説教題: 『新たなる派遣』
聖書箇所: マルコによる福音書 5章1節~20節
説教日: 2022年9月18日・聖霊降臨節第十六主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
「一行は湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」主イエスと弟子たちはガリラヤ湖を舟で渡ってきました。カファルナウムから東側へ来たのです。主イエスの「向こう岸に渡ろう」というお言葉に従ってきました。向こう岸であるこの東側は、イスラエルの民の地ではなく、異邦人の地でした。この地では、ユダヤでは汚れた動物とされている豚が飼われ、悪霊が多くいて、異邦人の地は神から遠いところと考えられていました。神なきところであったのです。ここに来る前、主イエスは大勢の群衆に取り囲まれ、人々に教えを語り、そして癒しの御業をなさっていました。人々に歓迎され受け入れられていました。そのまま、そこで伝道をされていてもよかったのに、主イエスは「向こう岸へ渡ろう」と言われたのです。それはこの異邦人の地において、これから共にお読みする、汚れた霊に取りつかれ、人間性を失い、まるで獣のような生活をしていた一人の人の救いのためでありました。
■墓場を住まいとする人
「主イエスが舟から上がるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやってきた。」2節にそのようにあります。ここを読むだけでも、尋常でない様子が感じ取れます。この人の姿は3節から5節に描かれています。この人は墓場を住まいとしています。日本の墓場を思い浮かべますと、どうやってどこに住むのだろうと考えてしまいますが、この時代の墓場はほら穴式でありました。主イエスのご遺体も岩を掘って作った墓の中に納めて、入り口に大きな石がころがしてあったということは皆さんもご存知でありましょう。この人はそのような空洞を住まいとしていたということです。日本のお墓とは違うとはいえ、それでも通常は人が住むところではありません。この人は汚れた霊に取りつかれているがゆえに、その異常な行動により、家族や隣人たちとの共同生活ができなくなっているのです。そのようにして彼は人々との関係が断たれ、共同体の外に置かれていました。墓場は死の世界の具体的な領域です。墓場は生と死の境界線を意味しています。彼は生きているにもかかわらず、向こう側にいる者となっているのです。
■暴力的な衝動
さらには、「鎖を用いてさえつなぎ止めておくことはできなかった。」と書かれています。その人は、周りの人によって鎖や足枷で縛られたりしましたが、そのたびに鎖を引きちぎり、そして足枷を砕いてしまうのです。そして暴れまわり、家族や隣人を傷つけていました。彼のそのような攻撃的、破壊的な行動は汚れた霊によるものです。ひとたび、彼に現れれば、だれも止めることができません。それは鎖や足枷をも砕くほど、強く大きな暴力的な衝動でありました。家族でさえ、どうしようもなかったのです。誰も彼を縛っておくことができなくなっていました。家族も隣人も共に生きることはできませんでした。そして彼は、昼夜を問わず、大声をあげ、奇声を発し、石で自分を打ち叩くという自傷行為までもしていました。自らの意志によるものではなく、汚れた霊はこの人を捉えて、暴力的な力をふるっていたのです。
■汚れた霊の力
私たちはこれを読みますと、あぁこの人は精神的な病気を患っていた人なのだろう、というように思うかもしれません。そして自分とは切り離してこの人を見ます。自分とは別世界の話であると。しかし、そうでしょうか。もし、そのようにこの人を精神的な病を負った特別な人として捉え、自分とは無関係で考えるとしたら、聖書のメッセージを受け取ることはできません。「汚れた霊」は私たち人間の内に様々な形で入り込み、私たちを支配するのではないでしょうか。私たちも汚れた霊に捕らわれることがあるのです。私たちも周りの人を傷つけ、そして自分を傷つけ、共に生きる生活でなく、孤独に生きることがあります。この人は誰からも認められず、愛されず、受け入れられず、そして誰をも寄せ付けず、人を傷つけ、自分をも傷つけ、孤独の地に生きる者でありました。そしてそのような姿は決して、無関係ではないのです。汚れた霊は、いつの時代も変わらずに私たちの中にあり、様々な形をとって私たちを支配しようとします。そして人間に罪を犯させるのです。
■神なしに生きる
主イエスを遠くから見ると、悪霊は大声で叫びます。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」これは彼に取りついている悪霊の言葉です。悪霊は彼自身が語ることを許さず、彼の言葉を奪い、悪霊の言葉を語らせているのです。この「かまわないでくれ」という言葉は、口語訳では「あなたはわたしとなんのかかわりがあるのです。」となっています。この訳の方が原文に忠実ではありますが、元の意味は「あなたとは何の関係もない、出て行ってくれ」というもっと強いものであります。悪霊は神の子である主イエスに向かって、「わたしは神なしにやっていくのだから、かまわないでくれ、出て行ってくれ」と言ったのです。先ほど、この男の姿と私たちとを重ねてお話しいたしました。私が彼はわたしたちの姿を映し出しているといっても、なかなかそうは思えなかったかもしれません。こんな風ではない。そして自分とは違う、そのように考えたいのです。それは自分がかわいいからです。誰でもそうです。しかし、聖書は私たちの醜い部分を露わにします。私たちの持つ罪の姿、それを表現を変えて示してくれるのです。「神なしに生きる」「神なくしてやっていける」「神が存在しなくても生きていける」と主張するという悪霊の宣言は、私たちの罪の姿を象徴的にあらわしていると言えるでしょう。神とのかかわりを断ち、神から自由になることによって、人間は悪霊の奴隷となり、罪に支配されて生きることになるのです。
