top of page

『新しい歩み・自由で豊かに』 2024年10月6日

  • NEDU Church
  • 2024年10月7日
  • 読了時間: 9分

説教題: 『新しい歩み・自由で豊かに』

聖書箇所: 旧約聖書 申命記4:1-14

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書5:17-20

説教日: 2024年10月6日・聖霊降臨節第21主日

説教:大石 茉莉 伝道師

 

はじめに

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」今日の箇所17節で主イエスはそのように言われました。この5章の始まりから主イエスは弟子たち、そして主イエスの周りに集まってきた群衆に対してさまざまな教えを語られました。最初は8つの幸い、そしてあなたがたは地の塩、世の光である、といずれも主にある幸い、人々への慰め、希望を与えるお言葉を語られました。いわば、優しい主イエスのお姿がそこにあります。ところが今日の箇所になりますと主イエスのお言葉はきっぱりとした厳しいお言葉であるといえましょう。主イエスがここでお話になりたかったことは何なのでしょうか。小見出しにありますように、今日の箇所では律法について、律法の本来の意味についての教えであります。

 

■「わたしが来たのは」

主イエスは自ら、なぜ主イエスがこられたのか、というその理由を語っておられます。主イエスがご自身でその理由を語っておられる箇所が他にもあります。マタイ9:12以下「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」このように言われました。主イエスは病人を治すお方としてこられた、そして罪人を招くためにこられた、こう言われているわけです。そして今日の箇所では、律法や預言者の廃止のためではなく、その完成のためである。このように主イエスはご自身でこの地に来られた使命を語っておられます。このマタイ福音書においては、主イエスがこられたのは、旧約聖書の完成者として来られた、旧約聖書の成就としての意味がある、とお話ししてまいりました。病人を治すため、罪人を招くため、という主イエスのお言葉は、マルコやルカにも記されておりますけれども、この律法や預言者の廃止のためではなく、完成のためである、主イエスがご自身の使命を語っておられるこのお言葉はこのマタイにしか記されておりません。ここにも福音書記者マタイの主イエスに対する見方、誰に対してこの福音書を記しているのか、そのような意図が示されていると言えましょう。

「律法や預言書」と書かれておりますこの言葉は、いわば旧約聖書を表す言葉です。旧約聖書は創世記に始まる、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ここまでの五書、これが律法です。そしてイザヤ書をはじめとする〇〇書、とされておりますもの、これが預言書です。それ以外は詩編など、これらは諸書と呼ばれています。ですから旧約聖書の根幹をなしているのは、律法と預言なのです。主イエスが律法や預言者の完成のために来られた、と言われたのは、旧約聖書の完成のためであるということです。つまりそれは、律法は神に与えられたものであり、それを守って生きることである、決してそれを否定するものではないのだと言われたのであります。

 

■廃止ではなく完成

主イエスの行い、今まで共に読みましたマルコで言いますと、安息日に弟子たちが麦の穂を摘みました(マルコ2:23以下)、また、安息日に人を癒しました(マルコ3:1以下)。そのような主イエスの行いはファリサイ派の人々から見ると、安息日規定違反であるとして主イエスを非難していました。ですから、主イエスの言動は律法に逆らうもの、律法を取っ払おうとしているというように見えていたわけです。しかし、主イエスは言われるのです。「わたしは律法を完成するためなのだ」と。新共同訳も、新しい協会共同訳も「完成するため」と訳されていますが、以前の口語訳聖書では「成就するため」と訳されています。ここで言われる「完成」・「成就」とは、主イエスが何かを作り上げるというよりも、元来、律法が目指していたことを実現するためであると言えるでしょう。主イエスは律法をアップグレードするというようなためにいらしたのではなく、人々にその完成形を示すためにいらしたのです。律法が目指していたこととは何であるか、といえば、それが今日お読みした申命記に示されています。「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。」7節にありますように、神は生きておられ、常に人間と関係を保とうとしてくださるのです。人間は神との関係のために律法、十戒を与えられました。これに従って生きることが常にこの神と一対一の関係にあることであり、その上に、人間関係においては、隣人との良き関係が築かれる、というものでありました。しかし、イスラエルの民は、その基本である神との関係を壊してしまいました。ただお一人の唯一の神、自分たちをエジプトの奴隷から救い出してくださった神、呼び求めたら近くにおられる神、その神から離れ、他の神々を神とするという罪を犯したのでありました。

 

■神との関係の基本

神との関係の基本である律法、それは「一点一画も消え去ることはない」と主イエスは言われました。この一点一画という表現はヘブライ文字をご覧になったことのある方であれば、とても的確な表現であるということがお分かりいただけると思います。まずヘブライ語は右から左へ書かれます。そして点に縦棒とか、カタカナの「ユ」とか「コ」みたいな文字があったり、そしてその「ユ」や「コ」の中に「・」があるかないか、それによって異なる文字になるのです。私たちの日本語のように、文の途中や終わりを表す句読点という句切りの符号もあるわけではないので文の終わりも明確ではありません。点が一つあるかないか、縦棒一本あるかないか、で全く異なる文字、言葉となるヘブライ語、それが「天地が消え失せるまで」、その点一つも消え去ることはない、と主イエスは言われたのです。それだけ神によって与えられた律法が完全なものであるということが告げられているのです。主イエスはそれを告げるにあたって、「はっきり言っておく」と言われました。この言葉、「はっきり言っておく」とは、「アーメン、その通りです」であり、さながら、「神に誓って」というような強い意味をもっている言葉なのです。

