説教題: 『救いにあずかる道は一つ』
聖書箇所: ガラテヤの信徒への手紙 1章6~10節
説教日: 2024年1月14日・降誕節第3主日
説教:大石 茉莉 伝道師
■はじめに
2024年はガラテヤの信徒への手紙からともに聴き始めました。前回はその始まりの挨拶の御言葉から聞きました。今日の箇所で早速にパウロは本論に入ります。パウロの他の手紙、たとえばコリントの信徒Ⅱへの手紙は最初の挨拶に続けて、神に対する賛美がありますし、ローマの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙Ⅰは主にある感謝の言葉などが続きます。パウロはそのようにして、主にある兄弟たちとの分かち合いを大切にしています。しかし、このガラテヤの教会への手紙では、短い挨拶の後、パウロは先を急ぐように本論に入るのです。6節です、パウロは言います。「わたしはあきれ果てています。」パウロの偽らざる気持ちが示されています。怒りと落胆、そして驚き、さらには非難も含めたパウロの思いが込められているのを読み取ることができます。この手紙を書かずにはいられない思いが今日のこの箇所では繰り広げられているのです。
■「ほかの福音に乗り換える」
「キリストの恵みに招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、他の福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」前回もお話しいたしましたが、パウロがキリストの福音を告げた人々は、元々はユダヤ教徒でありました。律法を守ることで救いに与ることができると信じていた人々です。キリストの福音をよきおとずれとして受け入れた人々ではありましたが、パウロが去った後にやってきた教師たちの言葉によって簡単になびいてしまったのでありました。彼らの教えは、律法に従った行いや業が人々に救いをもたらすというものです。おそらくその教師たちもそれを、福音と呼んでいたのでありましょう。それを受けて「ほかの福音」という言葉をパウロは使っていますが、パウロはいうのです。福音は一つ、別の福音があるわけではない、と。それらの教師たちの教えを福音と呼ぶことをパウロは否定します。パウロからすれば、それは福音どころか、神からの離反であり、とうてい許し難いことなのです。パウロは「こんなにも早く離れて」と言っていますが、これはパウロがガラテヤの教会を最後に訪れてから、時が立っていないという意味にも取れますし、また、誤った教えに触れるや否や、という意味にも取れます。いずれにしても、瞬く間に彼らの信仰が崩れ去り、パウロが教えた真の教えとは別の教えに傾いていく様子が読み取れる言葉です。パウロは憤りを感じています。その気持ちを抑えることができないというパウロの激しさが今日の箇所に迸っております。そのような意味でこのガラテヤの教会への手紙はとても挑戦的な手紙です。しかし、これはパウロ自身の体面が汚され、その回復、挽回のために書かれたのではありません。また、敵対者、パウロがいうところの偽教師たちとの間で、信徒獲得競争のためにこの手紙を書いているのでもありません。パウロは真の福音とは何か、真の救いは何によってもたらされるのか、ただそのことを明らかにするためにこのような挑戦的な、戦いを手紙で挑んでいるのです。
■福音の真理
この手紙はこれが書かれた紀元50年ごろのガラテヤの教会の時代から現在に至るまで、キリスト者の「マグナ・カルタ」=自由の大憲章と言われています。つまりイギリスにおいて憲法の土台となったように、キリスト教界においての土台となるものであります。そしてまた宗教改革の始まり、ルターにとってこのガラテヤ書はなくてはならないものでありました。ルターの三大文書と言われるものの一つに「キリスト者の自由」がありますが、それはこのガラテヤ書をもとに書かれたものであると言えます。ルターの宗教改革、つまり、プロテスタントにおける教えは「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」であり、これ以外のものは不要ということです。わたしたちはイエス・キリストへの信仰によって、律法に束縛されず、自由になるのであり、それが救いであり、恵みである、パウロはそのことのみ、それ以外に救いはないのだということを強調するのです。そもそもパウロは律法に生きる者でありました。律法による自らの行いの積み重ねが救いに至ると思っていたのです。ユダヤ人として救いは律法を守ること、それを重ねること、そのことによって神から選ばれた民としての資格を満たす、そう思って生きてきたのです。しかし、それによっては、救いはない、自らの行いによって救いは得られない、それが主イエス・キリストとの出会いでありました。ですから、パウロは神の恵みをただ受けるだけ、それが救いなのであり、律法の束縛からは自由にされる、そのことを告げるのです。
■呪いの言葉
パウロは畳み掛けるように、強い言葉で迫ります。8節です。「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなた方に告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」この「呪われる」という言葉は、神から切り離され、見捨てられた者、という意味です。つまり、私がキリストから受けた福音とは別のもの、福音とは言えない似て非なるものを福音と称して説く者は神から見捨てられるがよい!神によって裁かれよ、神の怒りに打たれるがよい!という鬼気迫る表情で迫るパウロが文面からも読み取ることができます。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ16章21、22節、コリントの教会への手紙の最後にもこの強い言葉を使っています。それはこうです。「わたし、パウロが、自分の手で挨拶を記します。主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。」パウロにとって、キリストの福音、キリストの恵みがどれだけ大切なことであり、それ以外にはない、ということがここにも示されていると言えるでしょう。それゆえに、パウロは9節においても、同じように、呪われるがよい、と繰り返すのです。パウロは間違った福音を伝えることが、どれだけ恐ろしいことであるか、ということを言いたかったのです。聖書が告げる福音を、人間が自分の都合の良いように曲げること、それは神を恐れないことであり、神の怒りを買うことであるのです。
