説教題: 『旧約と新約をつなぐお方』
聖書箇所: マタイによる福音書 2章13~23節
説教日: 2023年12月24日・待降節第4主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
待降節第四主日の今日、主のご降誕の喜びを皆様と共に分かち合いたいと思います。
■預言者の言葉の実現
今日の御言葉の13節から23節までの間に繰り返されているフレーズがあります。それは「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」という言葉です。今日の中で3回繰り返されています。今日、与えられた御言葉は3つに分かれておりまして、エジプトに避難する、ヘロデ、子供を皆殺しにする、エジプトから帰国する、とありますが、それぞれにおいてこのフレーズが繰り返されているのです。いずれも預言者によって語られたことが実現した、ということですが、その預言者はそれぞれに異なります。その預言者たちとは、ホセア、エレミヤ、イザヤであります。今日のところだけでなく、マタイ福音書はその始まり、1章の22節、2章の6節でも同じように言っています。マタイ福音書記者がなぜ、このようにこの主イエスの誕生から成長、主イエスにまつわることが「預言者の言葉の実現」であると言ったのか、といいますと、マタイ福音書記者はこの福音書をユダヤ人に向けて書き記したからです。ユダヤ教信仰からキリスト教へと導かれたユダヤ人に向けて、という意味です。ですから、そのような人々はユダヤ教の正典である旧約聖書に通じておりました。人々は預言者によって記された数々の言葉をそらんじていたのであり、そしてまた、それを根拠に救いを考えていたのです。人々は主イエスによって旧約の預言が成就することをもって、主イエスを旧約の完成者として救い主であると考えたのです。この福音書の始まりにおいて、まるで畳みかけるかのように、旧約の預言を列挙し、預言者の言葉が実現した、と告げているのにはそのような意味があるのです。
■エジプトへ
さて、今日の13節の占星術の学者たちは前節からの続きです。東の方からやってきた異邦人である天文学の学者たち、彼らは星の導きによって主イエスにお会いし、献げ物を送り、礼拝をいたしました。そして、ヘロデのところに帰るなというお告げを受け、そのまま自分たちの国に帰っていきました。ヘロデはこのユダヤ人の王としてお生まれになった幼子を殺すつもりでいました。自分の地位を脅かす存在として、到底生かしておくわけにはいかないのです。主の天使はヨセフに告げます。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトへ逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」そしてヨセフは、すぐさま起きて、幼子イエスとマリアを伴ってエジプトへ旅立ったのです、すぐにです。そしてヘロデが死ぬまでそこにいた。聖書は単に一文でそのことを記しておりますけれども、これはとても大変なことではないでしょうか。ヨセフはマリアと穏やかな普通の結婚生活をするはずであったのに、マリアの身に起こったことをそのまま自分のこととして受け入れました。そして生まれるまでマリアを守り、そして今度は生まれた幼子を守るのです。ヨセフの行動に見られるのは徹底した神への献身、神への信仰の姿です。主イエスはダビデの子孫として生まれる救い主であるメシアである、とマタイ福音書の始まりの系図は記しておりますけれども、それはこのダビデの家系であるヨセフの信仰によって守られ、つなげられてきたものなのです。
幼子主イエスはヨセフによってこのように守られ、ヘロデが死ぬまでエジプトにいました。そのことをマタイ福音書記者はホセア書に書かれた預言の実現であると記します。ホセア書11章1節、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」ホセア書には徹底した神の愛が示されています。ここで示されているのは、出エジプトの出来事、すなわちシナイでの契約、神の愛の契約のことが言われています。主がイスラエルの民をエジプトから導き出し、「わが子とした」のではなく、すでに神の子として神のものとされていたということです。イスラエルの民をエジプトから救い出したように、わが子イエスを神は救いの実現のためにエジプトから呼び出すのであります。
■幼児虐殺
さて、幼子の情報が自分のところに届かないと知ったヘロデは大いに怒りました。しかし、それで諦めるヘロデではありません。彼のとった策は、ベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の男の子を一人残らず虐殺するというものでありました。ここでわかりますことは、神のもたらそうとしている御国の実現を悪魔がどれほどに阻もうとしたか、敵意を持ったかということです。ヘロデという人間を介して、神の愛と敵対する悪魔の力が示されているのです。
ここではエレミヤの預言が実現したと福音書記者は語ります。18節です。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから。」エレミヤ書31章15節です。このエレミヤの預言が、ヘロデによる幼児虐殺で実現したというのです。エレミヤがここで語ったのは、バビロン捕囚の嘆きです。ラケルはヤコブの妻、つまり、イスラエルの民の母です。子供たちがもういない、とは、イスラエルの民がバビロンに連れて行かれてしまったことを嘆き悲しんでいるのです。その嘆き悲しみを、ヘロデによって子供を殺されてしまった母親たちの悲しみと重ね合わせているのです。そしてエレミヤ書31章16、17節にはこのような御言葉が続きます。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」主がラケルにこのような慰めの言葉、そして希望を示されたように、ヘロデによって悲惨な虐殺が行われるこの世においても、救いがもたらされると希望を告げているのです。このことは今の私たちの現実においても同じではないでしょうか。今年、2023年は決して平和な年はありませんでした。2022年から続いているロシアによるウクライナ侵攻では多くの方々が命を落とし、それはまるで虐殺とも言える出来事でありましょう。