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『権威ある者の教え』 2022年5月22日

説教題:『権威ある者の教え』 聖書箇所:マルコによる福音書 1章21節~28節 説教日:2022年5月22日・復活節第六主日 説教:大石 茉莉 伝道師

■はじめに

一行はカファルナウムに着いた。一行といいますのは、主イエス、そして漁師から召されて弟子となったシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネです。そしてカファルナウムというのは、ガリラヤ湖の北岸にある町です。別の聖書ではカペナウムと訳されているものもあります。オリーブの絞り器やひきうすなどが生産されていたようですが、漁業が主な産業でありました。そしてエジプトとシリアを結ぶ主要な貿易ルート上にありました。この時代は、ローマ兵が税金を強制的に集めており、この地にはいわば税関出張所が置かれていたようです。そのような情報だけでも活気のある街だということがわかります。繫栄した、富に満ちた町であるのと同時に、罪と堕落に満ちた町でもありました。ローマ軍の部隊基地でありましたから、ローマ帝国中から異教徒のさまざまな影響が広がっていたのです。主イエスが神の御国の福音を、ユダヤ人、異教徒、両方にお語りになるには、申し分ない場所でありました。主イエスはそのような地から宣教を始められたのです。


■安息日

「イエスは安息日に会堂に入って教え始められた。」原文では、「そしてすぐに」という言葉で始まっています。口語訳聖書では、「そして安息日にすぐ」と訳されています。この「すぐに」という言葉はマルコによる福音書では、前にも少しお話しましたが、特別な意味を持っています。15節にあるように、「時は満ち、神の国は近づいた」からです。ですから、「のんびりしている時間はない」「すぐに」「すぐに」とマルコは話の先を急ぐのです。主イエスは4人の漁師を弟子として連れてカファルナウムに入られて、そして「すぐに」伝道を始められたのです。「悔い改めて福音を信じなさい」そのことを一刻も早く人々に伝えようとされる主イエスのお姿は、この「すぐに」という言葉に示されています。

主イエスはカファルナウムに着いた後の安息日に会堂で語られました。会堂というのは、元々は「集まり」という意味の言葉で、ユダヤ人が集会をする場所であり、シナゴーグと今も呼ばれています。当時、ユダヤ人は安息日にはそのような集まりをもって、聖書、(旧約聖書)を学んでいました。特に、その中でも律法と呼ばれる箇所について、律法学者から教えを聞くというのが常でありました。エルサレム神殿が崩壊してからは、ユダヤ人たちにとっては、そのような集会が神を礼拝する場となったのです。このユダヤ人たちの安息日の集会が、現在の私たちキリスト教会の日曜主日礼拝の起源ともなっています。


■権威ある者

「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者として教えになったからである。」今日の聖書箇所はそのように告げています。「権威ある者として教える」主イエスがなさった教えに人々が非常に驚く、何がどう違うのでしょうか?権威ある者とはどのようなことを言うのでしょうか?

律法学者たちはどのように教えていたのでしょうか。律法学者、今でいえば、法学者ということになるのでしょう。専門的な知識を土台として、律法を守って生活するにはこのようにしなさいと教えていました。律法を解釈し、応用して、人々の迷いを解消し、日々の生活の中で、律法を守って過ごせるようアドバイスをする専門家でありました。彼らは律法を正しく教えていました。現代でも、裁判官や弁護士など、法に携わる人の言葉は権威ある者の言葉と捉えられることは多いでしょう。まさにそのように、おそらく当時は今以上にユダヤの人々は律法学者から教えを聞いていたのです。律法に根ざし、正しい解釈が語られていたわけですから、彼らの教えも権威あるものでありました。

しかし、その権威は彼ら自身の権威ではありません。彼ら自身に権威があるわけではないのです。律法学者たちは、律法にこのように書かれているから、聖書にこう書かれているから、ということを根拠として語りました。つまり、ここで権威があるのは彼らではなく、聖書に権威があるのです。主イエスはそうではありません。主イエスはご自身が権威を持っているお方なのです。「時は満ち、神の国は近づいた。」と宣言されました。神の救いの御業が新しく始まったことを人々に告げたのです。主イエスがそのはじまりなのですから、聖書を根拠としているわけではないのです。「悔い改めて福音を信じなさい。」というお言葉も、「時は満ち、神の国は近づいた。」という宣言に基づいています。主イエスは神の独り子としての権威を持っているお方として語られました。人々はそれを理解し、こんな教えは今まで聞いたことがない、と驚いたのです。

律法学者たちの教えは倫理道徳的には正しく、納得するものではあったでしょうが、驚きはありません。主イエスの語られる「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」そのお言葉は、今まで全く知らなかった、聞いたことのない、今までの常識ではわからない驚きでした。信仰は神様のみ言葉に驚くことから始まるといってもよいでしょう。主イエスのお言葉は人の心に突き刺さるのです。そして、このままでよいのか、悔い改めよ、変わらなければならないのではないか、という問いを投げかけておられるのです。そして、語りかける人々に、あなたは変わることができる、新しくなることができる、という招きを告げておられるのです。そのように主イエスのお言葉は、人々の心に波紋を投げかけ、揺さぶるものでありました。ですから聞いた人々には、驚きと、ドキドキとが与えられました。律法学者の教えは、単なる生活の上での解決法やルールを教えてくれるものであり、納得し、それに従って生活すれば、まちがいはない、というものでした。しかし、主イエスの教えはそのようなものではないのです。それぞれの人の内側において、投げかけられた波紋が広がり、もっと聞きたい、と思わせるものでありました。主イエスの権威ある教え、それは信仰への始まり、信仰への導きであるのです。


