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『新しい言葉、新しい歩み』 2023年11月26日

説教題: 『新しい言葉、新しい歩み』

聖書箇所: マルコによる福音書 16章9~20節

説教日 :2023年11月26日・降誕前第5主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

■はじめに

前回の16章8節で、正式にはこのマルコによる福音書は閉じられております。今日、共に聴きますのは9節から20節、皆さんがお持ちの聖書では「結び一」「結び二」としてくくられている箇所であります。本来の終わり8節までのところでは、主イエスがご復活されて、それが女性たちに告げられた、弟子たち、ペトロにそのことを言いなさい。主イエスはガリラヤでお目にかかれる。そのように言われた女性たちは、「墓を出て逃げ去った。震え上り、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」この言葉で終わっています。福音書の福音とは、喜びの知らせであります。その喜びの知らせは「恐ろしかったからである。」で終わる。これは衝撃的な終わり方であると言えましょう。おそらく、これを物語として聞いた人のほとんどは、それでその後、どうなったの?と聞きたくなるのではないでしょうか。この福音書が語り継がれていく中で、それからどうなったか、という問いに答えようとして、結びが加えられることとなった、ということであります。このマルコによる福音書が記されましたのが、紀元70年頃と言われています。それを推測するいくつかの理由はありますが、一番わかりやすく申しますと、主イエスが息を引き取られた時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という記事は、神殿が存在していた時代には、なかなか書けなかったであろうということです。そのように考えますと、ローマ軍によるエルサレム包囲戦によって完全に焼き払われた紀元70年の後、と考えられています。そして初代原始教会において、語り継がれる中で、おそらく紀元2世紀頃にこの結びは加えられたと考えられています。

聖書、この新約聖書は27巻が正典として認められています。正典として認められているものに、書き加えがあるとは何事かと思われる方もあるかもしれません。正典とは、使徒によって書かれたものであること、教会に受け入れられたものであるか、教理や正統な教えに矛盾していないか、首尾一貫しているか、聖霊の働きによるものであるか、というような基準によって定まってきました。しかし大切なことは、それは人間が決めていったのではなく、神が定めてくださったことだということです。この結びの部分も祈りの中で、そして神の祝福の言葉として加えられ、伝えられてきた。そのような信仰の言葉として、今日はこの結びの御言葉から聴きたいと思います。

 

■知らせを信じない人々

この結び一には復活の主イエスの顕現の出来事が記されております。主イエスは、マグダラのマリアのところにご自身を現されました。マリアは主イエスと一緒にいた人々に告げます。また、二人の弟子のところにも主イエスはご自身を現されました。この二人は残りの人たちに知らせました。しかし、いずれも、それを知らされた人々は、主イエスが生きておられること、お会いしたのだ、と告げてもそのことを「信じませんでした。」11節、13節、いずれも「信じなかった」で結ばれております。そしてとうとう、十一人のところに主イエスは現れてくださいます。彼らは皆、すでに主イエスの十字架と復活を知らされていた人々でありました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」この主イエスご自身による受難と復活の予告を彼らは三度も聞いているのです。しかし、実際にそのことが起こった時、彼らは信じることができませんでした。現実のこととしてうけとめることができなかったのです。そのように考えますと、当時、主イエスと一緒にいた弟子たちにとっても、主イエスが甦られた、ということは簡単に信じられることではなかったということがわかります。

弟子たち十一人は集まって食事をしていたのでありましょう。別の福音書ヨハネによる福音書によれば、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていたとあります。彼らは主イエスを裏切り、見捨ててしまった、そのことに苛まれ、信仰の弱さを実感し、嘆き、そのような自分たちはダメな者達である、と絶望感の中にありました。家の扉に鍵をかけていただけでなく、自分たちの心も閉ざしていました。怒られた子供、自信を無くした子供が、下を向くように、弟子たちも神を仰ぐのではなく、一点を見つめるかのように下を向いていました。ですから、主イエスの復活の喜びの知らせを信じることができなかったのです。

 

■かたくなな心の弟子たち

このような弟子たちのありようを御覧になって、主イエスは「不信仰とかたくなな心をおとがめになった」と14節に記されています。主イエスは弟子たちが裏切ったことを咎めておられるのではありません。彼らの弱さ、私たち人間の弱さは十分にご存じなのです。むしろ、その弱さを担い、救いの恵みを皆にもたらすために十字架にお架かりになったのです。不信仰というのは、主イエスに従えない弱さや挫折してしまうことではありません。不信仰とは、そのような挫折の時に、主から離れること、主イエスを見上げないことであります。ヘブライ人への手紙12章2節、これは新しい協会共同訳ですが、「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら走りましょう。」という御言葉がありますが、いついかなる時も、主を見上げ、そこに希望を置くことなのです。これが信仰の姿であります。信仰とは、救いとは、自分の業によるものではなく、主の恵みであるからです。「復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったこと」ここが問題です。主イエスに希望を置き、主イエスを見上げていたならば、絶望ではなく希望、悲しみでなく喜び、痛みでなく癒しが与えられるのです。主イエスは弟子たちに直接語りかけてくださいました。そして彼らに使命をお与えになったのであります。

