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『敵を愛する』 2024年11月17日

説教題: 『敵を愛する』

聖書箇所: 旧約聖書 レビ記19:18

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書5:43-48

説教日: 2024年11月17日・降誕前第6主日

説教: 大石 茉莉 


はじめに

5章21節以下で、主イエスは旧約聖書の律法ではこのように聞いているであろう。「しかし、私は言っておく」、という言い方でご自分の教えを語ってこられました。今日の43節以下はその締めくくりの部分です。ここで取り上げられている「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉は律法として、そのままにあるわけではなく、先ほどお読みいただいたレビ記19章18節に基づいています。前半部分には「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。」とあります。「敵を憎め」と言われた主イエスの御言葉と矛盾するように思うかもしれません。これは当時、ユダヤの人々にとりまして、大切なのは同胞、仲間でありました。隣人とは、同じ民族、同胞であって、愛する、親切にする、関心を持つ、のはその人たちだけに限定されていました。逆に言えば、それ以外の人々は、愛さなくて良い、親切にしなくて良い、関心をはらわなくて良い、ということであったからなのです。愛することの反対が憎むことであるように、仲間、同胞の反対は敵であるということになります。同胞は愛せよ、それ以外は敵であり憎むに値する、ということになります。これが当時の律法解釈であり、口伝律法として一般的な教えになっていました。

 

■「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」

しかし、主イエスは「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。この主イエスの言われた教えは、本来の律法が示していること、神の御心がなんであるか、ということをおっしゃったものであると言えるでしょう。主イエスはあらゆる掟の中でどれが大切でしょうか、と律法学者に問われたときに、「「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」と言われました。マルコ12章30節以下に最も重要な掟として記されています。この主イエスのお話になられたお言葉を要約すれば、「神を愛し、人を愛する」ということです。主イエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われるのです。さて私たちにとりまして、これは無理難題であると感じるのではないでしょうか。私たちの身の回りではこの主イエスの時代の迫害というようなことはありませんけれども、単純に言えば、敵、苦しめる者、自分とうまくいっていない者、嫌いな人というような関係性は大なり小なりありましょうし、差別や阻害というようなことを感じておられる方もあるでしょう。いずれにしても、私たちはたとえそれが無意識であったとしても、自分の中で見えない何らかの線引きをしています。

出エジプト記23章4節・5節には「あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。」という律法が定められています。この律法が示していることは、それが敵であれば、そのまま通り過ぎてしまいたい、敵であれば見捨ててしまっても良いのではないか、とする感情が私たちの中にあるということです。そしてここではたとえ敵であったとしても、そのような大変な状況を目にしたならば、隣人となれ、ということが言われています。この律法については主イエスが有名なルカ10章25節以下の「善きサマリア人のたとえ」においてわかりやすくお話しされています。

さて、主イエスはこうして隣人となること、を示されますけれども、感情に左右される私たちにとっては簡単なことではありません。そんな私たちに主イエスは「祈りなさい」と言っておられます。「敵を愛しなさい」ではなく、「敵のために祈りなさい」と言っておられるのです。

「祈り」とは私と神との関係です。神との祈りにおいて、私たちがいただくものはなんでしょうか?自分がトゲトゲしている時、神に祈ることで平安を得る。これが私たちキリスト者の恵みであります。祈りによって神との平安の関係に置かれます。私たちはそのために、その恵みを、その平安をいただくために祈ると言っても過言ではないでしょう。私たちは祈りにおいて、神が私たち一人一人を愛してくださっていることを知ります。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるのです。太陽や雨はその対象を選ぶことはなく、そしてその太陽や雨は父なる神が支配しておられるのです。私たちはこうして変わらない神の愛、そして神の分け隔てなさらない公平性をも知ります。私を愛して下さっているのと同様に、あの人も、この人も、たとえそれが私にとって敵対する相手であったとしても、神の愛のうちに置かれている人であることを知ります。その時、私たちはその神に感謝して祈ることができるのではないでしょうか。私たち自身の思いによらず、敵のために祈ることは神様を介在して可能になるのです。

 

■太陽も雨も

さらに主イエスは46節で「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」と言っておられます。自分の友人や仲間を愛することであれば、それはなんら特別なことではなく、誰にでもできることであると。その通りです。しかし、ここで主イエスは、だから敵をも愛する良い人になりなさい、ということを求めておられるのではありません。祈ることすら神様を介在としてではないと、私たちは人のために祈ることすらできないのです。私たちの頑張りで良い人になろうとしたところで、私たちは決して良い人にはなれませんし、このぐらいなら合格点をいただけるでしょうか?というように考えるとしたら、なおさらに神の御心から離れることになります。神様の御前において、私たちは隣人すら愛することができず、むしろ傷つけてしまうことの多い愚かな者たちなのです。私たちは常に敵を作り、つまり自分を良い側において、相手を悪い側に置いて考える者たちなのです。先ほどお話しした「神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」でも、自分は善人だから太陽も雨もいただいて当然と思ったりもするのです。しかし、本当のところは、太陽も雨もいただけなくても仕方ないほどの正しくない者はこの私なのです。しかし神は、悪人であり、正しくないこの私を、敵ではなく、愛する子としてくださっている、その恵みをいただいて、神の子としていただいているのです。