■悪霊との戦い

会堂で主イエスのお言葉を聞いていた者たちの中に、汚れた霊に取りつかれた男がいました。そしてすぐに、叫びだしました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ。」悪霊は主イエスの権威あるお言葉に反発します。かまわないでくれ、ほっといてくれ、我々とあなたにどんなかかわりがあるというのか、というのです。そしてこの男は「我々を滅ぼしに来たのか」と複数形で語ります。それはこの男自身の言葉ではなく、汚れた霊、悪霊の言葉だからです。ですから、主イエスは、25節で、「黙れ。この人から出ていけ。」をこの男に取りついている悪霊をお叱りになりました。この男を叱るのではなく、この男に取りついている悪霊を叱ったのです。複数の悪霊と主イエスとの戦いです。

悪霊は、人間に取りついて、心の病を引き起こすものと考えられていました。別人のようになり、複数の悪霊がかわるがわる登場することもありました。そのような状態になった人は、心が分裂した病と思われたわけです。このような悪霊を病気として捉えたとき、現代においては医学の進歩によって適切な治療がほどこされるようになったといえるでしょう。しかし、病気と関係なく、私たちの中に入り込んでくるものであることに目を向けたいのです。病気のこととして切り離して考えるのではなく、私たちを取り巻いているものとして考えたいのです。悪霊は私たちに絶え間なく攻撃を仕掛けてきています。それに心が向く時、私たちは主イエスを信じられなくなり、主イエスを第一としなくなり、神様のみ心よりも、自分の欲や思い、願い、をぬしとするようになるのです。そして、それに反対する者、妨げる者を敵とみなして対立するようになるのです。それは個人個人のレベルから、国と国との対立レベルまで様々です。いずれにしても人間同士が傷つけあい、隣人愛から離れ、むしろ対局としての敵意を生み出すのです。そのような悪霊の働きが私たちのすぐ近くにあり、いつでも私たちを引き込むものであることを忘れてはならないのです。


■主イエスによる解放

主イエスは「この人から出ていけ」と悪霊に向かっておっしゃいました。このとりつかれていた男を悪霊の支配から解放してくださったのです。主イエスが語られた権威ある教えは、このように悪霊と戦い、男を悪霊から自由にするものでした。

大切なキーワードなので何度も繰り返しますが、主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。」と宣言されました。それは神様のご支配による世界になる、ということです。悪霊は神様の支配下に置かれる存在です。ですから、神様は悪霊の力を打ち破り、神様のご支配を確立してくださるのです。悔い改めて福音を信じるということは、悪霊の支配から自由になりなさい、救いに与りなさいという神様の招きです。主イエスはそのことを私たちに示すために、人となってこの世にこられました。しかし、その主イエスに「かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」とこの男は言いました。主イエスを敵対視しているのです。この悪霊に取りつかれた男だけではく、現代における私たちの多くが、神様に向かって「かまわないでくれ、あなたとは関係ない、あなたと私の間にどんなかかわりがあると言うのか」と言い続けているといえるのではないでしょうか。「関係ない」とか「かまわないでくれ」という言葉は人間関係においても、他者を受け入れたくない時、自分を中心とした頑なさから発せられる言葉です。人間関係のみならず、この汚れた霊は神様を受け入れたくないという思いから発した言葉であります。そしてそれは、キリスト者である私たちですら、時に、神様との関係を断ち切ろうとするさまざまな思いや誘惑があることを覚えておかなければなりません。


■結び

主イエスは神の国の到来に逆らい、邪魔をするものに対しては、断固として厳しくお叱りになります。まだ先になりますが、マルコ8章に有名なペトロの否認と言われるところがあります。自らの十字架の道を予告された主イエスに対して、弟子のペトロは、そんなことがあってはならない、と主イエスを諫めました。その時、主イエスは、「サタン、引き下がれ」とペトロを叱りつけられました。それと同じ「厳しく叱りつける」という言葉が使われています。自らの道をふさごうとする者に対しては、きびしく叱責されるのです。厳しく命じる、という意味もあります。そして叱りつけられた汚れた霊は、その人にけいれんをおこさせ、大声をあげてその人から出て行きました。主イエスはそのようにして、神の支配を告げ、御国の確立のために、私たちをも支配する汚れを、汚れた霊を、追放されるのです。これが主イエスの権威ある者としての教えです。

主イエスは権威あるお方であられますが、決して自らを誇ったりなさるお方ではありませんでした。むしろ、神の恵みの支配を実現されるために、おひとりで十字架にかかられて、裁かれる者となってくださったのです。

この主イエスの教えによって、私たちは、まことの支配のもとで生きる者となります。神の民として、神を賛美し、神に愛されている者として、主イエスに始まっている神の支配をこの世に示す歩みです。主イエスはカファルナウムの会堂から教え始められました。そして私たちのこの会堂にも来てくださいます。礼拝において、主イエスのみことばが脈々と宣べ伝えられてきたのです。時に、私たちは様々なサタンの誘惑によって、心を騒がせ、神様を拒もうとするような力に捉えられることがあります。「わたしたちと何の関係があるのか」と言って、神様を拒もうとすることもあるでしょう。しかし、主イエスは、「黙れ、この人から出ていけ」と厳しく霊を叱り、私たちを解放し、そしてまた、神のもとに生きる者としてくださるのです。権威ある主イエスの教えに従い、神の御国の到来を知る者として、歩める恵みに心から感謝いたします。


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