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『新しく生まれる』 2023年1月1日 降誕節第二主日(元旦礼拝)

説教題: 『新しく生まれる』 聖書箇所: ヨハネによる福音書 3章1~8節 説教日: 2023年1月1日・降誕節第二主日(元旦礼拝) 説教:大石茉莉伝道師

■はじめに

2023年の主の年、おめでとうございます。主イエスがお生まれになったことを起源とするこの西暦、A.D.、アンノドミニ。「主イエス・キリストの年に」というラテン語であります。ご存知のようにB.C.はBefore Christ、キリスト誕生以前、でありますから、世界はキリストがお生まれになったことを基軸、絶対値としているのだということです。日本では単なる記号としてしか捉えられていませんが、キリスト誕生以前、そしてキリストの誕生の年から、ということが世界的な歴史観です。このことをあらためて思います時、主イエスがこの世に来て下さったことがどれだけ大きなことであるか、ということを思います。


■ペストからコロナへ

さて、そうして主イエスがこの世にお生まれになってから、おおよそではありますが2023年です。この新しい年を迎え、願うことはまずコロナ感染症の収束ということになりましょう。この人類の歴史の中でコロナ感染症と比較される疫病が、ペストでしょう。ペストという病気がいつから伝染病として流行ったのかは、明確にはわかっていないそうです。しかし、6世紀に東ローマ帝国を中心に起こった第1回目のパンデミックは約200年続き、1億人以上の死者を出したと言われています。流行の中心は地中海沿岸だったそうですが、イギリスにまで達し、ヨーロッパ全体を覆いました。そしてその後、14世紀になり、2回目のパンデミックが起こります。これは盛衰を繰り返しながら、なんとも18世紀まで続いたそうです。そして試算によれば、ヨーロッパの人口の3分の1となる2500万人の死者、別の試算によれば5000万人の死者という説もあるそうです。その後19世紀にも香港で発生しました。香港は貿易港であり、船に紛れ込んだネズミによりペストが広がったそうです。死者は少なかったそうですが、このトータル3回のパンデミックにより、命を落とした人は1億6千万人以上、数えられていないアフリカ地域などの死者を加えたら、途方もない数になると言われています。この時、日本の細菌学者、北里柴三郎氏が香港に渡り、ペスト菌を発見、それにより予防法、治療法の研究が進みました。現在もペストはなくなったわけではなく、アフリカではいまだに罹患される方があるそうなのです。私たちはペストと聞くと、世界史に記録されている過去の出来事としてしか捉えていなかったように思いますが、コロナ感染症によって、ペストは歴史の中から大きく浮かび上がり、私たちに迫るものとなりました。さて、コロナ感染症は2020年の1月から蔓延し始めましたから、すでに3年経過して4年目に突入することになってしまいました。流行当初は、早々に命を落とされる方々があり衝撃が走りました。現在、世界での累計感染者が6億5千万人、亡くなった方は700万人弱。世界人口80億人の1割と行かないまでも8%の方々が罹患しているというのは、まさにパンデミックであります。ペストによって当時の社会が崩壊したように、このコロナによっても社会は崩壊があり、変革を迫られてきました。私たち自身は興味のある新しいものに興味を示す反面、外から変えられることに対しては拒否反応を示します。自分が今まで守ってきたもの、ルール、やり方が正しいと信じ、新しいものを受け入れるとしても、今までの自分に照らし合わせて納得するかどうか、を基準にするのではないでしょうか。


■「新たに生まれる」

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」主イエスは今日の御言葉の3節でそうおっしゃっておられます。それもそのお言葉の前には「はっきり言っておく。」と書かれております。「はっきり言っておく」とは主イエスが大切なこと、重要なことをお話になる時には、この「はっきり言っておく」というお言葉を使われます。特にこのヨハネ福音書では特徴的な言葉です。原文では「アーメン」つまり、「本当に」とか「その通り」という意味であります。さらには、このアーメンはここでは2回繰り返されています。主イエスが「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う」と言われて、先ほどのお言葉が語られたのであります。以前の口語訳では、「よくよくあなたに言っておく」でありました。そして新しい協会共同訳でも「よくよく言っておく」となっておりますから、新共同訳から口語訳の形に戻りました。「はっきり言っておく」よりも「よくよく言っておく」の方が重要なことをお話になられる感じが伝わってまいります。

私たちは今年度、マルコによる福音書を読み続けてきました。その冒頭1章14節には「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」というお言葉がありました。そしてマルコ福音書では、この「神の国」について、つまりは神の御支配について、が語られ続けております。次週からまた、マルコ福音書に戻りますが、今日は新たなる年の最初の主日、さらには元旦礼拝ということでもありますから、このヨハネ福音書から「新たに生まれる」ことと「神の国」の関係について聴きたいと思います。


■ニコデモという人

さて、今日の登場人物はユダヤ人議員、ファリサイ派に属するニコデモという人です。ファリサイ派でありますから、ユダヤ人の宗教的指導者であり、神からの掟、律法に厳格に従って生き、それを人々にも指導しておりました。そしてユダヤ人議員とも書かれています。この議会とは最高法院、サンヘドリンと呼ばれるもので、政治、司法の最高権威でありました。71人の長老で構成されておりました。ニコデモはその議員の一人であったのです。高い権威にあるこのニコデモが主イエスを訪ねてまいりました。2節の始めに、「ある夜」とありますから、夜というのは人目をはばかって、という意味でありましょう。目立たないように、こっそりと主イエスのもとに来たのです。

