読まれますけれども、そこもこのエレミヤ書を引用しているわけです。第一コリントに記されている御言葉はこうです。「『この杯はわたしの血によって立てられる新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念としてこのように行いなさい。』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。」この主イエスの十字架、そこで血を流され死なれる、それは神が定めておられたご計画なのです。


■ピラトのもとに

その神の独り子、主イエスはまことの神でありながら、私たちと同じ血をもつ人として来て下さり、そして人として死を迎えられました。その十字架に直接に関わったのが、時のローマの総督、ポンテオ・ピラトであります。ポンテオ・ピラトの名は、あまりにも有名であります。私たちは毎週、礼拝において使徒信条を告白しております。使徒信条は紀元4世紀頃に成立して、7・8世紀に今の形になったと言われています。

ポンテオ・ピラトは私たち人間の歴史の中に神が介入された、そのことの証人として、使徒信条に名を残していると言えるのです。ポンテオ・ピラトも神の摂理において、用いられた人と言えるのでありましょう。

さて、ピラトは当時ユダヤを支配していたローマ帝国の総督でありました。総督はユダヤ人の宗教の問題、信仰の問題については関心がありませんでした。ローマの支配を否定しない限り、宗教に関しては自由でありました。しかし、「祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談して、」と1節にありますように、ユダヤ人の指導者たち全体が相談して、というより画策して、総督ピラトに引き渡したのです。主イエスを自分たちの宗教における異端者としてではなく、ローマ帝国への反逆者である、と訴えたのです。それは主イエスをローマのやり方で処刑するためでありました。ユダヤ方式であれば、石打ちの刑。ローマ方式であれば十字架刑です。十字架刑は、手足を釘で打ち付けてぶら下げて、人々にその姿を晒しながら、じわじわと死ぬのを待つという最も残酷な処刑方法であると言われていました。申命記21:23に、木にかけられた死体は、神に呪われたものである。と書かれておりますように、木にかけられる、つまり、十字架にかけられるというのは、ユダヤ人にとって最も残酷、絶望的な処刑方法であったのです。最高法院の面々は、そこまで主イエスを深く憎んでいたのです。神に呪われた者として死なせたかったのです。


■ピラト問われる

そうしてピラトに託された主イエスです。ピラトは主イエスに問いました。「お前がユダヤ人の王なのか」。つまり、自分こそがユダヤ人の王であり、ローマ帝国を否定する者であるのか?と問うたのです。ピラトにとっての王とは多くの軍勢を率いている権力ある者でありました。目の前にいる主イエスは、軍勢どころか、たった一人で全くの無力に見えました。そのような者が王であるはずがない、ピラトは侮蔑の思いでこの問いを発したのでありました。しかし、その質問に対して、主イエスは「それは、あなたが言っていることです。」と答えられました。この言葉は原文ではとても短い言葉であり、「あなたは言う」です。別の聖書では「あなたがそう言っています」とあり、これがこの状況をとらえているように思います。主イエスのこの短いお答えは、ピラトを戸惑わせました。あなたはどう思うのか?と主イエスから問われたということであるからです。ここまで来たら何としてでもピラトに刑を言い渡してもらいたい祭司長たちは、あれやこれやと訴えました。それを主イエスは黙って聞いておられました。黙して語らず、一言もお答えになりませんでした。「ピラトは不思議に思った」と5節にあります。ピラトの前に連れて来られる犯罪者たちは、なんとか刑を軽くしてもらいたいと、必死に弁明する者ばかりでありました。もしくは、声高にローマへの反逆の言葉を投げつける者でありました。そのような者たちに対してためらいもなく刑を言い渡してきたピラトでありましたが、今、目の前にいるこのイエスという男は、何も答えず、沈黙していました。「あなたはわたしをどうするのか」という自分への無言の問いであると感じ、戸惑ったのです。マルコは告発する者たちの前で驚くほど何も言わない主イエスを描いています。イザヤ書53章、苦難の僕の7節以下「彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前にものを言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」この預言の成就なのです。


