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『救いの御業の始まり』 2024年7月14日

説教題: 『救いの御業の始まり』 

聖書箇所: 旧約聖書 詩編130:5-8

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書1:18―25

説教日: 2024年7月14日・聖霊降臨節第9主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

はじめに

先週よりマタイによる福音書を共に読み始めました。先週の箇所、このマタイ福音書の始まりはただ名前が連なる系図のようでありながら、神のご計画が極めて豊かに示されていることを知りました。さて、今日の箇所はまさに主イエスがこの世にお生まれになる所ですから、クリスマスには必ず読まれるところです。皆様、すでに何度も読み親しんでおられる箇所でしょう。クリスマスにはまだ数ヶ月早いこの時期ではありますが、改めて主イエス・キリストの誕生の次第から御言葉の語りかけを聞いてまいりたいと思います。

 

■ヨセフの視点で

先週もお話しいたしましたが、主イエスの誕生については、このマタイ、そしてルカ福音書が記しております。そして系図においては、マタイはアブラハムから主イエスへ、ルカはイエスからアダムへとその示し方も逆の形でした。そしてこの誕生のシーンもマタイとルカに記されているわけですが、両者の記事を読み比べますと、同じ出来事を語っているようでありながら、視点も内容も異なることに気付きます。ルカによる福音書はマリアのところに天使が遣わされ、主イエスの誕生が予告されます。そしてその聖霊による出来事をマリアは受け入れ、「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」と答えます。そこにはヨセフは登場していません。一方、マタイによる福音書を見ますと、こちらはヨセフのところに天使が遣わされます。ヨセフの夢の中に天使が現れ、そしてヨセフの思い、ヨセフの行動が示されています。また、ルカによる福音書では、マリアの賛歌が記され、喜びに溢れています。華やかさもあります。しかし、このマタイ福音書の主イエスの誕生は、深刻さを含む状況が記され、そして淡々と主イエスの誕生が告げられることになるのです。

 

■ヨセフの悩み

今日の冒頭にありますように、二人は婚約中でありました。正式な結婚の前に許嫁のマリアが妊娠していることがわかりました。聖霊によって身ごもって、とありますが、ヨセフはそのことを理解できません。そして自分にも身に覚えのないことです。そうなりますと、マリアのお腹の子供は誰の子なのか、と言う疑惑が彼の中に沸き起こります。これから二人で幸せな家庭を築いていくはずのその時に、マリアが自分によってではなく妊娠している。この事実はマリアへの信頼が損なわれる由々しき事態です。マリアはヨセフを裏切るようなことはしていない、と言い、それを信じたい気持ちはあれど、マリアに裏切られたという思いは拭いきれません。さらには当時の律法に従えば、マリアのお腹の子がヨセフ以外の人との間の子どもであるならば、マリアは姦淫の罪で石打ちの刑に処せられるのです。マリアのことを思うヨセフはそのようなことも避けたいと思ったのでありました。そうして出した決断が19節に書かれています。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、密かに縁を切ろうと決心した。」この「正しさ」とは正義という言葉でありますが、彼の正義とはどのようなことであったか、といえば、自分の子ではないのにそれを知らないふりをすることはできなかった、ということと、間違っているのはマリアだ、と主張することもしなかった、ということです。妊娠しているマリアと実際に密かに縁を切ったとしたならば、周りはどのように見るでしょうか?マリアが不貞を働いたと見る人もいるでしょう。また、ヨセフが結婚前に関係を持ち、妊娠させてその上、縁を切ったと見る人もいるでしょう。どちらかといえば後者の方が多いように思います。なんて酷い男なんだというような噂になることは十分に考えられることです。ヨセフはそのような噂話を含む評価をも受ける覚悟でいたことも熟考した上で、そのような決断をした、という深い思いが彼の決意から感じられます。そのような意味でもヨセフは正しい人であったのです。

 

■主の天使

「このように考えていると」と20節にあります。マリアも天使ガブリエルがマリアに喜びの知らせを告げた時、その言葉に戸惑い、考え込んだ、とルカ福音書にありました。私たち人間の動作としては、考える、ということでありましょうが、聖霊はそのように私たちに働きかけてくださり、そして私たちは思い巡らす、考える、のではないでしょうか。私たち人間の考えに対して、聖霊の導きが与えられる、それは祈りにおいて示されるとも言えるでありましょう。先ほどお読みした詩編130編にも主に望みを置き、御言葉を待ち望む。とありました。ヨセフも正しい人であった、というのは神を畏れ敬う、信仰的にも正しい人ということでありましょう。ヨセフも祈りのうちに、神の御言葉を待ち望んだのだと思うのです。そしてヨセフが決心した時に、夢に主の天使が現れました。そしてヨセフにこう告げました。「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」天使は、子どもにイエスと名をつけること、そしてその子は民を罪から救う者となる、と言ったのでありました。イエスという名前はヘブライ語のヨシュアのギリシア語読みで、「主は救い」という意味です。このイエスという名前は紀元1世紀のユダヤでは一般的な名前でありました。しかし、特別な意味を持っています。旧約聖書にヨシュア記というものがありますが、ヨシュアはモーセの後継者としてイスラエルの民を解放し、約束の地へと導きました。新約聖書のイエスは私たちを罪と死の束縛から解放して、永遠の命を与えてくださるのです。ここにも神の特別なご計画が示されているのです。救い主を象徴するイエスという名前をヨセフ、あなたがつけなさい、と主なる神はお命じになられました。子供に名前をつける、それは父としての役割であります。このマタイ福音書の1章1節から、長々と名前が連ねられていましたが、それらは全て父がその子につけた名前であり、それが繋がりを示しているのです。