 

■神の判定

19節には天の国で最も小さい者、また、天の国で大いなる者という表現が出てまいりますけれども、この言葉から、これがすでに共に読みました8つの幸いと密接に繋がっていることはお分かりになるでしょう。神が与えてくださった律法を大切に守る者、その者たちは祝福される、幸いである、ということです。

さて、それと対比させるかのように、ここで律法学者、そしてファリサイ派、という言葉が出てきました。このマタイによる福音書では、律法学者は、2章4節、つまり、主イエスがお生まれになった時、ヘロデ王が民の祭司長たちや律法学者たちを集めた、とありました。そしてファリサイ派は3章7節、洗礼者ヨハネのところにサドカイ派と一緒にやってきて、洗礼者ヨハネから「蝮の子らよ」と厳しく非難されていました。このマタイ福音書を読み進めていきますと、この先、どんどん律法学者、ファリサイ派と主イエスの対立は激しくなってまいりますけれども、ここで主イエスに対立、敵対する者たちとして挙げられているのです。彼らは自分たちこそ、律法を守り、それによって救いを得ている、自分たちはその代表である、と自負していました。私たち人間が義とされる、つまり、よしとされる、というのは、ただ神の恵み、神の憐れみによるものでありますけれど、彼らはそれを自分たち自身で判定していました。この「義とされる」ということを示すわかりやすい譬えがルカ18章9節以下にあります。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」徴税人は罪人の代表とされていた人々でありました。この譬えの最後に記されていますように、「義とされて家に帰ったのは」つまり、神の判定では、よしとされたのはファリサイ派の人ではなく、罪人の最たる者、徴税人、その人が義とされたのです。

 

■完成者・主イエス

ここで私たちは読み間違いをしてはなりません。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の義にまさっていなければ」とあるこの言葉です。律法学者やファリサイ派の上をいかなくては、そのために頑張らなくては・・・もし、そのような解釈を始めたら、私たちも律法学者、ファリサイ派の仲間入りです。それでは私たちはどうしたら良いのでしょうか。さて、今日の御言葉の始まりに戻りますと、主イエスがこられたのは、律法の完成のためであった、とありました。私たち人間の行いはどこまで行っても完全にはなりません。必ずや欠けがあり、間違いがあり、完成することはできません。律法学者やファリサイ派、つまりユダヤ教の教えによって救われると考えていた人々においては、義とされることはなかったのです。これが旧約の教えでありました。主イエスはその旧約の教えの完成として、新しい契約を告げるお方として、いらしたのです。不完全な、罪ある、義を満たすことのできない私たちのために、いらしてくださり、そして私たち全ての罪を十字架で清算してくださったのです。

 

■結び

私たちの聖書は旧約聖書と新約聖書からなっています。旧約聖書は古い契約、そして新約聖書は新しい契約という意味です。この古い契約から新しい契約へ、このことが今日の御言葉の17節に示されているのです。主イエスを救い主であると信じる者たちは、皆、キリストの義を、神の正しさという衣を身に纏っているのです。それは自分たちの努力や頑張りによって得られるものではなく、ただ、キリストが獲得された義、神の正しさが私たちに与えられたのです。私たちは自分により頼むのではなく、ただ主イエスにより頼むことによって、その歩みを続けていくことができるのです。律法学者やファリサイ派は律法や戒めを守り歩むことで義であると信じていましたが、主イエスに従って生きる私たちには神から義が与えられているのです。主イエスにつながることによって神の子、神の民とされた私たちの歩みは、律法や戒めよりも自由で豊かな歩みが約束されています。主イエスは次週以降、共に読みます21節以下でそのことを具体的に明らかにされます。共に神の豊かさをじっくりと味わってまいりましょう。

 
 
 

最新記事

すべて表示
『癒しをくださるお方』 2025年4月13日

説教題: 『癒しをくださるお方』 聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書53:1-13 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書8:14-17 説教日: 2025年4月13日・復活前第1主日 説教: 大石 茉莉 牧師   ■ はじめに...

 
 
 
『神の権威』 2025年4月6日

説教題: 『神の権威』  聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書55:8-11 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書8:5-13 説教日: 2025年4月6日・復活前第2主日  説教: 大石 茉莉 牧師   ■ はじめに カファルナウムの町、それはガリラヤ湖の北西のほとりにある...

 
 
 
『御心を尋ね求める』 2025年3月30日

説教題: 『御心を尋ね求める』  聖書箇所: 旧約聖書 レビ記13:1-8 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書8:1-4 説教日: 2025年3月30日・受難節第4主日  説教: 大石 茉莉 牧師 ■ はじめに...

 
 
 

Comments


bottom of page