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『新しい喜び』 2022年7月3日

説教題:『新しい喜び』 聖書箇所:マルコによる福音書 2章18節~22節 説教日:2022年7月3日・聖霊降臨節第五主日 説教:大石 茉莉 伝道師

■はじめに

今日のみことばは「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。」という一文から始まります。前回の聖書箇所でも「ファリサイ派」そして「食事」がキーワードになっており、主イエスが罪人や徴税人と食事することを責めていました。今回も自分たちは断食しているのに、あなたがたはなぜ断食をしないのか、という敵意の込められたやり取りが続いていきます。

断食というのは、文字通り、食を断つこと、一定の時間、食べたり飲んだりしないことです。わたくしは以前、インドネシアのジャカルタに住んでおりました。周りの人のほとんどがイスラム教徒で、彼らはイスラム暦にしたがって、ラマダンと呼ばれる時期に、約1か月、断食をいたします。もちろん、1か月間全く食べないわけではなく、日中、日の出ている間は食べたり飲んだりせず、日没から日の出までの間に食事をします。断食の目的は、飢えを通して、飢餓にある人たちの苦しみを共有すること。そして自らの欲望を抑えて、日々の恵みに感謝することが主なる目的です。子供や妊娠している人、病人など、断食をしない人もいますから、レストランなど、まったく営業しないというわけではありませんが、その期間中、街中のレストランでは、食べている人がみえないように幕を下ろすことになっていました。私はもちろん、イスラム教徒ではありませんから、断食の習慣に従うことはありませんでしたが、断食をしている人の前で食事をすることは避けていました。宗教と生活とが結びついているインドネシアではごく自然なことでしたが、日本においては特別なことといえるでしょう。少し前から断食道場というようなものを聞くようになりましたが、その意味は主にダイエット目的であるそうですし、わざわざ籠り、断食をするという形だそうですから、日本においては、生活の中での断食というのは非日常なことでしょう。


■聖書における断食

さて聖書においてはどのような意味を持っていたのかといいますと、断食は神様に自分の罪を告白し、悔い改める事の表れとして考えられていました。ダビデ王は部下の妻、バト・シェバと関係を持ち、部下をわざと戦死させて彼女を奪いました。そしてバト・シェバはダビデの子を産みます。そのことは主の目にかなわず、ダビデの子は弱っていきます。「ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。」とサムエル記下(12:16)に書かれているように、罪を犯した者が神の前にひれ伏し、その罪を悔い改めるしるしでありました。律法では、年に一度、「贖罪の日」に断食をするように決められていました。その日は大祭司によって特別な犠牲が捧げられ、それによって神様による罪の赦しを得るものでした。その後、バビロン捕囚の時代になると、年に一度の悔い改めでは足りないと考えられて、年に4回断食をするようになりました。そして主イエスの時代になると、ファリサイ派の人々は週に2回、月曜日と木曜日に断食をするようになりました。前回もお話した通り、彼らは律法遵守を目指した厳格な理想主義者であり、彼らは神のことについて本当に熱心でありました。掟を守る事について熱心でありました。ですから、常に悔い改めて祈ることを大切にするという信仰の表れでもありましたが、一方では、自分たちの熱心な信仰の姿を人々に見せる、自慢する行為にもなっていました。マタイ6章16節にはこう書かれています。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食をしているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。」これも前回にお話ししましたが、私たちの中にもこのようなファリサイ派の要素があることを認める必要があるでしょう。人は誰でも人から認められたいという欲求があるのです。断食でなくとも、日々の様々な行為の中に、人から認められたいという思いによって、自分を誇る、ということがあるのです。人に見せる、人からほめられるためのものではなく、ただ神が見ておられる、そのことだけを覚えていたいものです。



■ヨハネの弟子の断食

ヨハネとその弟子たちは真実の悔い改めとして断食をしていました。マルコによる福音書1:6節には、ヨハネが「いなごと野密を食べていた」と書かれています。ヨハネの普段の生活そのものが断食生活といえるようなものであったともいえるでしょう。ヨハネの弟子たちは、ヨハネに倣う生活、断食をしていました。ファリサイ派とヨハネの弟子たちは、断食の意味は違うものの断食を積極的に行っていました。しかし、主イエスと弟子たちは断食をせず、むしろ、共に食事をすることを大切にしていました。前回の箇所も徴税人と罪人との食事のシーンでありました。前回の食事と今回の断食、このことはあえてつなげて編集されていることは明らかであります。


■婚礼の客

「なぜ、あなたの弟子たちは断食をしないのですか?」こう問われた主イエスのお答えは不思議なものでした。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。」そう言われたのです。弟子たちは婚礼の客として招かれている、それゆえに断食はできない、そう主イエスはおっしゃいました。花婿とはもちろん主イエスを指しています。弟子たちは主イエスという花婿によって、婚礼の宴席に招かれている客人であるというのです。

旧約聖書において、主なる神と選びの民イスラエルの関係は花婿と花嫁の関係として示されてきました。それゆえに、イスラエルの民が他の神々を拝むことは不貞、姦淫の罪とされてきたのです。新約聖書においては、主イエスが花婿として来られたこと、そして自分はその介添人である、花婿の声が聞こえることを大いに喜び、私は喜びで満たされている、とヨハネはその福音書(3:29)に記しています。

