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『栄光を見せられて』2026年3月8日

  • 11 分前
  • 読了時間: 10分

説教題: 『栄光を見せられて』 

聖書箇所: 旧約聖書  マラキ書3:19-24

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書17:1-13

説教日: 2026年3月8日・受難節第3主日 

説教: 大石 茉莉 牧師



はじめに

16章はペトロの信仰告白、そしてそれに続いて、主イエスの受難予告と大きく事が動いたことが記されておりました。今日の17章の主イエスのお姿が変わるという出来事、1節に「六日の後」とありますように、受難予告の6日後である、とこの連続性を福音書記者マタイははっきりと意識して記しています。そしてこの主イエスのお姿が3人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの目の前で変わったというこの出来事、山上の変貌として知られるこの出来事は神秘的であり、このようなことが本当に起こったのか、と思われる方もあるかもしれません。しかし、肝心なことは、神が人間の知覚によっては見ることができないようなものを見る力を弟子たちに与えたと言うことです。この出来事のことは9節において「今見たこと」と言う日本語で表現されていますが、この言葉は新約聖書で福音書ではこの箇所と使徒言行録においてのみ使われている言葉です。そして使徒言行録においては、すべて「幻」と訳されています。代表的な箇所を挙げれば、使徒言行録9章10節、サウロの回心において、弟子のアナニアが用いられる箇所、「幻の中で主が『アナニア』と呼びかけると」ですとか、10章9節以下、お腹を空かせたペトロの前に動物の入った大きな布のような入れ物が吊るされてきたこと、また、18章9節において四面楚歌のような状態のパウロに、主は幻の中で「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私はあなたと共にいる。」と力を与えられた箇所などがあります。人間の力によらない神の力の表れなのです。

 

■主イエスのお姿

この山上の変貌の記事は共観福音書、つまり、マルコ、ルカにも記されていますけれども、このマタイだけが強調しているところがあります。それは主イエスの「顔が太陽のように輝き」と言う言葉です。この文言はマタイ13章43節、「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。」「そのとき」つまり、御国の完成の時、天における完成者となるような、変貌を遂げた人間として示されているということです。4節にあるペトロの仮小屋を3つ建てましょうという提案は、主イエス、モーセ、エリヤ、が天に属する人間であるということを示唆していると言えましょう。列王記下2章11節によれば、エリヤは人間的な死の直前に天へと引き上げられていきました。モーセは申命記34章5節において死を迎えたことが記されていますけれども、6節「主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。」とありますように、死と埋葬を経て、神の力で天にあげられたと考えられています。そしてもう1箇所、ヨハネ黙示録1章16節には「顔は強く照り輝く太陽のようであった。」という、今日の箇所とほとんど同じ表現があります。ヨハネ黙示録というのは、使徒ヨハネが天上の世界を覗かせてもらい、それを表現したものです。ですから、天上における主イエスのお姿、主イエスの元々のお姿が今日の箇所において示されていると言えましょう。

 

■神の声

さて、この出来事は視覚的に惹きつけられる箇所ですけれども、5節にある神の声に目を留めたいと思います。「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。』という声が雲の中から聞こえた。」とあります。この同じ言葉はマタイ3章13節以下、主イエスがヨハネから洗礼をお受けになった時、天が開き、神の霊が鳩のように主イエスにくだり、そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御声が聞こえたというところと同じです。洗礼の時に神は「主イエスは神の子、メシアである」と宣言なさったように、ペトロの信仰告白に引き続いて、ペトロが宣言したまさにその通りのお方であるということが、この雲の中の声が示しているのです。そして「わたしの心に適う者」という言葉は、ここでは洗礼の時に示された言葉よりも、深く重いものでありましょう。それはすでに主イエスがご自身で予告されたように、天の父に対する徹底した従順、つまり十字架の苦難と死という役割を受け入れることを指し示しているからです。さらにここで神は「これに聞け」という言葉を発せられます。神はモーセを通して律法を与えられ、「これに聞き従え」と言ってこられました。また、エリヤのような預言者に語らせて、「その言葉に聞き従え」と言ってこられました。旧約聖書は律法と預言者という二つの部分によって成り立っていたわけですから、その代表がモーセとエリヤなのです。しかし、その彼らでさえも最終的な権威ではないのです。神の「これに聞け」とは、主イエス・キリストその方に最終的な権威があることを示しています。主イエスはマタイ5章17節で「わたしが来たのは、律法と預言者を完成するためである。」と言っておられます。そのお言葉の実現が今、ここで弟子たちに示されているということです。旧約聖書以来の神の救いのご計画が主イエスによって実現するという極めて重大なことがここに示されているのです。そして弟子たちは栄光の幻を見る以上に、主イエスの言葉に聞き従うように招かれています。さらにひれ伏して非常に恐れる弟子たちに「起きなさい。恐れることはない。」と彼らに近づいて手を触れて言われたのです。主イエスは神の子として高いところにおられるのではなくて、近づいてこられました。そして身をかがめなければ、弟子たちに触れることはできません。主イエスは身をかがめて手を置いてくださった。主イエスがおられるところには、こうして神の愛が示されるのです。

 

