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『新しい喜びの時代』 2025年6月1日

  • NEDU Church
  • 6月9日
  • 読了時間: 10分

説教題: 『新しい喜びの時代』

聖書箇所: 旧約聖書 エレミヤ書31:31-34(旧1237ページ)

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書9:14-17(新15ページ)

説教日: 2025年6月1日・復活節第7主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

今日の御言葉の始まり14節では「そのころ」となっていますが、新しい協会共同訳では「その時」となっています。つまり、マタイを弟子にし、マタイが家で食事の席を用意し、主イエスと共に多くの徴税人や罪人が食事をしている、ちょうどその時にヨハネの弟子たちがそれを見ていたということです。「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と申しました。これは明らかに不満を表す、非難の言葉であります。彼らの断食というのは、通常は太陽の昇っている間、食事を取らないということでありました。時を決めて、週に一回もしくは週に二回、断食をしていたと言われています。また時を定めなくとも、自主的に祈りと共に断食をするということも日常的な事柄でありました。彼らは特別な悲しみがある時とか、悔い改めのために、断食を行なっていたのです。この時代において、真面目な宗教生活を送る、信仰的に熱心であればあるほど、自分たちはきちんと断食をするのだとそれを誇りにもしていました。ヨハネの弟子たちは、特に悔い改めの断食を行なっていましたから、悔い改めにふさわしい態度というものがあって、それが断食として表現されていたわけです。それなのに、なぜ、あなた方はこんなに楽しそうな宴会をしているのか、それが彼らのコメントの真意であります。特にやってきたのはヨハネの弟子たちと記されていることも重要でしょう。洗礼者ヨハネは荒れ野で禁欲的な生活をし、らくだの毛衣を着ていなごと野蜜を食べ物として、悔い改めを人々に宣べ伝えていた、とマタイ3章に記されていました。彼は信仰の上でも、また道徳的にも悔い改めよと警鐘を鳴らしてきました。そのようなストイックとも言える生き方をしてきた洗礼者ヨハネを師に持つヨハネの弟子たちでありましたから、自分たちが断食をしている最中に、何やら賑やかに食事をしている家がある、見てみたら自分たちの仲間と思っていたイエスが中心にいるではないか、これはどうしたことか、ということです。また、ファリサイ派の人々の断食は罪の悔い改めのためではなく、神に従う敬虔さを表すためでありました。断食をすることは良い行いの一つであったのです。このようにヨハネの弟子たちとファリサイ派とでは、断食の意味は異なっていましたが、イスラエルの古い信仰的伝統に立つ彼らにとっては大切なことであったのでした。

 

■花婿がここに

そのような背景をもとに、非難の言葉を受けた主イエスはこうお答えになられました。15節です。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」今、この食事、この宴席は、婚礼の席であると主イエスは言われたのでした。断食は悲しみの表現であり、今のこの食事は悲しむのではなく、花婿と一緒に喜びを分かち合うためである、そう言われたのです。花婿とはもちろん主イエスのことであり、主イエスがこの地にいらしたのは、花婿が到着したということです。そのような席においては、喜びを分かち合うことがふさわしいことであり、悲しみを表すことは相応しくない、と言われたのです。主イエスの弟子たち、そしてここに今招かれている人々は悲しみと嘆きに生きるのではなく、喜び、そして祝いの時が来ているのだ、ということです。今日、共に読みましたエレミヤ書31章31-34節は、エレミヤ書の最も重要な聖句であると言われています。この箇所で約束された「新しい契約」は、主イエスの生涯とその苦難において成就しました。主イエスは十字架にご自身をお捧げになるとき、弟子たちとの最後の晩餐の時に、新しい契約が始まることをそのことをお告げになりました。マタイ26:26以下、「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」今日も聖餐の恵みに与りますが、この主イエスのお言葉に従って、主イエスと共に喜びの食卓につくのであります。断食をしていたファリサイ派やヨハネの弟子たちは、当然のことながら、このエレミヤ書の箇所を知っておりました。彼らは契約の破れを悲しみつつ、エレミヤが語る新しい契約が立てられる日がまだ来ないことを悲しんで、断食をせずにはいられなかったのです。しかし、主イエスは言われるのです。もうそのような断食は必要ないのだ。新しい神の契約はもう来ている。私がこの地に来た時に、新しい契約の喜びの日は来ているのだとそう言われたのです。

 

■古いものから新しいものへ

それがエレミヤ書31章33節以下に書かれています。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」この新しい時代、新しい契約においては、神があなた方一人一人を知っていてくださる。それはどんな者に対してもであって、神に知ってもらうために断食をする必要も、そのために良い行いを積み上げることも必要ないのだと言われたのです。取税人マタイは自分が神に愛されている存在であることを知ったこの日、神が共にいてくださることを知り、生きている喜びを感じたのです。主イエスはこの喜びは新しい、と言われました。それはもう古いものとはくっつけることのできない新しさなのだ、というのです。そのことを主イエスは譬えでお話しされました。古い布に真新しい布で継ぎ当てをしたならば、新しい丈夫な布は、周りの弱くなった布を引っ張って破れてしまう。また、新しいワインを古い革袋に入れたならば、同じように、ワインの発酵が進むと同時に、革袋は裂けてしまうということです。いずれの譬えも、古いものは新しいものと同居できないということを言われたのです。古いもの、それがヨハネの弟子たちやファリサイ派が行なっている断食であり、新しいものとは主イエスが招いておられる喜びの食卓です。ここで示されている新しさ、とは、神が知っていてくださる、神が共にいてくださるということを知って生きる喜びです。このように造られたことを喜び、そして生かされている喜びに生きるということです。