パウロはここで「天使であれ」と天使をも引き合いに出して言います。天使は神に造られたものであり、神のそばにあって、神の御業を務める者たちであります。その天使たちでさえも、福音を曲げることは許されない、たとえ天使であろうとも偽りの福音を伝えるならば、呪われる、神から切り離される。そのことをパウロは告げるために天使であれ、というのです。それほどに福音は正しく伝えられ、正しく知らなければならないものであるとパウロは言いたいのです。
■パウロの評判
パウロは人々からどのように思われていた人であったのでしょうか。前回もお話しいたしましたが、パウロは元々キリスト者たちを迫害していた者でありましたから、両方に、つまり、ファリサイ派からは裏切り者として、またキリスト者からはスパイなどではなく、本当にキリスト者となったのか、また、生ける主イエスの時代の弟子たちからは、共に使徒であるか、というような点においても一線を引かれていました。そのような中にあっても、パウロ自身は、ガラテヤ書1章1節にありましたように、「イエス・キリストとキリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」とキッパリというのです。それは人の権威によるのでもない、ただただ神によって使徒とされたのである。パウロはそう言い切っています。しかしながら、パウロはエルサレムの使徒たちとは違って、主イエスと共に過ごした経験もなく、使徒たちによる按手もなく、推薦状を持っていたわけでもないのです。いわば、彼自身が自分は使徒である、と自称していただけとも言えるわけですから、その立場の厳しさは計り知れないものがあります。パウロ自身がコリントの信徒への手紙Ⅰ15:9−10でこう言っています。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」「しかし、最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」と述べて、他の使徒たちと同様に、自分も使徒とされたということについて、一歩も譲歩しませんでした。
パウロを取り巻く環境がそのような厳しいものでありましたから、パウロの教えに従う必要はないという者もあったし、また、パウロの喜びはただ主に喜んでいただくことのみということを、ご機嫌取りだと揶揄する者もありました。また、旧約聖書の律法の厳しさを知らない異邦人を信者にするために、救いを受け入れやすいものにしているというような見方もあったのです。そのような人々の様々な中傷をパウロは全て知っていました。それゆえに、今日の御言葉の最後10節でこういうのです。「今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」パウロは自分への批判の言葉を引用してそのように言うのです。人に取り入ろうとする人間、人におもねろうとする人間が「呪われてしまえ」などというか、言うはずはなかろう。と言うパウロの真剣さがここにも示されているのです。
■結び
このような強い言い方をすることが敵対する人々の気に入らないであろうことをパウロはよくわかっていました。しかし、パウロは人を喜ばせるのではなく、神を喜ばせたいのです。パウロは信仰者として、キリストの僕として生きる、そのことだけを考えていました。キリストの御心のままに生きる、そのことが彼の誇りであり、福音を伝える使徒としての使命であると考えていたのです。この潔癖なまでのこだわり、融通の効かない男とまで言われたパウロですが、それは彼自身の性格云々ではなく、全てキリストの恵みを正しく、正しい福音を伝えるためであったのです。わたしたちも常に、「キリストの福音」とパウロがいう、その福音を、確認し、神の恵みの原点に立ち帰る必要があります。主イエス・キリストが何を成してくださったか、わたしたち罪ある者たちのため、その救いのために、十字架について死んでくださった、そしてその主イエス・キリストを神は甦らせてくださった。その十字架の死と復活、そのことに対して、わたしたちは足し算も、引き算も何もしてはならないのです。わたしたちは自分たちの信仰に自信がありません。ですから、キリストを信じるだけでは足りないのではないか、ダメなのではないか、他に何かをしなければ救いは与えられないのではないか、と考えます。しかし、そこからすでにパウロのいう別の福音の道へと踏み外しているのです。パウロの告げる福音はキリストの救いに、私たちの何かを足して膨らむのではなく、むしろ、わたしたちが何かを足すことでしぼむのです。パウロはキリストに込められた神の救いの御業は、0か100か、他の何かを混ぜたならば台無しになるのだと強調しているのです。それは現代のわたしたちに突きつけられていることでもありましょう。自分たちが何かをした、自分たちの行いによって恵みが増す、わたしたちは安易にそのように考えがちです。そしてまた、その逆に、自分たちが何かができないから、恵みを受けられないのではないか、そのように考えたりもいたします。傲慢と卑下、わたしたちはそのどちらにも傾きがちです。そのように考える方が楽だからです。しかし、パウロは言うのです。そうではない、全ての人に等しく恵みが注がれている、それに何かを混ぜることなく、ただそのまま受け取れ。それがキリストの望んでおられることであるのだと。それはキリスト者の生き方としては、厳しさを要求されていることでありましょう。しかし、わたしたちそれぞれがこのパウロの厳しさに向かい合うことで、この地にある教会が大切にしてきたこと、そしてわたしたち自身が大切にしなければならないことを突きつけられていると知るでしょう。これからこのガラテヤの信徒への手紙を読み進めてまいります。それぞれに、まことの教会、まことの信仰、それらを吟味して参りたいと思います。
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