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『未来の希望の始まり』 2024年7月28日

説教題: 『未来の希望の始まり』

聖書箇所: 旧約聖書 エレミヤ書31:15-17 

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書2:13―23

説教日: 2024年7月28日・聖霊降臨節第11主日

説教: 大石 茉莉 伝道師


はじめに

前回、登場いたしました学者たち、ヘロデのところに戻って知らせることなく、自分の国へ帰って行きました。そのことを知ったヘロデの怒りは想像を絶するものがあります。そもそも「わたしも行って拝もう」と口から出まかせを言っていたヘロデなのです。そのような言葉で学者たちを手なづけたつもりでありました。見つけたら主イエスの場所を知らせてくれると思っていたのです。そして、拝みに行くどころか、殺す企みを持っていました。さて、学者たちが自分には知らせにこない、ということを知ったヘロデはなんとかして探し出し、殺そうとするわけです。そしてヨセフのところには再び、主の天使が現れて言いました。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこに留まっていなさい。」それを夢の中で聞いたヨセフは、起きてすぐに行動に移しました。ヨセフの神に対する信頼、信仰がここにも示されています。一番大きな決断であったマリアのお腹の子どもをそのまま受け入れなさい、という天のみ使いの声を聞いた時も、眠りから覚めると命じた通りに受け入れたのでありました。そして今回も、即座にその言葉に従います。これは父としてのヨセフが妻マリアその子どもイエスを守るという父としての責任感や愛情よりも、神に従う一人の信仰者としての姿が示されているのです。

 

■第二の出エジプト計画

ヨセフはそのように主の言葉に従って、エジプトへ避難いたしました。ヘロデが死ぬまでそこにいた、と記されています。ヘロデ大王の死去は一般世界史的には紀元4年と言われていますから、ヨセフが生まれたばかりの主イエスを連れてエジプトに滞在したのは4年間ぐらいということになるのでありましょう。そして15節には「それは、わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」と書かれています。このマタイ福音書は「預言者の言葉の成就」ということが何度も使われているとお話ししてきました。著者マタイにとって、主イエスは旧約の預言の完成者、旧約聖書との繋がりにおいて、それを実現、完成される方であった、そこに神の言葉の完成を見ていた、つまり、主イエスにおいて起こることは、神が全てあらかじめ計画されていたということです。ここで引用されていますのは、ホセア書11章1節-1416頁、「また幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」という預言でありますが、同時に記憶されるべきことは出エジプト記4章22節「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。」という言葉でありましょう。かつてイスラエルの民はエジプトで苦しい奴隷生活を送っており、その叫びに神が応えてくださり、出エジプトという救いの出来事が起こりました。モーセに率いられてエジプトから脱出したイスラエルの民は、私だけを神とせよ、私に従って歩め、と命じられ、それを約束したイスラエルの民でありましたが、あっという間に神から離れました。金の子牛を作り、それを拝むという偶像崇拝に始まり、その後の王たちの歴史も神からの離反を繰り返し、罪を重ねたのでありました。そんな民に対して、神はどうされたのか、それは先ほどのホセア書11章の8節に神の思いが示されています。「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。」エフライムとはヤコブの11番目の子供、兄たちの妬みによってエジプトに売られてしまったヨセフの子どもです。ヤコブの子どもとなり、そののち、北王国の王たちが生まれていくことになる血筋であります。罪を重ねる神の子供たちに対して、神は憐れみに胸が焼かれる思いであるとさえ言われるのです。ヘロデから避けるために、神が主イエスのために用意された場所は、エジプト。イスラエルの民の救いの原点であるエジプト。かつてはモーセに率いられて起こった救いの出来事が、新しい出エジプトが神によって計画されているということがここに示されているのです。

 

■ヘロデの大虐殺

さて、学者たちの自分への裏切りを知ったヘロデ王は尋常ではない行動に出ます。ユダヤ人の王として生まれた幼子を特定できなくなってしまったゆえに、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺してしまえと命じました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」は自分の地位を脅かす存在であり、その排除のためには手段を選ばず、可能性のあるものを全て殺すというやり方です。ヘロデのこのやり方は誰もが尋常ではないということを感じるものではありますが、自分が王であり続けるため、自分を守るためには人間は罪を犯し続けるのです。これはヘロデ王に限らず、現在も起こっていることです。戦争もそうです。平和を望みながらも、自分の思うように人を動かしたい、自分の思いを実現したいと考える、それは小さなヘロデであり、王は自分なのであります。それゆえにまことの王がいらした際には、自分が王ではなくなる、そのことに不安を覚え、王座を明け渡さないためにはまことの王を受け入れるどころか、人をも受け入れず自分が中心にいるのです。ヘロデのような残忍さは持っていないとしても、まことの王の前にへりくだる謙虚さは持っていないのが私たちなのです。

 