パウロはローマの信徒への手紙でこのように言っています。7章18節です。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」
■「名はレギオン」
主イエスは「汚れた霊、この人から出ていけ。」そのようにお命じになりました。1章のカファルナウムの会堂でも、主イエスはその人についている悪霊に向かって、同じように言われました。悪霊はすでに主イエスが神の子であられることを知っていました。神の子であられる主イエスは、このような悪霊の支配を打ち破り、私たちを悪霊から解放してくださるためにこの世に来られたのです。到底自分たちが太刀打ちできないことは、悪霊は既に分かっているのです。「この人から出ていけ」主イエスは神の子としての権威を示されました。そして主イエスは名前を尋ねます。汚れた霊は答えます。「名はレギオン、大勢だから。」主イエスの名前を尋ねる行為は、取りつかれた人と悪霊とを分ける始まりです。汚れた霊に取りつかれた人が自分を取り戻すための扉はこうして開かれました。レギオンとは当時のローマの軍隊の一つの単位です。およそ六千人。鎧に身を固めた六千もの兵士。その軍隊の力になぞらえる大きな恐ろしい力がこの一人の人を捕えていたのです。悪霊たちはなんとかして自分たちの居場所を保とうと懇願します。「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願うのです。主イエスはそれをお許しになりました。すると、汚れた霊はその人から出て、豚の中に入りました。二千匹もの豚の群れは崖を下って、そのまま湖になだれ込み、湖の中で次々におぼれ死んだ、と13節に書かれています。主イエスは悪霊をこの人から追い出しただけでなく、悪霊を滅ぼしたことを示していると言えるでしょう。
私たちにとって豚は普通に食べますし、日本では高級豚肉ブランドもあるくらいですから、なんだか二千匹の豚がかわいそうに思えてきます。しかし、聖書においては、豚はあまり良いものとして扱われていません。レビ記11章7節、新共同訳では「いのしし」となっておりますが、他の聖書では「豚」と訳しています。「汚れたもの」として食べてはならない、と記されています。今でも豚肉は火を良く通すように、と言われますが、昔から強い菌をもっているから、とか、傷みやすかったなど、その理由はいろいろあったようです。いずれにしましても、そのように聖書に明確に規定されておりますから、当時の人々は、豚は汚れたもの、として認識していたわけです。今でもユダヤ教、そしてイスラム教の人々は豚肉を食べません。私が以前おりましたインドネシアのジャカルタはイスラム圏ですから、お手伝いさんは、豚肉を調理してほしいというと、露骨に嫌な顔をいたしました。そして彼女はゴム手袋をし、そしてまな板も包丁も別のものを使うという徹底ぶりでした。そのぐらい、彼らにとっては、「汚れ」を意味していたのです。このゲラサ人の地方は異邦人の地でありましたから、汚れた豚を飼い、それで生活していた人たちがいたというわけです。
■正気になった人
レギオンに取りつかれていた人は、主イエスによって悪霊から解放されました。どのようになったかは15節に記されています。「彼は服を着、正気になって座っていた」のです。ルカ福音書では「イエスの足元に座っている」と記しています。墓場で服も着ずに、叫んでいた男は、服を着て、つまり普通の生活秩序の中に戻ってきて、そして主イエスの周りに座る。「主イエスの周りに座る」それは主イエスの教えを聴く時の姿勢です。墓場を徘徊し、周りの人に暴力的な行為をしていた人は穏やかになって、正気になり、つまり、自分を取り戻すことができたのです。これは大いなる主の憐れみの御業でありました。「憐れみ」とは「はらわた、内臓が痛む」ということです。主イエスはご自分の痛みとして、この人の痛みに寄り添われました。この人を救うために、わざわざ向こう岸へと渡って来られたのです。そしてその人は、主イエスが立ち去ろうとされた時、「一緒に行きたいと願った」と18節には記されています。彼は主に聞き従う人になったということです。彼は悪霊の支配から神の支配に移されました。彼の生き方がすっかり変わったのです。「一緒に行きたいと願う」それは主イエスの弟子として生きるということであります。しかし、主イエスはそれをお許しにはなりませんでした。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」主イエスはこの人を自分の家へと帰されます。
■結び
この人は、社会や家族から切り離されて、墓場で叫び、徘徊していました。自分を傷つけ、人を傷つけていたのです。その彼は今や主の御業によって正気を取り戻しました。そのような人に主イエスは、「あなたの家に帰りなさい」と言われたのです。彼の本来の居場所である家族、共同体、それらの人々の中に戻り、正しい関係性を取り戻し、共に生きる、そのために、主イエスは「あなたの家に帰りなさい」と言われたのです。
そして更に、主の憐れみによって救いを得、平安の内に生きる者となった彼は、主イエスから与えられた使命を果たす者となりました。「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広めはじめた。」この言葉の意味することは、彼は異邦人に対する最初の宣教者となったということです。主イエスによって彼は、家族、同胞の元へ新たに遣わされました。主イエスによる救いの恵みを証し、宣べ伝えていったのです。主イエスはわたしたちにも言われます。「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」私たちも主イエスによって癒され、主イエスによって本来の生き方を取り戻すことができた者たちです。主イエスがこの人にお命じになったように、主のご栄光を表わす器として用いていただけるよう、それぞれの場へ派遣されて参りましょう。
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