【聖書箇所】 ヨハネによる福音書21章1–14節 【説教題】 「朝食会」
【説教】 石丸泰樹牧師
一、主イエスはご復活の八日後に、弟子たち、特にトマスのためにお姿を現され「見ないで信じる者は幸いである(20:29)」とのみ言葉をお与えになりました。21世紀の教会に生きる私たちもこのみ言葉によって、どんなにか大きな喜びと、励ましを受けることか計りしれません。何か奇跡的なことを求めたり、大きなイベントで大変な感動与えられたなどが信仰の確証になるのではなく、礼拝で与えられるみ言葉によって、主イエスへの揺るぎない信仰、自分の全人格をもって従う信頼に導かれるのです。
二、著者ヨハネは、ルカ5章2—11節で報告されている、ガリラヤ湖畔での弟子への主の招きの経験に触れて、もう一度「使徒」への招きと派遣の道を示します(20:21)。主のみ言葉に従って歩んだ充実した3年間の思い出。緑あふれるガリラヤの道、家や村。しかし、イースターから数日、ユダヤ当局の目を恐れてエルサレムを離れる決意をする弟子たち。標高約800Mのエルサレムから、過越祭を終えて帰る「善男善女」の賑やかな群れに紛れて春の山道を下り、ガリラヤ湖畔(−210M)の村にそっと入る。ユダが自殺したことは本当に辛い記憶であったろう。路銀も少なくなり、空腹に打ちのめされ、何人かは知り合いの安心できる仲間の所にそっと身を寄せたのかも知れない。弱気になって残ってしまったのは7人だけ。その7人の内、名前のない二人は一体誰と誰だったのだろうか。聖書記者の記憶も定かではない。疲れ切っている弟子の群れ。幸い漁をするのは夜であったからやってみた。結果はゼロ。陽が昇ると魚は水底に潜ってしまう。夜明けの岸に立ってじっと見ていて下さる主イエスのお姿。
三、霊の体に甦られた主はいつも弱い私たちの側にいてくださる。そして主は問われる。主の問いによって弟子たちは、自分たちが無力で、実を結ぶことができないことを悲観したり、絶望したりせずに素直に謙虚に認めることができる。弟子たちは「最後の晩餐」の準備は主が整えていて下さったことを思い出して、もう一度全力で働く。目の前に見る成果は、主の栄光を現すものであることに賛美の思いをもって気付くのです。153匹の魚は、魚の全種類の数、即ち「全世界の人々の象徴」である(ヒエロニムス(AD347-419)の説明)。100は完全数、即ち「キリストの下に集められる全ての異邦人、50はイスラエルの残りの民、3は三位一体を意味し、全ての働きは三位一体の神の栄光のためになされる(キュリロス –AD444)。また10は十戒、7は霊の賜物の数、そして1から17までの数を全部加えると(1+2+3+4…17)合計が153となる(アウグスティヌスAD354-430)。等々この数字に秘められた意味を古代教父たちは様々に説明しようとしています。数字はともあれ、「大きな破れることのない網は教会。そして、普遍的な排他性のない神の愛」が示されたと、ペトロが主キリストの前で感謝して告白しているとヨハネは説明しているのでしょう。
四、朝の食事を主イエスが整えて下さいました。
神学校を卒業される方々に「何かはなむけの言葉を」と朝祷会の時に求められたことが何回かあります。私はいつも「朝の食事をしっかり摂って下さい」と申します。
牧師館の電話は真夜中、夜明けに鳴ることが多いのです。病院から、高齢者施設から。「すぐ参ります。‥分でつきますから」とお伝えし、出発の準備時間に朝食をとる時間を必ず入れます。車にはいつも燃料計の半分以上になるガソリンを入れておきます。そしてその日一日、求められる所どこにでも共に行動することができます。南米ではコンビニもガソリンスタンドもない道や町を走り抜けて行くことが多かったのです。自負心を持たない、短慮で動き出さない。主への祈りをもって朝、出で立ち、感謝をもって主と共に夕べに戻る。「こんなにも私と共にいて下さるあなたはどなたですか」とはもう尋ねない。真新(まっさら)な一日を主はともに歩んで下さるのです。
御復活後、三度目の主の顕現は朝の食事の時です。
「わたしは命のパンである(ヨハネ6:48)」
「さぁ、朝の食事をしなさい(ヨハネ21:12)」
主よ、今日を、今週を、み旨に従って歩ませてください。アーメン
【主の祈り】
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