説教題: 『柔和なお方に倣う』
聖書箇所:イザヤ書2:12-17
聖書箇所:新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙6:1−10
説教日:2024年6月9日・聖霊降臨節第4主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
ガラテヤの教会の人々へと書き綴ってきたこのパウロの手紙、最終章の6章に入りました。この手紙の1章、始まりにおいては、パウロは愛する兄弟へというような挨拶も抜きで、「私はあなたがたにあきれはてています」という強く激しい論調で書き始めました。そこから律法によってではなく、キリストの真実によって義とされる、恵みを受け取り、聖霊の導きに従って歩め、ということをここまで繰り返し、あの手この手で説明してきました。そしてこの6章に入りますと、パウロの論調には優しさが感じられます。もし面と向かって話していたとしたら、口角泡を飛ばして、という鬼気迫る表情から、穏やかで落ち着いた口調で諭すようなパウロの様子が見て取れるのです。福音の真理に立つ、という点においては、少しの妥協も許さないというパウロの厳しさと、人を真理へと導くための優しさ、労りを兼ね備えたパウロの成熟した信仰、その両面を見ることができるのです。
■柔和な心
この6章の冒頭の言葉は、「兄弟たち」という呼びかけです。この兄弟たち、という言葉には、神の家族としての一体性、共にキリストにあって恵みを受けている者、共に救いに与っている者、というように、「主にある」という大きな恵みが含まれている表現です。そのような主にある者が罪に陥っている時、どうすべきなのか、今日の箇所でパウロはそのことを語ります。そのような人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。と言っています。このガラテヤ書、ガラテヤの人々に書き送ったこの手紙は挑戦的な手紙である、パウロが福音を曲げようとする者たちへの徹底した闘いの手紙であると申し上げてきました。実際、1章8節には正しい福音を覆そうとする者は呪われるが良い、という激しい言葉を投げつけていました。それがこの6章に入りますと、兄弟たちという呼びかけとともに、語られるパウロの言葉、勧めはとても穏やかなものが感じられます。ここから感じ取ることのできる穏やかさ、優しさ、これがパウロという人物の性質であろうと思います。以前にもパウロがここまで戦闘的に戦いを挑むのは、それが神に関わる事柄だからであり、絶対に曲げることのできない福音に関することだからである、とお話しいたしました。しかし、ここではこの1節に「だれかが不注意にも何かの罪に陥ったら」とありますように、その人の弱さなどから過ちが生じてしまったら、ということです。罪は誰もが犯しうるもの、誰もが犯す恐れがあるものである、という意味合いが込められています。ローマの信徒への手紙3章10節でパウロが「正しい者はいない。一人もいない」と言いましたように、誰もが罪人である、人間は弱い存在であり、誰もが同じであるという前提で話をしているのです。この「何かの罪」というのは言葉の意味としては、単に失敗とか過失と訳せる言葉ですが、5章19節以下に記された肉の業として挙げられている悪の事柄を指すとも言えるでありましょう。また、信仰上の弱さ、迷いなどから生じる過ちもあるかもしれません。いずれにしても、その人の罪があらわになり、他の人も知るところとなり、本人も苦しんでいる、という状況でありましょう。そのような時、その罪の中にある人に非難の目を向けるな、とパウロは言うのです。また、蔑みの眼差しをむけてしまうこともしがちです。また、その人に比べれば、自分はマシだと思う、そのような感情を人間は持ってしまいがちです。人が犯した罪を見て、自分でなくてよかったと胸を撫で下ろす、そのような誤った態度を取るのではなく、柔和な心を持て、とパウロは言います。この柔和という言葉は、前回の霊の結ぶ実の中に出てまいりました。「柔和」とは思慮深さを表す言葉である、と申し上げました。「主は、誠実と柔和を喜ばれる。」そのように言われていることもお話ししました。柔和とはそのような聖霊の賜物として与えられるものであります。
■霊の導き
ガラテヤの人々はこの時、多くの問題を抱えていましたが、パウロは、あなたがたは元々は聖霊の働きによって、主イエスを救い主であると信じた者たちであったであろう。聖霊の働きによって生かされ、聖霊の導きのもと歩む者たちであったであろう。そのことをパウロは切々と言い続け、確認し続けてきました。ここでも「霊に導かれて生きているあなたがた」と言っているのは、決して皮肉ではなく、ガラテヤの人々への信頼の言葉であると思うのです。実際、ガラテヤの人々は割礼の問題によって、惑わされ信仰が揺らいでいました。そのような不安定な状況にあって、教会内で裁き合うのではなく、罪の赦しを共に祈り願う、そうであって欲しい、兄弟たちよ、と言うのです。怒りや裁きではなく、その人に寄り添い、その人の弱さ、痛み、苦しみを共に受け止め、そしてその人のために祈る、それを実践しようではないか、と言うのです。主イエス・キリスト、この方が柔和な方であることを思い出してください。マタイによる福音書11章29節(21頁)、「わたしは柔和で謙遜な者である。」という言葉があります。パウロが望む、怒らず、裁かず、寄り添い、罪人の傍に立つ、痛みを共にする、すべて主イエスを指し示していることであります。私たちは主イエスに倣う者たちであります。私たちの肉の部分では、醜い者であったとしても、主イエスが私たちと共にいてくださるとき、つまり、聖霊が私たちのうちにあるとき、霊に導かれている時、私たちは神の赦しを共に祈り願うことができるのであります。2節に「互いに重荷を担いなさい」とあります。相手の傍に立たなければ、相手の荷物は一緒には持てないのです。横に並んで、相手と同じ歩調で、相手と同じ位置にいなければ、重い荷物は軽くはなりません。また、この2節には「キリストの律法」と記されていますが、この箇所にしかない言葉です。マタイによる福音書22章37節以下にあります、最も重要な掟として主イエスが言われたお言葉「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。そして隣人を自分のように愛しなさい。」この愛の律法とキリストの律法は同じことを示しています。