 

■平和があるように

47節で主イエスは愛するということを具体的に「挨拶する」という行為で示してくださっています。挨拶するというのは、ヘブライ語では「シャローム」であり、「あなたがたに平和があるように」という言葉を交わすということです。主イエスは弟子たちを伝道に派遣された時、まず家に入ったら「平和があるように」と挨拶しなさい、と言われました。マタイ10章13節です。日本語の挨拶は「おはよう」とか「こんにちは」「こんばんは」であって、はてさてその語源はどこから?とあまり挨拶の由来を理解していないことに気づきました。「おはよう」は歌舞伎の用語だそうで、歌舞伎役者が準備に時間がかかることから、「お早いお着きでございます」という労いの言葉が元になっているそうです。「こんにちは」「こんばんは」は「今日は良い天気ですね」とか「今晩は月がきれいですね」というように続いていた言葉が省略されたものだそうです。と、日本語の挨拶はそのような語源があるそうですが、英語ではたとえば朝ならば、Good morning、さようならならばGood byeと言いますけれども、このGoodの語源はGod be with you 、「神があなたと共におられますように」という言葉の短縮形であると言われています。つまり、シャロームと同じであります。毎週の礼拝の最後に民数記6章26節「主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように」の「平安」これがシャロームであり、神があなたと共におられるように、なのです。挨拶とは相手の祝福を祈り願うことなのです。ですから、挨拶も「私の」感情や「私の」思いではなく、「神が」を通してでありますから、祈りと同じであります。このようにして、私たちは、自分を中心にするのではなく、神を中心に置く、自分の思いではなく神の御心を求めていくのです。

 

■父なる神の完全

主イエスは今日の箇所の最後48節で、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と言われました。私たちは完全にはほど遠く、むしろ罪の中に生きているものたちです。それにも関わらず、なぜ、主イエスは天の父と私たちを同等にされて、「だから」と言われるのでしょうか。それは主イエスがこの世に来てくださり、私たちの罪を清算してくださり、十字架におかかりになってくださって、父と私たちを和解させて、私たちを父につながる父の子としてくださったからです。父なる神の完全さは、罪人である私たちを愛し、そしてそのために独り子主イエスの命を差し出してくださった、それほどまでに私たちに愛を注いでくださったということです。この神が完全であられるという、この「完全」とは完璧で非の打ち所がないということではありません。神の愛を一人残らず、主イエスに繋がる者は徹底的に愛してくださる、というその愛のことなのです。その愛を与えられている私たちは、自分の思いによらず、神を通して敵をも愛する愛が与えられているのです。

 

■結び

それでも私たち自身は不完全な者たちです。敵を愛するどころか、隣人をも愛せずに罪を繰り返す者たちであります。しかし、主イエスは十字架上で敵のため、私たちのために祈られました。あなたの罪は私が背負った。あなたへの裁きは私に下された。あなたの呪いは私が受けた。主イエスの十字架とは私たちにそのようなメッセージを告げ続けているのです。主イエスはご自分を迫害する人々を敵として憎むのではなく、祈り愛されました。この戒めの通りに生きて、この戒めの通りに死なれました。この戒めは主イエスの命の全てなのです。すべての人に注がれている天の父の愛は、主イエスの生き方、そして十字架の死において最もはっきりと示されているのです。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」私たちには到底できないと思えるこの言葉は、この方からのそのようなメッセージなのです。招きなのです。私たちは死ぬまで不完全な者たちであり、そして未完成のまま人生を閉じます。しかし主イエスは、そんな私たちと一緒に生きてくださっています。そしてどこまでも私たちと共に歩んでくださって、天まで一緒なのです。私たちはこのお方と一緒だから、「完全な者」になります。これが主の約束、招きであり、そして主イエスの宣言でもあるのです。私たち自身がどうこうの問題ではなく、私たちにとって、主イエスにおいて、ということが大切なのです。祈りの最後に私たちは「主の御名によって」と祈ります。これは単なる定型文ではなく、まさに、主イエスを通して、それによって完全である、ということを宣言しているのです。そのことを改めて覚え、主イエスによってなされることの完全が私たちのうちになされますように、と祈りたいと思います。

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