ニコデモは神の戒めをしっかりと守り、社会的にも指導的な役割を担った人物です。経済的な生活も守られていた者でありました。しかし、彼はこのままでよいのか、という何か満たされない思いを持っていたのでありましょう。マタイによる福音書19章、マルコでは10章に「永遠の命を求める金持ちの青年」の話が出てまいります。まるであの青年のように、ニコデモもまた、永遠の命を求め、消せない満たされない思いを胸に主イエスを訪ねてきたのでありましょう。彼は自分の地位や学問のプライドを乗り越えてやってきたのです。しかし、それはとても勇気のいることでありました。それ故に、夜、人目をはばかってきたのでしょう。ヨハネ12章42節には、「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」とありますが、まさにこの体制側の要人ともいえるニコデモは苦悩したあげく、しかしどうにも主イエスに直接お会いして話をしたいという勇気を振り絞っての夜の訪問であったのでしょう。


■「しるし」による信仰

そうして主イエスのもとに来たニコデモは、主イエスに申します。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできません。」ここで語られている「しるし」とはこのヨハネ福音書2章に記されている奇跡と言える出来事を指しています。「カナの婚礼におけるぶどう酒の奇跡」と言われる箇所です。婚礼において、ぶどう酒が足りなくなり、どうしましょう。という話であります。主イエスが水がめに水を満たすように言われ、それを運んでいくとよいぶどう酒に変わっていた、という奇跡です。これについて、詳しくお話することは別の機会に譲りますが、この奇跡が告げることは、主イエスは神の子であられますから、その栄光をそこで示されたということ、そしてそれは造られたものを再創造されて、キリストの恵みが満ち溢れる、ということであります。さて、このように主イエスは「しるし」を示されるわけですが、この「しるし」を見た人々は4種類に分類されると言えるでしょう。タイプ1:しるしを無視し、反感を抱く。今まで読んでまいりましたマルコでも主イエスを敵対する者たちのことが出てまいりました。敵意から殺意まで抱く者たちがいるのです。そしてタイプ2:今日の御言葉の少し前、23節「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。」とありますように、半信半疑ながらも、主イエスを信じる。おそらくニコデモもここに入るでありましょう。主イエスのことを「ラビ、あなたが神のもとから来られた教師」と敬意は示していますが、神の子、神の独り子であると信じるには至っていない。そのしるしの不思議さに驚嘆するものの、表面的である者たちがおります。タイプ3:「しるし」の本来の意味、主イエスがあらわされた栄光から主イエスが神の子であり、主イエスこそが「道であり、真理であり、命である」と信じた。2章11節にありますように、弟子たちはこのしるしによって主イエスを信じたのでありました。タイプ4:「しるし」を見ないで信じる者たち。主イエスは復活の後、天に挙げられました。その後は、主イエスの「しるし」ご復活のしるしは弟子たちによって語られました。それを聞いて信じた人たちは「しるし」を見ないで信じてきたのであります。ペンテコステの際に助け手である聖霊によって多くの者が導かれた、このことも「しるし」を見て信じたのではありません。


■「新たに生まれなければ」

主イエスのなさった「しるし」を見て、主イエスのことを「ラビ」つまり教師として尊敬し、その教えを聞こうとやってきたニコデモに対して、主イエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。その主イエスのおことばが分からなかったニコデモはこう言います。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」とても幼稚な答えのように聞こえますが、それでは「新しく生まれ変わる」と言われて、どのようなことを思いつくでしょうか。私たちも悩みや失敗などから、「もう一度生まれ変わったつもりになって」というような言葉を口にすることがあるかもしれませんが、あくまでもそれは気持ちの問題であって、実際にそうなるわけではありません。そして、それも自らの決意において大変身を遂げるということはできないのではないでしょうか。

ニコデモの答えに主イエスはこう続けられました。「だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」3節と5節の主イエスのお言葉には「神の国を見る、神の国に入る」とありますが、そのためには新しく生まれなければならない、それは霊と水によって生まれることである、とつながります。それでは神の国を見る、神の国に入るために、霊によって生まれるために、私たちはどうしたらよいのでしょうか。


■結び

「肉から生まれたものは肉である」とは、私たちはまず、肉体をもって生まれてまいります。肉から生まれたものは肉とは、肉体を持った人間存在のことを示しています。そしてそれに対して霊から生まれるというのは、その肉から生まれた存在から、新しく生まれるということであります。主イエスは7節、8節でそのように新しく生まれることを「驚いてはならない」と言われています。驚くことはないのだ、なぜならば、「妊婦の胎内で霊や骨組がどのようになるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神のわざがわかるわけはない」からです。これはコヘレトの言葉10章5節に書かれている言葉でありますが、私たち人間は神のわざを見極めることなどできないからであります。主イエスは8節で霊を風にたとえておられます。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこからきて、どこへ行くのかを知らない。」霊はそのような者なのだ、と言われました。新しい協会共同訳聖書では、この「風」のところに、別訳「霊」と注釈がつけられております。私たちは風そのものを見ることは出できません。そして風がどこから吹いてきて、どこへ吹いていくのかもわかりません。霊、神の霊もおなじように、目には見えず、私たちの常識や予測を超えて、また、私たちの努力とは関係なく、働くのです。

神の霊が、風のように吹いてくる聖霊が、私たちを新しく生まれる者としてくださる。そのことを信じ、求めなさい、と主イエスは言っておられるのです。私たちにできることは、それを求め続けることだけです。

聖霊の働きによって、私たちはここまで導かれてきました。私たちが主イエスは神の子であります。それを信じます、と告白したのも聖霊の導きによるものです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」コリントの信徒への手紙Ⅰ12章3節。

2023年の始め、年頭抱負、年頭目標をお考えになる方も多いことでしょう。今年はこうありたい。自分の努力目標によって達成できる何かも大切でありますが、「新しく生まれる」そのことを願うのであれば、主なる神の前に鎮まり、祈る時間を大切にし、聖霊の働きを信じ、求め続ける者でありたいと願います。


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