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『時が満ちる』 2022年5月8日

説教題: 『時が満ちる』

聖書箇所: マルコによる福音書 1章14節~15節

説教日: 2022年5月8日

説教: 大石茉莉 伝道師


■はじめに

マルコによる福音書を1章1節から読み進めております。今までのところ1章1節から13節までを少し振り返ってみますと、主イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたこと、荒れ野でサタンの誘惑にあわれた、ということが記されておりました。この二つの出来事には、主イエスが父なる神の愛する独り子であること、そして主イエスの権威が表されておりました。そして主イエスが、そのはるか昔、旧約聖書に記されている神様のご意志に従って、神様の最終的な計画を実現、達成するために現れたということが示されていました。


■伝道の開始

そして、今日の箇所から、主イエスご自身の活動が始まるのです。聖書はこう記しています。ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われた。後半の「時が満ち、」からは「」がついています。このお言葉は、主イエスが直接語られた初めてのお言葉として聖書に記されています。「時が満ちて、神の国が近づいた」ということ、そして「悔い改めて福音を信じなさい」という二つのことが言われています。福音。このことは、この福音書の第1節にも記されている言葉です。「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書かれているところです。第一回目の説教で、この箇所を取り上げました。「神の子イエス・キリストの福音の初め」この言葉はマルコ福音書のタイトルであり、この福音書全体を通して、「福音を信じる」ことが語られている、福音とは「良き知らせ」である、とお話いたしました。

そして2000年前の時から、今に至るまで、ずっと「神の福音」この「神の良い知らせ」が宣べ伝えられているのです。その具体的な「福音」「良き知らせ」とは何なのか、その内容を、このマルコ福音書を通して味わっていきたいのです。


■ガリラヤ伝道

14節の始まりは「ヨハネが捕らえられた後」と記されています。前回までの荒れ野での誘惑の出来事から、時間的な経過のあることがわかります。捕らえられたヨハネとはもちろん、主イエスに洗礼を授けたヨハネです。ヨハネは「わたしよりも優れた方が私の後から来られる。私はその方の靴の紐を解く値打ちもない。」と告げました。このヨハネと交代するかのように、主イエスは福音を語り始めました。

ヨハネはなぜ捕らえられてしまったのかということについては、マルコ6章に記されています。時のヘロデ王は自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚していました。ヨハネはそのことを非難し、それゆえに捕らえられ牢につながれていたのです。このヨハネの死については、後の6章のところでお話したいと思います。

さて、そのようにヨハネが捕えられている時に、主イエスはガリラヤで伝道を始めました。ガリラヤという地方は聖書の巻末の地図でもわかるように、パレスチナの北部に位置しています。当時、ユダヤ人が異邦人と結婚して多く住んでいました。聖書にも「異邦人のガリラヤ」(マタイ4:15)とあるように、正統的ユダヤの人々からすれば、あまり評判の芳しくない地方でした。信仰から遠い地と思われていたところでした。しかし、主イエスはそのような地から伝道を始められました。主イエスの伝道の活動では、主イエスが人々の目には信仰から遠いとされていた取税人や罪人のもとへ行かれたことがあちらこちらで記されているのです。「イエスはガリラヤへ行き」とだけ記す聖書のこの言葉は、実に深い意味を持っています。福音は、虐げられ、見捨てられ、希望のないところへ届けられるものだからです。主イエスはヨハネに代わって、ご自分の時が来たと思われ、福音を宣べ伝えるためにガリラヤから活動を開始されたのです。


■「時が満ちる」

福音を告げる主イエスのお言葉は「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい。」まず、はじめに「時は満ちた」と言われました。時が満ちるとはどういうことでしょうか?ここで使われている「時」という言葉は、私たちが普段使う「時」「時間」という意味とは違う言葉です。私たちが意識している「時間」つまり、過去から現在、未来へと移り変わっていく時間はギリシア語で「クロノス」と言います。時計のブランドでも使われているので、お聞きになったことがあると思います。それに対して、ここで使われている「時」は「カイロス」と言います。このカイロスとは、この「時」によって、歴史が変わるような瞬間、時、を意味しています。ですから、この「カイロス」は海が満潮を迎えるように「満ちる」のです。このことを元外交官であり作家である佐藤優氏がわかりやすく説明されていますのでご紹介します。

『座標軸に沿って時間が流れているとすると、カイロスはそれを上から切断するようなもの。そのような時間のことです。例えば、2011年3月11日、東日本大震災という大きな出来事は日本の歴史を(世界のといってもよいのかもしれませんが、)変える「時」となりました。今まで流れていた時間がまさに切断された日でした。日本に住む者にとっては、それはカイロスです。2001年9月11日の同時多発テロ事件の「時」は、アメリカ人にとっては、それはカイロスです。他の日とは間違いなく意味が違う、歴史が、人々の運命が大きく変わった日のことです。』佐藤氏はコラムでこのように記しておられました。とても分かりやすい説明だと思います。

主イエスはこの世に来られ、そして活動を始められました。まさに、神様の救いにおけるカイロスが満ちて、人類の歴史に新しい時が始まったと言えるでしょう。主イエスによってもたらされたカイロスこそ、世界の歴史における最も重大なカイロスであり、神の福音のカイロスが満ちたのです。