■イエスかバラバか

さて、祭りの度ごとに人々が願い出る者を一人釈放することにしていた、つまり、恩赦であります。ローマ帝国は飴と鞭の政策を取っていました。大きな領土で様々な民族を押さえつけるためには、宥めの政策も必要だったからです。ピラトはこの群衆の力を利用しようと考えていたのが聖書から伝わってまいります。9節「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った、とあります。ピラトは群衆を誘導するかのようです。というよりも、自分にありとあらゆる理由をつけて死刑にしてほしいと言ってきた最高法院の面々の意向、というより陰謀、それと民衆の思いは違うと思ったのだろうと思います。10節にありますように、主イエスが引き渡されたのは、ユダヤ人指導者たちの妬みによるものだとわかっていました。そのあたりのことを、いわば忖度して、ユダヤ人指導者たちの殺意と民衆の支持との間でうまく落ち着くべきところに落ち着くであろうと考えていたのです。実際、バラバは「暴動の時に人殺しをして投獄されていた暴徒」でありますから、危険人物であります。この暴動というのも、ローマ帝国の支配に抵抗してユダヤ人の独立を勝ち取ろうとするものでありますから、まさに処刑に値する犯罪者なのです。ピラトもバラバを釈放したくはなかったのです。しかし、ここでまた、祭司長たちが群衆を扇動いたしました。そして群衆たちは「イエスを十字架につけろ」と叫んだのであります。ほんの数日前、主イエスがエルサレムに入城された時、群衆は「ホサナ、私たちに救いを」と言って喜び迎え入れた同じ群衆であります。神の名によって主イエスを歓迎した人々が、数日後には「十字架につけろ」というのです。なんという心変わりでしょうか。群衆の権威に弱い姿があらわれております。捕らえられて弱々しく見える主イエスよりも、最高法院の権威者たちのいうことを聞くほうが、自分たちにとって安全であり、有利であると思うようになったのでありましょう。長い物には巻かれろ、ということわざがありますけれども、まさに、権力のある者に従ったほうが得策、群衆たちの媚びる姿が露わにされています。


■十字架の決定

改めて、「それでは、あの者はどうしてほしいのか」と群衆と駆け引きをしましたが、うまくいきませんでした。「十字架にかけろ」と叫びます。「いったいどんな悪事を働いたというのか」と語りかけましたが、群衆の声はつのるばかりです。「十字架につけろ」。そしてピラトは群衆の圧力に負けて、バラバを釈放し、主イエスを十字架で処刑する決定を下したのです。15節にはその時のピラトの気持ちが暴露されています。「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。」ピラトは群衆が恐ろしかった。祭りの熱狂の中で、群衆の要求を拒否したら大きな騒ぎとなります。群衆を宥めること、そして自らの保身のために群衆の求めに応じ、そして主イエスの十字架刑が決まりました。決定を下したのは、ピラトであり、そして群衆であります。ピラトが裁き、群衆が裁きました。主イエスの受難、十字架には、このように人間の弱さ、醜さがあらわれ、「十字架につけろ」この言葉、この叫びに、人間の罪深さが鋭く表れているのです。


■結び

さて、主イエスは最高法院での裁判でメシアであるということを肯定された後は、何もお答えになりませんでした。ピラトからの尋問に対しても口を開くことはありませんでした。主イエスはなぜ沈黙しておられたのでしょうか。ピラトが不思議に思ったように、他の犯罪者たちのように弁明することはありませんでした。沈黙のままピラトの裁きを受け入れられました。それは、人間ピラトの裁きでありながら、神の裁きであったからです。主イエスは愚かな人間の罪を受け入れてくださいましたが、それは神のご計画、神の御心であったからです。主イエスは沈黙のうちに神の裁きを受け入れ、そして私たち人間の罪の赦し、神との和解を成し遂げて下さったのです。黙って裁かれることで、私たちには裁きと滅びではなく和解と赦しを与えてくださった、約束してくださったのです。主イエス・キリストの十字架は、私たちの全ての罪の赦しの約束なのです。そのような形で愛を示して下さった神が望んでおられることは、私たちが主イエスの十字架ゆえに悔い改めて、神に向き合い、神の祝福の内を歩むことであります。神の愛とはそのようなものであると力強く告白し、神を証しする者として歩むことであります。

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