 

■ヨセフの決断

さて、そのように神からの言葉が示され、それを聞いたヨセフはどうしたでしょうか。24節、「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまで、マリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」ここにはヨセフの気持ちの動きは何も記されていません、ただ結論だけが示されています。ヨセフは結局、神の御言葉通りにそのままを受け入れました。少し先取りになりますが、ヨセフは主の天使の言葉通りに、即座にエジプトへと避難、そしてまた、エジプトからイスラエルへ戻り、ガリラヤ地方、ナザレに住む。それらの一連のヨセフの行動は、ヨセフが自ら決断したことではなく、主の天使のお告げに従って、そのような行動をとった。それがこの後2章に示されるわけですが、この最初の決断、これがヨセフにとってその後を左右する大きな決断でありました。マリアをそのまま受け入れる、生まれてくる子どもの父になる、ということは、自らの中に沸き起こっていた疑念、不安、また、共同体において起こるであろう一族の問題、それら全てを引き受けるという決断であります。神はその独り子を聖霊によってマリアの胎に宿らせました。そして神は、その独り子の運命を、ヨセフという一人の男性の信仰の決断にお委ねになったのです。そしてヨセフは、自らの思いではなく、神の言葉に従うということを貫き通したのでした。24節には、「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通り、妻を受け入れ」とありますように、目が覚めてからのヨセフには何の躊躇いも感じられません。ここにヨセフの信仰が示されておりますし、ヨセフがこの後、生きていく道筋までもがまっすぐに示されています。

 

■ヨセフの系図

ここに示されておりますヨセフの信仰が、前回お読みした「主イエス・キリストの系図」とつながるのであります。系図の16節には「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた」とありますように、「主は聖霊によってやどり、処女マリアより生まれ」と使徒信条にもありますように、主イエスはヨセフによらずに聖霊によって身ごもった子供でありますから、肉体的な血縁、血のつながり、という意味においては、主イエスはヨセフとはつながってはいません。しかし、あの主イエス・キリストの系図にヨセフは父として名を連ねているのです。今日の20節には「ダビデの子ヨセフ」と主の天使はヨセフに呼びかけています。神はその時を待ち、ヨセフを訪ねてくださいました。そしてヨセフは神と出会い、神に導かれて、父となることを受け入れたのでありました。そうしてこの系図は成立したのです。最初にも記しました通り、このマタイによる福音書の主イエス誕生物語はあっさりしていて、淡々としています。ルカ2章21節にはこうあります。「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」確かに名前を定めるのはその父である者がすることでありますから、ヨセフによってなされたことでありましょうが、ルカによる福音書はヨセフにはスポットは当てず、単に天使によって示されていた名前が付けられた、ということだけを記しています。それに対して、マタイははっきりと、ヨセフは、「その子をイエスと名付けた。」と記しているのです。これがマタイ福音書において、神からの言葉をただ受け入れただけ、受け身のように見えるヨセフが自らの意志をはっきりと示した事柄でもあります。

 

■神は我々とともに

イエスと名付けられた子は自分の民を罪から救う、そしてそれは主が預言者を通して言われていたことが実現するためである。その名はインマヌエルと呼ばれる。これらが主の天使の告げたことでありました。インマヌエル、それはその後に記されているように、「神は我々と共におられる」という意味です。この言葉は旧約の時代からすでに神はイスラエルの民に対してお与えになっておられました。イスラエルの民をエジプトから連れ出すようにとモーセにお命じになった時も、「わたしは必ずあなたと共にいる。」と言われました。また、ヨシュアがモーセの後継者として民を率いるときも、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。」と言われました。それは神がイスラエルの民をお選びになった時からの神の約束なのです。そしてそれはイスラエルの民が神を忘れ、他の神に走り、自ら神との信頼関係を失うようなことを行おうとも、決して神は反故にはなさいませんでした。このマタイに書かれておりますのは、イザヤ書7章の引用です。イザヤ書では、当時のユダの王アハズに「インマヌエル」、わたしはあなたと共にいる、と語られたのでありました。これは神が信頼に足るお方であることを神自らが証しされ、神のご性質のしるしとして語られているのです。それは単なる状態を示すのではなく、「神であるという神性と人であるという人性が共にある」という存在です。神であり、同時に人である、それが処女マリアから生まれる主イエスであります。そしてその神であり、人であるお方がこの世を歩まれるときは、神であることを捨てて、人として歩まれました。その歩みは、弱い者として、貧しい者としての歩みでした。父に守りを願い、父に従う歩みでした。それは御子ご自身が選ばれた歩みでありました。人となられた主イエスこそ、完全に御父に信頼して生きるというモデルを示されたのでありました。神と人とが共にある祝福を自らが証しされたのです。

 

■結び

神に従わず、神を忘れる、というその不信の罪は、当時のイスラエルの民のみならず、私たち全ての者が持っている罪です。神はこのような現実の中に、インマヌエル、主イエスを送ってくださったのであります。このお方に従うことによって、再び神と共に生きるという道を備えてくださるためであります。私たちにとっての大いなる恵みであり、そして神が共にいてくださるという希望、喜びが与えられる出来事がこの主イエスの誕生であります。感謝いたします。

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