■3人の弟子たち

さて、このような主イエスの天上の栄光のお姿を見ることができたのは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけでした。その理由はこの後、26章36節以下、主イエスが逮捕される直前にゲッセマネで祈られた時に示されます。その時、伴っていった弟子たち3人がこのペトロ、ヤコブ、ヨハネでありました。主イエスはそこで「わたしは死ぬばかりに悲しい。父よ、できることならこの杯、つまり、十字架の死を過ぎ去らせてください。しかし、父の御心のままに。」と祈られました。この主イエスのもっとも深い悲しみと苦しみの祈りを目撃したのがこの3人なのです。彼らは山上で主イエスが栄光に輝くお姿を見、そしてゲッセマネで死を目の前にして苦しむ主イエスのお姿を見たのです。主イエスは力を示すのではなく、十字架の苦しみと死によって神のご計画、救いの御業を成し遂げてくださいました。できれば避けて通りたい十字架を、主イエスは父なる神の御心に従ってご自分の十字架を背負って歩み通してくださったのです。

主イエスはこの山上の栄光の姿を誰にも話してはならないと言われました。それは「人の子が死者の中から復活するまで」という限定つきです。この栄光に光り輝く姿だけでは弟子たちは主イエスの救いの御業の完成のための片面しか見ていないからです。山上で光り輝く主イエスとゲッセマネで悶え苦しむ主イエスが同じ方であるということを知らされることによって神の救いの恵みが完全に示されるのです。弟子たちはこの山上で主イエスの復活による栄光の片面を見ることが許されたのです。ですから、主イエスが十字架におかかりになって、死なれ、そして甦りをなさった後は、主イエスのご栄光を語ってよいのです、いえ、語らなければなりません。主イエスのご栄光は十字架の苦しみと死を経て実現する復活の栄光であるということなのです。

 

■下山中の出来事

それから主イエスと弟子たちは山から下山します。その道すがら、弟子たちは「なぜ律法学者は、まずエリアが来るはずだと言っているのでしょうか。」と尋ねました。本日の旧約聖書はマラキ書3章19節以下、まさに旧約聖書の最後のところを共に読みました。23節には「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」と記されています。律法学者たちはこの箇所を根拠にして、救い主メシアが現れる前には、預言者エリヤが必ず来ることになっている。そのエリヤがまだきていないのだから、主イエスは救い主メシアではない、と言っていたわけです。弟子たちはこの律法学者の主張をどう考えたら良いでしょうかと尋ねました。これから降りていく麓では、主イエスはメシアではないという対立があります。先ほど彼ら3人は栄光に輝く主イエス、そして共にエリアの姿を見ているわけですけれども、その主イエスの栄光のお姿は麓の日常世界においては、まだ隠されており、また、それらを見たことも誰にも話してはならないと主イエスから命じられました。そのことへの戸惑いもあったのでしょう。主イエスはお答えになりました。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」主イエスはそのエリヤは既に来た、と言われました。しかし、人々は彼を認めず、好きなようにあしらった。つまり、13節に「洗礼者ヨハネのことを言われたのを悟った。」とありますように、領主ヘロデに捕らえられ、獄中で首を斬られて死んだヨハネこそ、主イエスの道備えをするエリヤの再来だったのです。そうしてエリヤの再来である洗礼者ヨハネが来たことによって、主イエスこそが来たるべきメシアであるということのしるしが与えられているということを示しておられます。旧約聖書マラキの預言は洗礼者ヨハネの預言によって成就している、主イエスはそう言われます。そしてここで大切なことは12節の後半、ユダヤ人敵対者たちは、洗礼者ヨハネが誰であるのかを認めず、そして「好きなようにあしらった」ということです。その洗礼者ヨハネと同じ苦難の道を人の子イエスもまたたどらなければならない、ということがここに示され、今日の最後の言葉「弟子たちが悟った」ということの言葉の中にはこの意味も含まれているということです。弟子たちが主イエスと共に、山上で見た栄光を共にすることを望むのであれば、主イエスが受けられる苦難にも参与しなければならない、これが主イエスと共に山を下りる意味なのです。

 

■結び

山を下りる、それは私たちにおけるこの日常生活のことでありましょう。山の上での霊的な体験、それはこのキリストの満ちた教会での礼拝と重ねることもできるでしょう。この私たちの主の日毎の礼拝は、私たちに非日常を見せるためではなく、現実の歩みへと送り出すためにあります。礼拝の最後の祝福の前には派遣のことばが加わりました。そのようにして教会から送り出されるのです。「安心して生きなさい。平和のうちに、この世へと出ていきなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。」私たちは山の上で、主イエスの輝く栄光のお姿を見ていたい、と願いますけれども、主イエスは私たちを伴って山を下りられるのです。そしてその主イエスが歩かれる苦難の道を共に担うように導かれます。この山の下での生活は、厳しいものであります。病もあり、悲しみもあり、苦しみもあって、もがき苦しみます。しかし、主イエスは言われるのです。わたしが共にいる。そしてあなたがたはいずれ与えられる栄光の姿を見ているではないか。その主イエスは私たちの重荷をすべて担ってくださり、十字架で死んでくださって、そして甦りをなさって、父なる神と共におられる。そのお方が共にいてくださるのです。そのお方が共にいてくださるのですから、私たちのこの世での苦難、戦いは敗れることはありません。主イエス・キリストが勝利を得させてくださるのです。私たちは神のお声「これはわたしの愛する子。これに聞け。」というこの神の御声に聴き従う者として、栄光の姿をすでに見せられた者として、その約束を信じ歩み続けたいと思います。

 
 
 

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