『新しい契約に生きる』 2024年12月29日
- NEDU Church
- 2024年12月30日
- 読了時間: 10分
説教題: 『新しい契約に生きる』
聖書箇所: 旧約聖書 エレミヤ書31:31-34
聖書箇所: 新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11:23-26
説教日: 2024年12月29日・降誕節第1主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
エレミヤは語ります。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」エレミヤは先週もお話しいたしましたが、紀元前600年ごろの南ユダ王国の預言者です。この時代、イスラエルは危機的な時代でした。イスラエルの始まりに神はアブラハムを選ばれ、契約を結び、神の民となさいました。そしてエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民はモーセによって導き出されました。そしてダビデ、ソロモンの統一時代の後、紀元前930年ごろイスラエル民族は北と南王国に分裂します。そして北イスラエルは紀元前722年アッシリアによって滅ぼされました。そして南ユダ王国も紀元前597年にバビロニアによって侵略され、586年エルサレム神殿が陥落しました。エレミヤはそのような時代を生きた預言者なのです。彼は神から多くの王たちが神に背き、主の目に適うことを行なってこなかった、そのことを指摘し、神に立ち帰ることを強く求めました。
■神との契約
神との契約、それはキリスト教にとって、いえ、遡ることユダヤ教にとって、最も重要な概念です。契約というのは、私たちの一般的な考え方では、相手との双方の意思が合致して交わすもの、例えば売買契約などがわかりやすいと思いますが、単純なところでは日常の買い物、これも契約の一つです。ある品物をいくらで売ることにする、その金額に納得して、それを支払う、ここに売り買いという契約が成り立っています。もう少し規模が大きくなれば、土地や不動産などもこの品物にはこのような条件がついています、それらを明らかにした上で金額を提示し、それに納得した上で購入することにする、といった具合です。部屋の賃貸契約などでも、勝手に造作を変えてはいけないとか、退去する時は現状復帰するなどの条件が付されて、その上で契約するというのが一般的でしょう。つまり、差し出す側には条件があって、受ける側はその条件を受け入れるかどうか、またそれについて交渉する、それがフェアであるというように考えるのが契約ということでありましょう。しかし、神と人間との契約はそうではありませんでした。まず、アブラハム契約において、神はアブラハムを選ばれ、そしてアブラハムには何も要求されませんでした。創世記12章に示されるアブラハム契約は神の選び、いわば神の命令とでも言えるほどの一方的な言葉によって、契約が成り立っています。命令と言いましたけれども、これが神の恵みです。アブラハムはただ、それを受け取る。その意味では対等な関係というよりも受動的な関係です。ここで神は一方的にアブラハムを召し出し、子孫の繁栄、祝福、そして土地を与えると約束しておられます。そしてアブラハム契約に続くのはシナイ契約と呼ばれるモーセの十戒授与に関する契約です。出エジプト記19章以下に記されているこの契約においては、イスラエルがモーセを介してシナイ山で神と結んだ契約です。これによって、イスラエルは「神の民」となりました。このシナイ契約においては、神からモーセを介して律法が与えられました。出エジプト記19:3節以下に記されていますように、神はあなたがたイスラエルの民をエジプトから救い出した、それゆえに、私の契約を守り、私の民となって宝となるのである、と告げられています。そしてそれをモーセを介して聞いた民は、一斉に「主の御言葉を守ります。」と応答しました。ここには応答という相互の関係性が見られますけれども、神は奴隷の家からイスラエルを贖ったことによって、救いの御業を成し遂げておられました。そしてアブラハム契約に取って代わるどころか、神がアブラハムとその子孫に対して結んだ古い約束を成就するための手段として示されています。イスラエルの民は、神の前に集い、神の救いの業とその祝福を覚え、神の教えを破る者には警告を与えて、神への献身を再確認しました。しかし、イスラエルの民はこの契約を果たすことはできず、契約は破棄されてしまうかに思われました。それを代表するのが、出エジプト記32章に記される金の子牛事件であり、アシュラ像を作り、バアル神を拝むなどの神への離反でありました。しかし、それにもかかわらず、神はイスラエルの民をお見棄てにはならず、契約を破棄されることはありませんでした。
■ダビデとの契約
そして神は預言者ナタンを通してダビデと契約を結ばれました。このダビデ契約において、最も重要なことは、メシアはダビデの家系から出るということです。この契約はサムエル記下7:11-17と歴代誌下17:10-15に記載されていますが、歴代誌の御言葉はこのようにあります。「『わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしはことごとく屈服させる。わたしはあなたに告げる。主が、あなたのために家を建てる。あなたが生涯を終え、先祖のもとに行くとき、あなたの子孫、あなたの子の一人に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしのために家を建て、わたしは彼の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしはあなたに先立つ者から取り去ったように、彼から慈しみを取り去りはしない。わたしは彼をとこしえにわたしの家とわたしの王国の中に立てる。彼の王座はとこしえに堅く据えられる。』ナタンはこれらの言葉をすべてそのまま、この幻のとおりにダビデに告げた。」
神はダビデに永遠の王朝を約束されて、そしてダビデの息子ソロモンがダビデの後に王座を確立し、神殿を建てます。その後、ソロモンは偶像崇拝という最大の罪に陥ります。しかしソロモンからはその恵み、慈しみは取り去られませんでした。メシアとその王座、家系、王国はとこしえに確立されると神が約束されたからです。
