『新しい始まり』2025年6月8日
- NEDU Church
- 6月9日
- 読了時間: 10分
説教題: 『新しい始まり』
聖書箇所: 旧約聖書 ヨエル書3:1-2(旧1425ページ)
聖書箇所: 新約聖書 使徒言行録2:1-11(新214ページ)
説教日: 2025年6月8日・聖霊降臨日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
ペンテコステの祝祭日を迎えました。ペンテコステというよりは聖霊降臨日という方が分かりやすいかもしれません。それでも「聖霊」そのものがよくわからないという声を聞きます。確かに、私たちは三位一体の神を信じ、それが父、子、聖霊、であることはよくわかっていますけれども、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊というこの神の位格において、聖霊はつかみどころがないと言えるかもしれません。新約聖書の始まり、マタイ1章18節にありますように、マリアをみごもらせたのは聖霊でありました。また、主イエスがヨハネから洗礼をお受けになった時、聖霊が鳩のように降ったとマタイ3章は記しています。また、ヨハネ福音書では、聖霊が弁護者として、教え、また主イエスの教えを思い起こさせてくれる存在であると記されています。そしてパウロは、聖霊によらなければ、「イエスは主である」とは言えないとも語ります。聖霊は私たちに多様な働きかけを見せてくださるのです。
■激しい風のように
それは突然始まります。五旬祭の日、弟子たちは集まって祈っていました。主イエスは天の父のもとに昇られる時、弟子たちに「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」と言われたからです。主イエスが話された父の約束されたもの、それはヨハネ福音書14章16節「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」続く26節「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」そして15章26節「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」主イエスは十字架におかかりになる前、弟子たちへの告別の説教としてこのように約束されています。しかし、弟子たちは何が起きるのか、そしてこの時の主イエスがしてくださった約束の中身もわからずにいました。しかし、この主イエスの死の前の約束が何なのか、わからなくとも、彼らは復活の主に出会い、それゆえに、この主イエスの約束の中身はわからなくとも、信頼し、希望を持って祈ることができたのです。いつかわからなくとも、神が定められた時期、神がお決めになった時が満ちたならば、それが与えられる、そのように信じていたのです。そして主イエスのご復活から50日目の五旬祭の日、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえました。
■霊は風となって
「激しい風が吹いてくるような音」それが聖霊です。ヨハネ3章8節「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」にそのように記されています。確かに私たちは風そのものを見たことはありませんけれども、そこに風が吹いていることは知っているのです。19世紀のイギリスにクリスティーナ・ロセッティという女性詩人がいます。彼女は「誰が風を見たでしょう」という詩を残しています。短い詩なのでご紹介します。「誰が風を見たでしょう/僕もあなたも見やしない、けれど木の葉をふるわせて/風は通りぬけていく。/誰が風を見たでしょう/あなたも僕も見やしない、けれど木立を頭を下げて/風は通りすぎていく。」西条八十が翻訳し、児童文芸誌「赤い鳥」に掲載されたことで世間に知られるようになったと言われています。彼女はイギリス国教会の敬虔なキリスト者であったそうですから、この短い詩はヨハネ3章に示されている風と聖霊の働きを重ねているのは間違いないことでありましょう。私たちのこの世の暮らしの中で、風はいつもあります。風の動きを感じることはできなくとも、実際には風は動いています。私たちは風の動きを木の葉が動く、そのほんの少しの動きで風が通り抜けていくことを知るのです。神がいつも働いておられ、そして私たちの身近にあるということを、一枚の葉のほんのわずかな動きによっても示されているのです。神の霊、聖霊はしばしば風になぞらえられてきました。旧約においては、息をも意味しています。創世記2章7節―旧2ページにありますように、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」のです。人は神の息によって生きる者となったのでありますから、人間は元々が神の霊によって作られた、神の霊が注がれている者なのです。
■響き合う聖霊
さて、ルカはこの聖霊降臨の出来事を、「激しい風が吹いてくるような音が聞こえた」と表現します。普段は木の葉のささやかな動きでしか感じることのできない聖霊が、体で感じられるような激しさ、激しい現象としてくだってきたというのです。そして、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」一つになって祈っていた彼らのところに、聖霊がそれぞれに、つまり、それぞれにではあるけれども、集合体として、与えられたということが記されています。これがこの聖霊降臨の出来事が教会の誕生であると言われる理由の根底にあります。出エジプト3章において、神がモーセの前に現れてくださったとき、それは燃え上がる炎としてでした。神が人間にご自身を示して、関わりを持とうとしてくださる時、炎として表わされるのです。また、預言者イザヤが自分の罪に恐れ慄いたとき、炭火を持った御使いがその火をイザヤの唇に触れさせて言いました。「これがあなたの唇に触れたので、罪は赦された。」炎である聖霊は不純物を取り除き、私たちを清めてくださるのです。見えない聖霊が見える形で一人一人の弟子たちにくだり、そしてその霊によって弟子たちが語る言葉が与えられたのです。「聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。」こう記されています。聖霊は私たちに語りかける舌として迫ってくるのです。聖霊の語りかけによって、御言葉が真の御言葉となって、響いてきた、そして響き合っているのです。