またイスラエルとパレスチナの問題も長年燻ってきましたが、今年は明らかに戦いの年となりました。世界には報道されていない悲惨な出来事や民族間の対立がまだまだたくさんあります。実際、私が関わっておりますキリスト教ボランティア団体では、インドネシア、ミャンマー、ガーナの子どもたちに対して、子供たちが教育を受けられるための支援を行っていますが、今年ガーナでは子どもたちのいる寄宿舎がすべて焼き払われるという出来事が起こりました。幸い、死者は出ませんでしたが、寄宿舎だけでなく、その村すべてが焼けてしまったのです。その理由は宗教対立によるものでした。キリスト教とイスラム教の対立により、比較的物資が送られて来るキリスト教のその村を周囲のイスラム教の人々が妬み、強奪が起こり、暴徒化した人々によって火がつけられたのでした。牧師であり、子供たちの学校の校長であり、村の指導者でもある人は、教会も学校も生活するためのすべてを失ってしまったと嘆き肩を落としていましたが、そんな状況にあっても、また主が整えてくださるに違いない、共に祈ってもらいたい、と主にある希望を語るのでした。
エレミヤを通して語られた言葉は、神の救いと希望でありますけれども、それは始まりであります。ここではまだ嘆きと悲しみの現実であって、救いと希望はまだ隠されているのです。それがイエスという神の子が、救い主として神の国の到来を告げてくださる、そして、神の恵みの御業によって人々を癒し、そして人として十字架にかかってくださるというこれからの主イエスのお働きの約束が希望として告げられているのです。
■エジプトからの帰国
ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れ、イスラエルの地に帰るようにと告げました。ヨセフはその通りに致しますが、ヘロデの死後、イスラエルの領地は三人の息子たちによって分割統治されていました。アルケラオはユダヤ地方を治めていました。ヨセフはアルケラオが父の跡を継いで領主となっていることに恐れを覚えて戻ることをためらいました。しかし、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという村に住んだ。聖書はそう記しています。ここまで読んでまいりまして、注目いたしますのは、保護者としてのヨセフです。聖書は淡々と一文を記すだけですけれども、エジプトに避難する時も、そしてまた戻る時も、ヨセフは幼子を守るために、忠実に主のみ使いの言葉に従って即座に歩んだことがわかります。行くも戻るも、幼子イエスの生死の問題だけでなく、ヨセフとマリアの生活すべてが変わる大きな出来事なのです。それにもかかわらずヨセフは、ただただ主のみ使いが語った神の言葉に全て委ねるという姿勢を変えません。このヨセフの決断に、そしてその歩みに、私たちは信仰の先達としての姿を見ることができると思うのです。彼は神に尋ね、神により頼み、神に従ったのであります。さてそうして、彼らのナザレでの生活が始まりました。この言葉も、「彼はナザレの人と呼ばれる」と預言者達を通して言われていたことが実現するためであった、と書かれています。この言葉を直接的に聖書に見出すことはできません。主イエスはこの誕生物語の始まりにありましたように、エルサレムでお生まれになりました。それにもかかわらず、主イエスがガリラヤのナザレから出て来られたと呼ばれるのはどうしてでありましょうか。イザヤ書11章1節「エッセイの株から一つの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。」という御言葉があります。マタイ福音書記者はこの御言葉とナザレ人につながりを見出しています。この御言葉の「若枝」、これは来たるべきメシアを指しています。そしてこのことばはヘブライ語でネーツェールと言いますが、この言葉の発音と「ナザレ」をヘブライ語読みした時の発音が似ていることから、主イエスが若枝と似た言葉である「ナザレの人」と呼ばれることによって、このイザヤの預言が成就したと記しているのです。また同じイザヤ書53章2節以下にはこのような御言葉があります。「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に立った。/見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。/彼は軽蔑され、人々に捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。(中略)/彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。/彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」イザヤ書の苦難の僕と言われる箇所です。主イエスの十字架の預言と言われている箇所です。このようにこの「若枝」つまり、ナザレの人は、輝かしい風格も、好ましい容姿もなく、人々に軽蔑され、捨てられるメシアとして歩まれるのです。それが私たち人間の思いを大きく超えた神の計画であったことをマタイ福音書記者はここで示しているのです。
■結び
マタイ福音書記者はこのように旧約の時代を生き、ユダヤ教を信じていた人々に対して、そこで示された預言が主イエスを指し示すということを、「主が預言者を通して言われていたことの実現」として書き記しました。旧約から新約の時代へということです。私たちは新約聖書から旧約聖書を読む読み方と言えるでありましょう。しかし、そのどちらだとしても、聖書すべては神の言葉であり、そしてその独り子、主イエスが旧約と新約の間を貫く存在であり、神の言葉を伝えているのです。この壮大な神のご計画、そして神の愛、神の救い、その中に私たちは置かれています。主イエスがこの世に人として来て下さったのは、神と私たちの交わりのためであります。主イエスなしには、私たちは神に赦されることなく、救いのうちに置かれることはないのです。主イエスのご降誕を心から喜び、そして来たる2024年も主イエスを仰ぎ、主イエスに従う僕として歩んでまいりましょう。
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