■慰めと希望

そしてここにもまた、マタイ特有の「預言者を通して言われていたことが実現した」と記されます。ここには預言者エレミヤの言葉が記されています。エレミヤ書31章18節-1235頁からの引用です。ヤコブが愛した女性がラケルでありました。結婚を認めてもらうために、ラケルの父ラバンのもとで働きますが、ヤコブがラバンによって結婚させられたのは姉のレアでありました。そしてラケルと結婚させてもらうためにラバンのもとでヤコブは更に長く働きました。その間に姉レアとの間には子供ができましたが、ラケルとの間にはなかなかできませんでした。そしてやっとできた子供がエジプトに売られてしまったヨセフでありました。ヨセフの後にベニヤミンという子供が生まれますが、出産の際にラケルは難産ゆえに死んでしまったのでした。これがラケルにまつわる聖書の記述でありますが、この箇所はバビロン捕囚の嘆き悲しみを伝えています。ラマというのはバビロン捕囚の時に連れて行かれた場所です。ヤコブがイスラエルという名前を与えられて、イスラエルの基となったように、その妻であるラケルはイスラエルの母であることを意味しています。その母が、子供たちがバビロンに連れて行かれたことを慰めをも拒むほどに嘆き悲しんでいるのです。このラケルの悲しみを、ヘロデによって子供を殺された母親たちの嘆き悲しみと重ねて、エレミヤの預言の実現であるとマタイは告げています。しかしそれは、悲しみに終わりません。続く16節にはこうあります。「主はこう言われる。泣きやむが良い。目から涙をぬぐいなさい。」絶望しか感じられないような出来事の中にも、「あなたの未来には希望がある」と主は言われるのです。

主がここで語られた「未来の希望」それはバビロン捕囚からの解放、帰還でありました。そもそもバビロン捕囚とは神に背いた民に対する神の裁きでありました。それはまことの王を王とせず、自分たちを王としようとするという罪によるものでありました。バビロン捕囚を経験したイスラエルの民は、まことの神に立ち帰る、という深い悔い改めへと向かうこととなります。神はイスラエルの民に徹底した愛を貫かれ、私というまことの神に立ち帰るならば、憐みと慈しみを持って赦しを与える、そのことを願っておられました。マタイはここで、エレミヤの預言、そしてバビロン捕囚のことを告げながら、今、現代の私たちに対しても、神への立ち帰り、悔い改め、それによる神の希望を告げているのです。エレミヤ書31章の20節にはこう続きます。「エフライムはわたしのかけがえのない息子/喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。/彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられないと主は言われる。」これが神です、神の愛であります。先ほどはホセア書11章8節の「エフライムよ、お前を見捨てることができようか」という言葉をお読みしましたけれども、このエレミヤ書にも同様に、罪を重ねる神の子供たちを深く心に留め、憐れまずにはいられない、という神の言葉が示されているのです。

 

■ナザレの人

主イエスのお誕生、そして、エジプトへの避難、この時点では、まだ、希望が示されているわけではありません。ヘロデの死後、再びヨセフに主の天使があらわれ、そしてイスラエルに戻るように告げます。ヨセフは再び、その言葉に従順に従います。ここ21節に、「起きて」という言葉がさりげなく書かれておりますけれども、何のためらいもなく行動したことが記されている言葉です。ここにも神に対する献身がはっきりと示されているのです。

ヘロデ大王の死後、イスラエルの地は3人の息子たちに分割統治されていました。アルケアラオ、フィリポ、そしてアンティパスです。22節に出てまいりますアルケラオがユダヤを支配。つまり聖書巻末の6.新約時代のパレスチナを見てお分かりのように、エルサレムを含むユダヤ、と記されている広い地域をアルケラオが跡を継いでいました。またフィリポは同じ地図の一番北側にフィリポ・カイサリアという地名を見つけることができますが、ヘロデ大王の長男であるフィリポ・ヘロデにこの地の統治が任されたのでした。そしてもう一人の息子、ヘロデ・アンティパスが主イエスがお育ちになったガリラヤ、ナザレ地方の統治を任されたのでした。そしてヨセフには夢でお告げがあり、北にあるガリラヤ地方のナザレに行き住んだ、ということなのです。人間的な忖度としてはヘロデ大王の直接息のかかったユダヤ地方をアルケラオが統治していることを知り、そこに戻ることを恐れたということでありますが、ここでもまた、マタイが旧約聖書において「彼はナザレの人と呼ばれる。」と預言者を通して言われていたことが実現するためであった、と記しています。

 

■結び

今日の箇所で、ヨセフの行動によって示されていること、それは、救い主としてお生まれになった主イエスが、新しい出エジプトの道を開いてくださること、そして深い嘆きと悲しみの後の未来の希望を示してくださること、そして一介の人間として、この私たちと同じ世に生きてくださったということです。神のご計画による主イエスの救いの御業が表されるのは、まだ先でありますけれども、しかしながら、この幼子主イエスにヨセフを通してすでに神のその大いなるご計画は示されていました。主イエスは幼子であられる時から、すでに私たちの救いのために、私たちの重荷を担って下さっていたのであります。私たちはそのことを改めて知るとき、神の壮大なご計画におののきさえ覚えるものでありますけれども、それら全ては私たちを神のもとに立ち帰らせるためであり、そのために独り子主イエスが与えられた。このことに感謝を持って応える者でありたいと願います。

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