理科の実験で音叉という道具を使ったことがあると思います。U字型の形をしたもので、その長さによって決まった音が鳴ります。音の高さの同じ音叉、つまり、音の波長の同じものを並べてその一つを鳴らすと、同じ波長の別の音叉も鳴り出す、音が共鳴するというものです。ここで弟子たちに働いた聖霊はまるでこの音叉のようです。神の働きかけは同じ息、同じ霊が弟子たちにくだり、響き合って、神の言葉が語られたのです。
エルサレムには、外国生まれのユダヤ人たちや、ユダヤ教に改宗した異邦人たちが数多く住んでいました。ユダ王国は何度も周囲の大国から攻め入られ、その度に、ユダヤ人たちは各地に散らされていました。離散の民、ディアスポラのユダヤ人と言われる人々です。彼ら、またその子孫たちは祭りの度にエルサレム神殿に詣でるために、帰ってきていました。そのような人々が自分の故郷の言葉で弟子たちが語るのを聞いたと聖書は記しています。9節以下にパルティア、メディア、エラム、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビアなどの地名が挙げられています。当時の地中海世界の人々が知っていたあらゆる地域が記されています。これらの諸国、全く異なる言語が聖霊の働きを受けた弟子たちによって語られたのです。彼ら、弟子たちはそのような語学の素養がある人々ではありません。7節に「人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。」とありますように、ガリラヤを自分たちのエルサレムという中心から離れた田舎者ではないかというようなある意味差別的な言い方でコメントしています。すでにご存知のように、ペトロを含む弟子たちはガリラヤ湖の漁師であり、主イエスに召されたのでありましたから、外国語を学んだこともない人たちなのです。ですからそのような普通の人たちが異国の言葉を知っているはずはないのです。ですからその時に居合わせて聞いた人々にとっては不思議な出来事でありましょう。これらの不思議さの真偽をどうこういうよりも、11節にありますように、そこにいた人々が「神の偉大な業を語っている」と知ったということが大切なのです。
■主イエスの約束
これらの言葉を聞いたのは、ユダヤ人、そして異邦人でもユダヤ教への改宗者でありました。このことは何を意味するか、といえば、それは使徒言行録1章6節にありますように、「イスラエルを建て直す」ということであり、神の選びの民、イスラエルがこうして聖霊の働きによって結集したということでありましょう。それが教会の誕生なのです。教会はその始まりはユダヤ人のための群れでありました。それが神の約束であり、神が選ばれた神の民、イスラエルを受け継ぐという使命を与えられている者たちだからです。しかし、こうして様々な言語が語られたということは、新しいイスラエルにおいては、ユダヤ人のみならず、異邦人、つまり地の果てである私たち日本人にまで及ぶ開かれたものであるということが示されているのでありましょう。使徒言行録1章8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」とあります。もともと、サマリアは北王国イスラエルの領土であり、サマリアもかつてはイスラエル十二部族に属する兄弟同士でありましたが、アッシリアに支配された北イスラエルはサマリアに多くの外国人を移住させました。そのようにして民族の混合を図り、それにより民族的・宗教的な純粋性を失ったために異邦人、また偶像崇拝者としてユダヤ人から敵対しされるようになったのでした。ですから、サマリアは理解し合える国ではなく、隣にありながら異国でありました。しかし、主イエスは天にあがられるとき、聖霊という力を受けて弟子たちがユダヤ、サマリア、地の果てに至るまで主イエスの救いを宣べ伝える者たちとなるのだと言われました。まさに約束がこの聖霊降臨、ペンテコステの出来事から始まることとなったのです。
■結び
ヨエル3:1-2「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」ここでは霊が想像力あふれる自由をもたらす賜物になると語られています。その自由を通して、すべての人々は、今の状況を超えて、来るべき未来について、思い巡らすのです。霊はイスラエルを解き放ち、人間の過ちや絶望を超えた世界の中において、そしてイスラエルを神が約束された幸いの中に引き入れるというこのヨエルの預言が使徒言行録2章14節以下のペトロの説教で語られています。この聖霊が降るという出来事を目の当たりにした人たちは、驚き、そしてぶどう酒に酔っているのだとしてあざける者たちもいた、と13節にあります。そのような人々に向けて、ペトロはこの日、聖霊が降ったことは、預言者ヨエルの言葉の成就なのだと告げました。神の霊、聖霊によって、神の民イスラエルと異邦人たちをも含む、新しい共同体が生み出されるというこのヨエルの預言は教会の誕生という形で今も引き継がれているのです。こうしてこの時弟子たちに降った聖霊による神の言葉は響き合い、同じ聖霊が今も響き続け、地の果ての私たちにまで届いているということはなんと素晴らしいことかと思うのです。この日、聖霊がくだった、その日から私たちの歩みも始まったのです。感謝と共に、ペンテコステを祝いましょう。
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