 

■主が共に食卓に

ですから、そのように生かされ、生きる私たちは日々、喜びを持って、今の生を肯定して生きるということであり、日々の生活のそこかしこ、三度の食事の時に、この私たちの現実のただなかに神が共にいてくださるということに感謝し、喜ぶのです。教会でも愛餐会をいたしますし、それぞれの家庭において食事をする。それらすべての時に、その場に主が共に食卓にいてくださる。この取税人マタイの家で開かれた宴席と同じように、主がいてくださるという喜びを味わうことができるのです。主イエスの誕生に際して、マタイはこう記しております。マタイ1章23節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」この主イエスというお方は、神は私たちと共にいてくださる、そのようにその始まりに示しているのであります。

 

■奪い去られる時

主イエスはご自身が共におられる喜び、新しい喜びを分かち合うことをこうして示されましたが、喜びだけを語られたのではありません。15節「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。」これはどういうことを意味しているのでしょう。主イエスが弟子たちから奪われる日、それは十字架につけられる時です。明らかに主イエスはご自身のご受難、十字架のことを話しておられます。私たちの罪の清算のために、主イエスがお引き受けくださった十字架です。私たちが与えられている生を、神と共に生きるためには、犠牲が払われねばならないということを主イエスは知っておられ、すでに十字架を見据えておられ、罪に対して、そして死に対してお一人で闘われるつもりでおられました。そして訪れた十字架、そして死。それは悲しみの日であり、それゆえに断食をするのにふさわしい時であります。教会の暦では、復活前の40日間、受難節、レントの時期は断食をするのにふさわしい時として、主イエスのお苦しみを覚えて断食をする人もあるということです。

 

■甦りの時

ヨハネの弟子たち、ファリサイ派の人々が進んで断食をしたのは、先ほどもお話ししたように、エレミヤ書に記されているように神が早く来てくださるように祈るためでもありました。何もしないでいたら、見捨てられるのではないか、このユダヤの民を見捨てないでください、そのような思いで断食したのでありましょう。それは、自分に都合よく神様を動かすために、いわば神様のご機嫌取りをしていることです。しかし、主イエスはそのようなことはもう必要ない、と言われるのです。「わたしはあなたと共にいる」主イエスは甦りをなさって、弟子たちに、私たちにそのように言われました。この「花婿」、主イエスは奪われたままではなかったのです。神によって甦りをなさり、それは罪と死の力に打ち勝たれたということです。主イエスは言われます。悲しむ必要はない。私がすでに死の世界に赴いたではないか。私の支配の及ばないところはない。私たちにそのように語りかけてくださっておられるのです。

 

■結び

主イエスはこうして死に立ち向かわれ、そして死に打ち勝たれました。それゆえに私たちは、死を恐れる必要はなく、今のこの世にあって不要な不安に悩まされることなく、喜びを持って生きることができるのです。日々の食事はそれらの生活を支えるものであり、私たちの日々の食卓は、主イエスが用意してくださった食卓です。神によって養われている私たちが神の養いによって得られた糧を主イエスと共にいただくと知るとき、私たちは深い喜びに満たされて、日々の食事を感謝を持っていただくことができるのです。その食卓は主イエスの恵みが支配しておられるものであるということを覚えたいと思います。そして主イエスはユダヤ教に生きてきた人々に新しい喜びの時の到来を告げられました。この9章のはじめに記されていました、罪の赦し、罪人との交わり、そして断食の際の祝宴、すべてに対する非難に対して、主イエスが新しいものの代表であること、そしてそれは神が新しいことをなさっておられるのだという宣言です。それゆえに、古い習慣を後にして、神の恵みに応答する新しい形を見出すべきだと言っておられるのです。今、私たちは本来、新しい時代に生きている者たちでありますけれども、それでもこの主イエスの示された新しい時代に生きているとは言えないのではないでしょうか。ヨハネ3:3に「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」という御言葉がありますように聖霊によって、神の霊によって、エレミヤが語った新しい契約のしるしを心に刻まれなければ、主イエスが言われた「新しさ」はわからないのです。それは人の知恵によらず、ファリサイ派やヨハネの弟子たちのように、聖書に通じ、断食を熱心に行ったとしても、主イエスの新しさは理解できないのです。弟子たちもここではまだわかっていませんでした。それを知るのは聖霊降臨、ペンテコステの出来事です。折しも、次週6月8日は聖霊降臨日です。そこから弟子たちに約束された聖霊が降って、ようやく彼らはその「新しさ」を知ることとなります。私たちも聖霊によらなければ、イエスを主であるとは言えないのです。聖霊の導きを祈り願い、主イエスと共に食卓につき、主イエスと共に歩み続けたいと願うのであります。

 
 
 

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