説教題: 『栄光の始まり』
聖書箇所: マルコによる福音書 9章2~13節
説教日: 2023年2月19日・降誕節第九主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
今日与えられた御言葉は9章2節からでありますが、ここだけお読みしますととても不思議な神秘的な出来事が書かれております。主イエスのお姿が変わったというこの出来事を書き記すにあたって、マルコは「六日の後」という時を示す言葉から始めています。さてそれは何から六日の後であるのかと申しますと、それは先週共にお読みしました8章31節からの、主イエスご自身がご自分の死と復活を予告されたあの出来事であります。
その数節前、8章27節の「ペトロの信仰告白」はこのマルコ福音書において大きく場面の変わるところであると申し上げました。それに続く主イエスご自身による死と復活の予告、いわゆる受難予告、この箇所は福音書において大変意味を持つところでありますから、今日の御言葉とのつながりにおいて、繰り返しお聞きいただきたいと思います。先週、触れることのできなかった8章38節、そして9章の1節をお読みします。「『神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。』また、イエスは言われた。『はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。』」
■主イエスの約束
「はっきり言っておく。」と訳されている言葉は、直訳しますと、「アーメン、わたしはあなたがたに言う。」であります。「アーメン」はまことに、真実に、という意味であり、主イエスが大切なことを宣言なさる時にはこの言い方をなさいました。そうして言われたお言葉は、繰り返します、9章1節「ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」つまり、一緒にいる弟子たちの中に、神の国が力に溢れて現れるのを見る者がいる、と言われました。神の国が現れる、神の御支配が確立する、そして主イエスが栄光に輝いてもう一度来られる時、を見る者がいると言われたのです。それは将来のことであり、この御言葉が語られた時はまだ神の国は実現していません。しかし、それはまことにその通りである、とはっきり宣言されたのです。つまり、神の国、主イエスの栄光は、何千年もしなければ現れないのではない、あなたがたの中にはそれを生きて見ることができる者がいるのだ、という約束を主イエスはくださいました。聖書が書かれた初代の教会においては、そのような主イエスの再臨はすぐにも起こること、自分たちが生きている間にこの世の終わりが来ると考えていましたが、二千年経った今も、神の国は実現していません。そのように考えますと、この主イエスの約束はどのような意味を持っているのか、約束は実現しなかったのか、とも思えますが、そうではありません。今日の2節以下に語られている出来事がそうであります。主イエスの栄光のお姿を彼らは確かに見たのであります。
■主イエス・モーセ・エリヤ
さて、今日の御言葉の始まり2節には「六日の後」と書かれています。つまり、主イエスが今お話した約束、宣言をなさってから六日の後に起こったことが語られています。主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて高い山に登られました。するとその時、主イエスのお姿が彼らの目の前で変わりました。「服は真っ白に輝き、この世のどんな晒職人の腕も及ばぬほど白くなった」と書かれています。「真っ白に輝く」これは栄光を表わす表現です。主イエスの約束はこうしてペトロ、ヤコブ、ヨハネの目の前で実現しました。正確には「実現した」ではなく、「実現し始めた」ということでしょう。三人の弟子たちに、この世の終わりの神の国の力、主イエスの栄光の姿が示されたということであります。主イエスのそばにはエリヤとモーセが共にありました。モーセはエジプトで奴隷の状態にあったイスラエルの民をエジプトから導き出し、シナイ山で神から十戒を授かったいわば律法の代表者であります。そしてエリヤは預言者の代表であり、この世の終わりの時にはエリヤが来ると思われていました。モーセとエリヤは旧約を代表する人物であり、その二人が主イエスと語り合っていたとありますから、これは主イエスと旧約聖書のつながりを示すものであります。旧約聖書における律法と預言、旧約聖書の核をなすこの二つが主イエスにつながり、そして主イエスから新しいイスラエル、新しい民の歴史が始まることを表していると言えるのです。
■彼らが話していたこと
「エリヤとモーセが主イエスと語り合っていた」と聖書は記しています。このマルコ福音書ではそれ以上のことは記されていませんが、ルカ福音書9章31節を見ますとこう書かれております。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」
つまり、エルサレムでの十字架の死のことについて話していたということです。申しましたように、モーセとエリヤは旧約の代表者、そして主イエスは新約の代表者、主イエスによってつながり、旧新約聖書を貫く主題は主イエス・キリストの十字架の死によって成就し、神の救いが実現することであります。この十字架の死が神の子主イエスの栄光を表わすお姿なのです。主イエスがこの世のどんな白よりも白く輝いていた、というのはその栄光を表わしているのです。今日の出来事の直前で、主イエスはご自身でご自分の死と復活をお話になられました。ご自身の受難をはっきりと予告されたのです。この受難の主こそが栄光の王の姿なのです。
■3つの仮小屋
さて、そのように主イエスの栄光は十字架の死による栄光でありますが、この時のペトロ、ヤコブ、ヨハネにはそのことは理解できませんでした。直前の主イエスのご自身による告白でもペトロはそんなことはあってはならないと主イエスをいさめたとありました。その後に主イエスが弟子たちに言われたお言葉も彼らはわかっていなかったのです。彼らの目の前で今真っ白に光り輝く彼らの考える「栄光」の姿、それを見てペトロはこう叫びました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロはどう言えばよいか、わからないぐらい目の前の素晴らしい光景に有頂天になっていました。おそらくペトロはこの山上に今すぐに小屋を建てて、3人に入っていただき、3人にそこにとどまっていただきたいと思ったのではないかと思います。瞬間的にそう思って、こう言ったのでしょう。私たちが教会の礼拝堂で神様の臨在に触れる時、その時がずっと続くようにと願うのと同じ気持でありましょう。
■神からのお言葉