ここまでの旧約の契約の歴史を見てみますと、アブラハム契約ではメシアはアブラハムの子孫であることが約束されましたが、それはイスラエルの12部族のどの部族からでも誕生の可能性があると言えます。そして創世記49章にはイスラエル、つまりヤコブが死を迎える前に子供たちを集め、祝福をいたします。その10節で「王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。諸国の民は彼に従う。」とメシアがユダ族から出ることが言われていますが、このダビデ契約において、ユダ部族のどの家からでるのかが明らかにされているのです。このようにしてメシアが与えられることが旧約の歴史の中で次第にはっきりと告げられていくのです。
■契約の更新
メシアが与えられるという約束、神の契約はこうして神の選びの民、イスラエルに与えられ続けてきたわけですが、常に問われた問題は律法に対する服従の問題でありました。しかし、今お話ししてきましたように、イスラエルの民は律法に背き、律法から離れ、律法を拒みました。エレミヤはその13章23節で、「豹はまだらの皮を変ええようか」と言っています。豹は豹である以上、そのまだら模様は変えることができないように、イスラエルの民の心から、悪、裏切り、背きというものを無くすことはできないのです。イスラエルの、いえ、人間の心の腐敗という現実は人間自身では変えることができないのであれば、神によって、神の恩恵の力が表される以外に方法はありません。人間が正しい者として歩む、神の御心に従って歩む者となるために、聖なる民となるためには、神が新たな道を示してくださる以外に方法はないのです。それが今日のエレミヤ書31章31節以下に示された預言です。「ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来ると主は言われる。」かつて神から与えられた律法は石の板に示されましたが、神は律法を胸の中に授け、心に記す、心の中に刻み込む、と言われました。これによって神の民は一人一人が神を知り、神を愛し、神に従うようになる、と言っておられるのです。人々はもはや互いに教え合ったり、解釈したりする必要はなくなるということです。そのような形でなく、神を「知る」ように変えられるという預言でありました。ヨハネ1章14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とありますように、神の言葉、神の律法は石の板ではなく、人となり、そして神の言葉を語ってくださる。それをなしてくださったのが主イエスであるということです。それが主イエスがお生まれになった理由であります。共に読んでまいりましたマタイ福音書ではたびたび、主イエスは旧約の預言の成就、旧約の完成者としていらした、ということをお話ししてきました。こうして旧約の長い長い民の罪の歴史を、全く違う形で更新するために主イエスはお生まれになってくださったのであります。
■新しい契約のしるし
しかし、それにも関わらず、主イエスがきてくださった後も、律法は相変わらず、神と民の間に立ちはだかり、律法学者が力を持ち、大きな地位を占め、教えあうということを繰り返していました。そして主イエスを十字架へと送ったのも、祭司長、長老、律法学者たちでありました。神のその更新のご計画は主イエスの十字架の贖いという究極の形、主イエスの命を持って清算するというものでありました。長く続く人間の罪はどうやって清算することができるでありましょう。罪ある者によっては、どこまでいっても清算はできないのです。それゆえ、神は主イエスを人としてこの世に送られ、そして十字架への道をお定めになり、そして復活させる、という愛する独り子を私たちのための贖いの供え物とされたのです。ロマ書3:25に「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」とある通りです。そしてそれはⅠヨハネ2:2にあるように「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」であるのです。もはやユダヤ人だけのためではなく、全世界を救いへと導くためのいけにえとして主イエスは十字架へとおかかりになったのです。主イエスは神がそのようにお定めになっておられることを十分にご存じでした。エレミヤの預言の成就としてのご自分であることをわかっておられました。それゆえに、主イエスは引き渡される夜の食事で、パンと杯を弟子たちと共にされて、「新しい契約である」と言われたのであります。今日の第一コリントの箇所は毎回の聖餐式の際の制定語、つまり聖餐が定められた時のことを語っている箇所であります。今日の御言葉の23節には「引き渡される夜」というとても重要な言葉が出てまいります。この言葉は、主イエスのご受難、十字架の死全体を表す言葉です。従いまして、私たちが与る聖餐は主イエスの十字架の死と密接に結びついているということです。主イエスは「これは、あなたがたのためのわたしの体である。」と言われました。これによってパンは特別な意味を持つものとなり、「私たちのための主イエスの体」ということであります。私たちはただのパンを食べているのではなく、私たちのために捧げられたキリストの体をいただいているということです。そして杯も感謝の祈りを捧げた後で、弟子たちに飲ませて、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。古い契約ではエジプトからの脱出の時に、過越の小羊が殺され、その血が流されたことによって、イスラエルの民を解放され、救われましたが、今度は主イエス・キリストの血によって私たちが救われたのです。私たちは新しい契約によって神の民とされたのです。毎回の聖餐式におけるぶどう酒は、主イエスの血による新しい契約のしるしなのです。
■結び
今年2024年、最後の主日となりました。今年も多くの悲しみや苦しみ、辛い出来事がそれぞれに、また日本に、世界にありました。私たちの心も悩み、戸惑うこともありましたが、教会において、礼拝をお捧げし、聖餐に与り、主の体と血とをいただいて主イエスが成し遂げてくださった罪の赦しの恵みに与っています。それをキリストの体である教会で味わわせていただける幸いに心からの感謝をお捧げしたいと思うのです。まだ洗礼を受けておられずとも、礼拝に出席されている方々もすでにキリストの体である教会において、共に御言葉によってキリストがそれぞれのうちに住んでくださっているのです。さらなる養いと共に、洗礼への招きにお応えして、共に新しい契約に生きる民として歩みたいと願います。
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