■神の国は近づいた。

「時は満ちた」に続いて、「神の国は近づいた」と主イエスは言われました。神の国とはどんな国なのでしょうか?「神の国」と聞くと、天国とか、死んだ後に行く平安の地、のようなイメージを持つかもしれません。しかし、聖書で「国」と訳されている言葉は、本来は「支配」という意味を持っています。ですから、神の国とは神の支配、つまり、神が王となって支配してくださる、ということを意味しています。主イエスのお言葉は「時は満ちた、神の支配は近づいた」であります。この世に、神の御支配が近づき、ここに神の御支配が及ぶ、その時が近づいた、ということです。この世はもとからこの世の全てをお造りになった方、主なる神のものです。


■悔い改めて福音を信じよ。

しかし、私たちは、神に逆らい、神との関係を壊し、神から離れてしまいました。それが聖書で言う「罪」です。それは創世記に記されているアダムとイヴに遡り、すべての人が陥った罪の物語です。数回前の説教でもお話ししたことの繰り返しになりますが、善悪を知る木の実を食べることで彼らは神の御支配から逃れて、自分の力で自由に生きられると思ったのです。しかし、神の支配から離れた人間は、罪に支配されることになりました。本来、私たち人間は、私たちの創造主であられる神の支配の中でこそ、神との関係の中で生きることにおいてのみ、真の自由を得る事ができるのです。

しかし、私たち人間は、そのようにまことの支配者、まことの王であられる神から離れて、自らを王として生きようとしています。誰も自分が世界で一番偉いとは思っていないかもしれませんが、それでも人間はそれぞれ自分を中心として考えるのです。それぞれがそのように生きるがゆえに、対立や争いが起こり、怒りや憎しみが生まれます。自分を優位な位置に置こうとし、そのような優越感からは人を蔑む気持ちが生まれます。また逆の劣等感からは他人に対して嫉妬の気持ちを抱くようにもなります。いずれにしても他者との関係において傷つけあっているのです。すべて、まことの王なる神でなく、自分を中心としていることが問題なのです。

主イエスは、そのような人間に「悔い改めよ」と言われるのです。それは、反省するというようなことではなくて、神こそがまことの王であられることを認め、神の支配の中に生きる事です。悔い改めとは方向転換を意味しています。自分を中心とすることから、神を中心とすることへの方向転換です。そしてまた、今までのものから離れて出発点に立ち戻るということでもあります。出発点、私たち人間の原点に立ち帰る、それは私たちを造られた創造主であられる神に立ち帰ることなのです。

それが「悔い改め」であり、そして「福音を信じる」ということなのです。福音とは「喜ばしい知らせ」であると申しました。知らせは、私たちのもとにやってくるのです。神様が思いもかけない喜ばしい知らせとして、私たちに与えて下さるものです。「悔い改め」も同じです。それは私たちの悔い改めでありますが、私たちが努力によって得られるものではなく、神様によって与えられる恵みです。それを受け取り、その恵みの中に生きる事、そのことを神様は求めておられるのです。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」主イエスは自ら、伝道活動の始まりに、この言葉を言われました。そしてそのご生涯は十字架へと歩む道でありました。神の時、そこから大きく変わる転換点である時、その始まりはこの時でした。ここから神様のご支配が実現していくことが宣言されたのです。そしてその神の国は、主イエスの十字架と復活によって実現しているのです。それゆえ、その神の国は「すでに」であり、主イエスが再び来てくださるその日を待ち望むという意味では「未だ」でもあります。しかし、私たちは既にその中を生きているのです。私たちにはすでに福音は届けられていますが、神から離れて生きている人々、神の御支配のもとに生きる平安を知らない人々はまだ多くいます。神の御心は、神が神のかたちになぞらえて造られた人間すべてが神の愛の中を生きる事です。すべての人に福音が宣べ伝えられることを願っておられるのです。教会は福音を宣べ伝えてきました。これからも宣べ伝えていくのです。主イエスの十字架と復活を語り続け、終わりの日に復活に与り、救いの完成を、希望をもって待ち望んでいます。


■結び

主イエスは神の御支配を王として実現してくださいました。しかし、その方法は神の子でありながら、私たち罪びとと同じように悔い改めの洗礼を受けられ、私たちと同じくこの世の汚れの只中に立ってくださいました。主イエスは王ではなく、むしろ僕となられました。力で支配するのではなく、人に仕え、人に与え、人を生かしました。それが神の御支配なのです。神の支配は、人に慰めを与え、人を癒し、人に平安を与えてくれます。

「悔い改めよ」つまり、神から離れてしまったことを認め、神に立ち帰りなさい、神の御支配の内を歩みなさい、と言われている私たちです。しかし、罪に支配されている私たちは、自分の力では神の許に立ち帰ることはできなくなってしまいました。そんな私たちのために、神から赦されるために、主イエスはご自分の十字架の死によって罪を赦し、私たちに神の御支配をもたらしてくださったのです。

神の恵みのうちには、慰めと、癒しと平安があります。この世の苦しみや悩み、悲しみの中にあっても、神が支え導いてくださいます。いつでも何度でも、慰めと癒しと平安を与えて下さり、明日もまた歩む力をいただくことができるのです。苦しみも悩みも、死もそれを支配しておられるのは神様です。私たちにとって、確かなものは神様の恵みだけです。その恵みを繰り返し、繰り返し味わい、そして繰り返し神に立ち帰り、神の御支配の内を共に歩んで参りましょう。

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