そのようにペトロが言い、思っていると、雲が現れて栄光に輝く3人の姿を覆い隠しました。そして雲の中から声がして、神様は言われました。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」この言葉と共に、まるで夢であったかのように、自分たちと共におられる主イエスのお姿だけとなったのでした。この山に登られて、主イエスのお姿が目の前で変わり、そして真っ白に輝き、白くなった。と日本語では、主イエスご自身によるもののように訳されていますが、これはすべて神様によってなされたものです。原文に正しく訳しますと、「主イエスのお姿が目の前で変えられた、そして真っ白に輝かされた。」となるのです。主イエスご自身がご自分でされたことではなく、あくまでも神が主体で、主イエスは受動的な存在であります。
ヨハネ黙示録7章9節には世の終わりの時、私たちがどのような者とされるかということが象徴的に示されています。「見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って・・・」とあります。キリストが再び来られるその時、私たちが栄光のうちに甦るその時、真っ白な衣を身に着けて、玉座の前に立つ、というのです。そして小羊とは、人々の救いのために犠牲となって屠られた主イエス・キリストのこと。その主イエスの前に立つのだと黙示録は記します。そのような終末の様子が、つまり神の国の姿が主イエスにおいてここで神によって示されたということなのです。
神からの言葉「これはわたしの愛する子。これに聞け。」マルコ福音書1章において主イエスがヨハネから洗礼をお受けになった時の神からのお言葉「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者。」という言葉を思い出されるでしょう。主イエスが洗礼をお受けになった時は、そのように主イエスに対してお言葉がありました。そして今、この場面においては、そこにいる弟子たちに向けて、ここにいる主イエスが「神の独り子、愛する御子であるのだ」という真理が示されたのです。しかし、弟子たちは仮小屋、栄光の山に留まるように、エルサレム、十字架への道に向かわないように、と願っているのです。そのような弟子たちの無理解に対して、神は、「これに聞け」、主イエスに従え、とお言葉があったのです。この言葉は、人の子として生きて来られている主イエスが神の子であるということであります。神の子であるメシア、主イエスによって終わりが始まっている、そのことがここで示されました。それは私たちの罪の終わりであると同時に、栄光の始まりなのです。
■栄光の先取り
そしてその後、「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」と8節は記します。主イエスの他は誰も見えませんでした、むしろ、彼らと共におられる主イエスを改めて発見したと言えるでしょう。そうして主イエスを先頭にした一同は山を下ります。主イエスは栄光の山にとどまろうと思えば、留まれたことでしょう。しかし、主イエスはこの世の現実に降りて来られ、十字架への道をしっかりと見据えてこの世へと出ていかれるのです。
そして主イエスは弟子たちにお命じになりました。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない。」誰にも話してはならないと言われたのは、まだ主イエスのご復活を見ていない弟子たちが、分からないままにこの出来事を語っても、キリストの栄光を現わすものとはならないからです。大切なのは10節です。「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」とあります。この時、弟子たちはまだ、復活の主イエスにお会いしているわけではなく、復活とはどういうことなのか、がわからないのです。しかし、彼らは、この言葉を「心に留めた」。これはとても強く大切な言葉です。わからないながらも、山の上での主イエスの栄光のお姿を見たからこそ、復活について話された主イエスのお言葉を心に留めることができて、そして復活の主に出会った後には、主を賛美することができたのです。
私たちは主イエスのご復活を聖書を通して知ることができます。そしてその終わりの日には主イエスが再び来られ、神の国が完成することを待ち望んでおります。しかし、それがいつなのか、どのように来るのか、その栄光とはどんなものなのか、それはまったくわかりません。しかし、私たちは、弟子たちの経験したこの出来事を心に留め、そして主のご栄光がこの時先取りとして示されたことを知り、それらすべてを私たちは心に留めることができるのです。
■結び
そして最後にはこうあります。「エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」エリヤとは、神の救いの完成の時に必ずもう一度遣わされる預言者であると信じられていました。主イエスがここでエリヤとしてあげられたのは、洗礼者ヨハネのことであります。その洗礼者ヨハネを人々は歓迎しながらも、結局は好きなようにあしらい殺してしまった。エリヤであろうが、人の子であろうが、人々は好きなように、やりたいようにする。しかし、それは「聖書に書いてある通り」なのであり、つまり神の御心であると主イエスは言われました。それゆえに、この私も殺される。そしてよみがえらせられる。それが聖書に書いてある通り、神のご計画である、と主イエスは言われたのです。「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」聖書にそう書いてあると主イエスは言われました。イザヤ書53章のことです。この53章にでてまいります「彼」は主イエスのことであります。3節「主イエスは軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」5節「主イエスが刺し貫かれたのは私たちの背きのためであり、主イエスが打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。主イエスの受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、主イエスの受けた傷によって私たちは癒された。」7節後半「屠り場に惹かれる小羊のように、毛を切る者の前にものを言わない羊のように、主イエスは口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、主イエスは命を取られた。」12節後半「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人、主イエスであった。」
人間は自分のやりたいようにし、神を無視し、そして神の子を殺してしまいました。しかし、それを通して、神への執り成しをなしてくださった主イエスの栄光のお姿は十字架にあります。神の計り知れない私たちへの愛は、主イエスの十字架を通して示されております。そして変貌するのは主イエスだけではありません。「これはわたしの愛する子。これに聞け」、そう言われる主イエスにお従いする私たちも、主イエスによって新しく生まれ変わらせていただき、神の御業の中に生きる者とされているのです。
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