ですから、花婿に招かれた客人は、花婿のために祝い、その祝いの席に喜んでつくということです。弟子たちは、花婿である主イエスがこられたことで、神の国が到来し、神による救いが始まることを、心から祝い喜ぶべきなのです。マルコによる福音書の始まりに記されている「神の子イエス・キリストの福音の初め。」福音とは良き知らせであるとお話してきました。主イエスが来て下さったことで、この福音、良き知らせが告げられたのです。それを信じる者は、喜び祝いながら生きるのです。この喜びと祝いは、いついかなる時も、私達を支え、私達の生きる力となるのです。「花婿が一緒にいる」の「一緒にいる」という表現は、インマヌエル「神は我々と共におられる」ということです。主イエスが共にいてくださるという、そのことは、救いの恵みの喜びの中で生きることなのです。主イエスが共におられるということは、新しい始まりであり、断食という古い慣習から自由にされることでもあるのです。


■花婿が奪い取られる時

しかし、主イエスはこう続けられます。「花婿が奪い取られる時が来る。」これは主イエスの十字架の予告です。十字架にお架かりになる日、その日、弟子たちは主イエスを裏切り、逃げ去りました。そしてそれぞれの罪のため、断食して悔い改めの涙を流したのです。そのような日が来ることを主イエスは知っておられました。花婿が奪い取られる十字架の時こそ、人がまことの悔い改めをする時であり、神に立ち帰る時なのです。

私たちは自分の罪を何もなしに自覚することは難しいことです。しかし、主イエス・キリストの十字架の苦しみと、そしてそれに続く死が、私の罪のためであった、私の罪の身代わりとして、私の罪が赦されるために、主イエスが十字架にかかってくださった、主イエスが十字架で流された血はわたしのためだった、と知る時、主イエスの十字架は深い意味を持ちます。自分自身の罪の大きさに直面します。そして、それと同時に、その途方もなく大きな罪を赦し、愛してくださる神様の愛の深さを知ります。その赦しの恵みが悔い改めへと導くのです。

花婿が奪い取られた時、十字架の時、弟子たちが行った断食は悔い改めの断食でありました。そしてそれは、初代の教会の人々たちに引き継がれて、週に2回、断食をするようになったのです。水曜日と金曜日です。金曜日は主イエスが十字架にお架かりになった日。主イエスの十字架のお苦しみと死、そしてそれによる赦しの恵みを受けるものとして悔い改めの断食は意味のあるものだったのです。ですからそれは、ファリサイ派の断食やヨハネの弟子たちの断食とは違う意味を持ったものとなったのです。花婿である主イエスによって、私たちは婚礼の席に招かれています。それは喜びと祝いの時です。主イエスが来られたことで、断食よりも喜びと祝いの食事が、信仰において中心となったのです。それは今も私たちの中に明確に引き継がれています。私達が礼拝において与かる聖餐です。主の十字架による救いの恵みを味わう聖餐、それはそもそも、主が来て下さったことを喜び祝う祝宴なのです。

私たちの現実世界は、不安や苦しみ、悲しみに満ちています。天の父の右に座しておられる主イエスを直接に見ることはできません。花婿は奪い取られたままです。しかし、「私は世の終わりにもう一度来る」と主イエスは約束してくださっています。そしてインマヌエル、「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と言ってくださっているのです。そのことを覚え、味わうのが聖餐なのです。主イエスは既に来られ、そしてもう一度来てくださるその時には神の国が完成し、神様による救いが完成するのです。そのことを忍耐して信じて待つこと、それがキリスト者に与えられた新しい生き方です。聖餐式において与えられるその喜びの祝宴の意味を改めて深く覚えたいと思います。


■新しい革袋

「主イエスは新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものである」と言われました。新しいぶどう酒、それは主イエスのこと。主イエスと共に生きる私たちは新しい革袋として備えられなければなりません。本来、キリストのものとされた私たちは、すべてがキリストのもののはずです。しかし、私たちは、自分自身を守ることにとても頑なです。主イエスのみことばも都合のよいところだけ受け取ります。私たちのすべてが新しくならなければならないというのは、実はとてもむずかしことです。全取っかえ、それは自分が自分でなくなってしまう、自分を失ってしまうようで怖いのです。しかし、どうやったら新しくなれるのかと考えるのではなく、ただ主に委ねるしかないのです。どうやったらなれるのだろうと考えると、自分の手放したくないものに目が行きます。しかし、主がそう言われているのだから、そうしようと決める。決めることはできます。「わたしは新しくされるのだ」と言い切る。信じる、そのことが大切なのです。どこが、とか、どんな風に、とか、考える必要はないのです。それは神様がお決めになることなのです。大切なのは、主が言われている事に、ただ「はい」というだけなのです。


■結び

私達は主イエスの復活により、主イエスが死に打ち勝たれたことを信じる者です。主イエスが得られた永遠の命を私達も共に与ることができると信じる者です。その神の救いのご計画が新しい喜びなのです。主イエスのもとには欠けるものがありません。ですから、たとえ、私たちの現実の中に目をつむってしまいなくなるような苦難や悲しみがあっても、主が力をくださり、立ち上がることができるはずなのです。私たちの欠けはすべて主イエスが満たしてくださるからです。私たちに与えられている新しい喜びは私たちの思いを大きく超え、そして完全なものなのです。

今一度、主イエスの十字架を思います。古いものを大切にする者たちの思いが、主イエスを十字架へとつけました。主イエスにそれまで従ってきた弟子たちも、主イエスの元から逃げ出しました。しかし、主イエスはこのような弱い私たち人間の業をすべてご存知で、お一人で十字架に歩まれ、そして復活して逃げ出した弟子たちに再び出会ってくださいました。主イエスの「まことの死」によって、私たちの「死」は「永遠の命」に代えられたのです。悲しみは喜びへと変わったのです。新しい喜びはわたしたちにすでに与えられています。主イエスが来て下さった喜び、そしていつも共にいてくださるという喜び、そして永遠の命を与えられているという喜び。それらの溢れる新しい喜びが与えられていることを覚え、その恵みの中、日々生きる者でありたいと願います。

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