 

■私たちへの使命

15節にあります。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

これはとても大きなミッションであります。そしてこのすべての造られたもの、というのは人間だけでなく、すべての造られたものと言われました。神は私たち人間を含めてすべてのものを造られました。その世界を造られた時の原点、そのことを指しておられるように思います。ですから、神の救いの歴史が新しく始まるのだという宣言と言えるのではないでしょうか。このマルコによる福音書において、主イエスは弟子たちを召し出し、そして派遣するという訓練をしてこられました。二人一組にして遣わし、主イエスの権能を授け、悪霊を追い出し、病人を癒す。何千人もの人々に彼らの手から食事を与えることもなさいました。それらはすべて、主イエスご自身が離れられた後、主イエスの復活を始まりとして、彼らが福音を宣べ伝える、そのためでありました。そして、これはこの時の11人の弟子たちだけに語られたことではありません。主イエスの福音はこの弟子たちから脈々とこの2千年の間、宣べ伝え続けて来られたのです。主イエス・キリストの救いにあずかり、キリストの体である教会に召し出されている私たちに、同様に与えられている使命なのです。私たちは、毎週主の日の礼拝において、祝福を受け、そしてそれぞれの場に派遣されていきます。遣わされているのです。私にもそのような使命を与えられている・・・と言われても、と思われるかもしれません。しかし、私たちが様々な時に絶望したり、悲しみの中に閉じこもったりしたとしても、主は必ず共にいてくださる、という絶対的な信頼が失われたわけではありません。時に私たちはそれを忘れます、けれども、主が共にいて下さり、今も働いておられるという、このことがわたしたちを立ち上がらせてくれるのです。弱い私たちではありますけれども、そのような繰り返しによって、私たちの信仰も養われていくのではないでしょうか。

 

■新しい言葉

さらに主イエスは弟子たちにこう続けられました。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」新しく始まり、新しく造られたものの世界にはしるしが伴うというのです。悪霊が追い出され、手で蛇を掴んでも、毒を飲んでも被害を受けないというのです。不思議なことでありますが、このことは、パウロの身に起こったこととして使徒言行録の28章に記されております。主が共におられる時、福音は妨げられることはない、そのことがこうして主イエスによって語られたのでありました。主イエスの名によって、新しい世界が始まるのです。「新しい言葉を語る」と訳されている言葉は、正確には、新しい舌で語る、であります。これも使徒言行録、ペンテコステの日に、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上にとどまり、聖霊に満たされて、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で語った、とありますように、主イエスの言われたことは、主イエスが天にあげられた後、弟子たちが福音宣教に立ち上がり、主イエスの救いの御業を告げ広める中で実現していることなのです。悪霊とはいわば、神様からわたしたちを引き離そうとするもの、力、そのすべてであると言えましょう。それは今の私たちの生活のただ中にもあり、さまざまな形でわたしたちに襲いかかってきます。しかし、この新しい言葉とは、キリストの復活を証しする言葉であります。死に打ち勝ってくださった主イエスのことを証するということは、希望を語ることであり、新しい命に生きることを伝える言葉、わたしたちの死を超えた命があることを伝える言葉です。神の真実を伝えることばであり、信仰の言葉なのです。

主イエスは、弟子たちにこうして新しい言葉を語れ、と律法をくださいました。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」エレミヤ書31章33節の御言葉であります。こうして主イエスは新たな契約を結ばれ、そして弟子たちの新たな歩みが始まったのです。

 

■結び

わたくしが御言葉の取り次ぎの任を与えていただき、このマルコによる福音書の講解説教を始めましたのが、去年2022年の4月3日でした。その時の説教を読み返しましたら、「神の子イエス・キリストの福音の初め」この1節の言葉こそ、マルコ福音書全体のタイトルとして読むことができます。とお話しておりました。マルコはその全体を通して福音を語ろうとしたのであります。つまり、この福音は今も語られ続けているのであり、それよりも大きな事実は、復活なさった主イエスが今も、働いておられる、ということであります。マルコによる福音書の本来の終わりは、「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」という言葉を聞いた女性たちの姿、いわば不完全な形で終わっているように思えますけれども、今も、主イエスが生きて働いておられる、ということを思いませば、完了形ではなく、現在進行形であることも当たり前と言えるように思うのです。

結びとして、祝福が加えられています。私たちは恐れから立ち上がり、新しい舌で神を讃え、主イエスの復活を証しする者へと私たちも加えられるのであります。この祝福に感謝いたします。

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