■高慢という罪
今日与えられた御言葉の3節以下を読みますと、今の私たちと2千年前の人間、変わらないのだなぁ、とつくづく思わされます。アウグスティヌスという4世紀のローマ帝国時代の偉大な神学者は、人間の罪はパウロのあげた肉の業の罪と、高慢、傲慢という罪の2種類に分類できると言っています。パウロは3節で「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思うひとがいるなら、その人は自分自身を欺いています。自分の行いを吟味しなさい。」と言います。ここで言われていることは、自惚れ、高ぶり、傲慢、ということでありましょう。人と比べて、自分は優っていると考えることにより人を見下し、そして傲慢になります。人との比較ではなく、神との関係の中で自分自身を見つめよ、というのです。この人と比べて自分の方が上、と考える愚かさは2千年前から何も変わっていません。今も私たちの心の一角に間違いなく巣を作っています。アウグスティヌスが分析した罪の理解、肉の欲望と傲慢さ、これが人間の罪であるという理解は今も少しも色褪せず、むしろより蓄積したものとして迫ってくるようにさえ思えるのです。
2節では「互いに重荷を担いなさい」と書かれていましたが、5節では「めいめいが自分の重荷を担うべき」と言われております。両方とも重荷と訳されていますが、実は元々の言葉が異なります。5節の重荷と訳されている言葉は、責任と訳したらわかりやすくなるでしょうか。「担うべきです」と訳されているこの文章は、本来は未来形の文でありますので、正確に訳しますと、「めいめいが、自分の重荷、責任を担うことになるからです。」ということになります。つまり、これは、将来の救いの日の完成の時、各々が神の御前に立ち、それぞれの責任を問われます。それは神との関係における責任、神への応答をどのように築いてきたかであり、それは他の人が担うことのできるものではありません。ガラテヤの教会の人々は、すでに自分たちは救われたのだから、という高ぶりにありました。神の愛によって救われた、その愛に応答するのではなく、あぐらをかくと言いましょうか、応答責任を果たすことなく、他人に対して自分を誇っていたのです。このことも2千年前も今も、全く変わっていません。
■種蒔きと収穫
続く箇所では、自分の蒔いたものを、自分で刈り取る、という誰にでもわかる原理原則を取り上げて、パウロは真理を語ります。種を蒔く、という教えは神が天地創造されてから変わることのない原則です。そして神が種を蒔くのと同時に、サタンも種を蒔くのであります。福音書に毒麦の喩えがあります。マタイによる福音書13章です。毒麦を抜き取りたいと主張する使用人に対して、刈り入れの時までそのままにしておきなさい、という主人の話です。毒麦であれば、抜いてしまったら良さそうなものですが、そうして切り捨てていくと何もなくなります。誰一人、清い人はいないからであり、最終的な刈り入れの時に神に対する責任応答をどのように果たしてきたかと神に問われて、そして神が選り分けられるのであります。さて、この箇所において、種のことよりも、種を蒔く地面、場所が問題にされています。8節にこのように記されています。「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取る。」自分の肉に蒔くというのは、自分自身の満足を求める生き方でありましょう。この世の楽しみを求め、お金も時間も、自己中心的な目的のために使う。そのような生き方は滅びを刈り取ると言われています。一方、霊に蒔くとは、神の御心を問い、その御心の求めることに従っていく生き方でありましょう。そのような生き方は神の御心の道を歩むのであり、祝福の果実、永遠の命を与えられるのです。それはいわゆる良い行いをするという倫理的なことが求められているのではなく、神の御心に従うことは、神の求める行いであるということです。私たちは何かを行おうとする時に大切なことは、それは主のためであるかどうか、ということです。「主のため」という言葉を隠れ蓑にして、自分の目的を達成することのないよう、よく吟味する必要があると思うのです。
■結び
パウロは今日の最後の箇所でこの箇所の総括を述べています。「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」このような表現から私たちが想像いたしますのは、倫理道徳的な良き行いの勧め、というように捉えがちですが、そうではありません。パウロの時代、人々は終末、主の再臨は自分たちが生きている間に来ると信じていました。近く来るその時に備えて、一人一人のキリスト者の在り方が、キリスト者共同体を成熟させ、そしてそれがより広いすべての人にとっての神の国の実現としてもたらされると考えていたのです。実際にはこの人々の生きている時代には主の再臨はもたらされず、現代の私たちもその再臨を待つ中間を生きているといえます。パウロはその時がいつ来ても良いように、弛まず、緊張感を持って、継続的に、善を行いなさい、つまり、神の御心に沿った生き方をしなさい、というのです。私たち一人ひとりが霊に導かれた生き方は、教会における兄弟姉妹の生き方をも成熟させるのであり、そしてそれは教会が世に示す奉仕でもあり、教会の成長でもあるということです。私たちもそのような広い視野で、神の御心を問うてゆきたいと思います。
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