『振り向けばそこに』2026年4月5日・復活日
- 4月6日
- 読了時間: 7分
説教題: 『振り向けばそこに』
聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書42章10-16節
聖書箇所: 新約聖書 ヨハネによる福音書20:1-18
説教日: 2026年4月5日・復活日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
主イエスが十字架におかかりになって死なれて、三日目に甦りをなさいました。今日はその復活をお祝いするイースターです。イースターは毎年、同じ日付というわけではありません。今年はちょうどこの2026年度の始まりの4月第1主日になりました。新しい学校、新しい年度、新しい会社、また特に大きな変化はなくとも、それぞれに一つの区切りの月として覚えていらっしゃる方は多いことでしょう。主イエスが甦りをなさったこと、それは新たな始まりです。今日は合同礼拝として、共に礼拝をお捧げし、この新たな始まりについての御言葉を聞き、共にお祝いしたいと思います。
■主イエスの死
主イエスは金曜日に十字架につけられました。この時、主イエスの十字架のそばには、主イエスの母、その姉妹、そしてマグダラのマリアがいました。主イエスが死を迎えられ、そして安息日になるまえに、主イエスの亡骸は十字架から下ろされて、主イエスの弟子たちによって香料が添えられ、そして亜麻布で包んで墓に納めました。このお墓というのは私たちが日本でよく見るお墓の形とは違います。岩を掘り抜いて作った、いわば洞穴のようなものです。そしてその中に遺体を収めて、入り口はおおきな岩で塞ぐというものです。ですからそれを開けるには、力のある男性が数人がかりで転がさないとならないものでした。そして安息日を迎えました。安息日は、神が天地を6日間で作られて、7日目に休息されたことに由来します。ですから、それは神の御業を覚えて、全ての労働を休んで神を礼拝する日です。主イエスの弟子たちが慌ただしく埋葬したのも安息日が近づいていたからです。主イエスの弟子たちも、マグダラのマリアも本当は死んでしまった主イエスのおそばにもっと一緒にいたかったのです。今まであんなにお慕いしていた先生である主イエスが、あんなにむごたらしい姿で、人々に嘲られながら亡くなってしまった。自分たちは見守るのが精一杯で、何もできなかった。悲しみと共にどうにもやるせない気持ちでいっぱいでした。せめて、その亡骸のそばで涙が枯れるまで、泣き尽くしたかった。でもそれも叶いませんでした。家の中で泣きながら、安息日が過ぎるのをじっと過ごすしかありませんでした。
■マグダラのマリアという人
「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」と今日の箇所20章1節にあります。そうです、やっと悲しみのうちに過ごした安息日が終わりました。マグダラのマリアは、本当なら主イエスの遺体にすがりつきたい、その亡骸に触れながら泣きたい、そう思っていました。けれども、主イエスはすでに墓に葬られていて、直接、そのお姿を見ることはできない、そのこともよくわかっていました。でも少しでも近くにいたい、そのような思いで朝早くに墓に行ったのです。このマグダラのマリアは主イエスにお仕えしていた女性です。主イエスはあちらこちらの町や村を巡って人々の病をいやし、そして神の国の福音を告げ知らせました。12人の弟子たちも一緒でした。ルカによる福音書の8章1節以下にそのことが記されています。そして続く2節3節にはこうあります。「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」「自分の持ち物を出し合って奉仕していた」ですから、彼女たちは、食料の調達をして、食事を作り、衣類の管理や洗濯、また宿泊の手配をしたり、というような主イエス一行の日常生活を支える働きをしていました。そして、マグダラのマリアは主イエスに悪霊を追い出していただいた女性でした。それも7つの悪霊とありますように、7という数字は完全数ですから、彼女を束縛していた悪霊全てを主イエスが追い出して、彼女を徹底的に自由にしました。マグダラのマリアはそれまで苦しみに満ちた人生を送っていたのです。主イエスに出会い、そして主イエスによって新しい人生をいただいたマリアにとって、そのまま主イエスに従い、主イエスにお仕えすることは極めて当たり前のことであったでしょう。マリアは心から主イエスにお慕いし、主イエスに仕える忠実な弟子の一人であったのです。
■弟子たちの姿
さて、そのような思いでいっぱいのマリアが墓に行ってみると、石が取り除けてありました。石というよりも大きな岩です。簡単にどけられるようなものではないのです。ですから誰がこんなことを!と驚きでいっぱいでした。慌てて弟子のところに走ります。そして告げました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」それを聞いたペトロともう一人の弟子も驚きました。そして走って墓に行くのです。そして中を覗いてみると、主イエスを葬るときに包んだ亜麻布が置いてありました。そこには主イエスの亡骸はありませんでした。主イエスはまだ生きておられたときに、弟子たちに3回も受難予告をなさっています。それは「殺されて、三日目に復活することになっている。」ということでした。しかし、今、目の前の出来事とその主イエスのお言葉は結びつきませんでした。主イエスが復活なさった!とは思えなかったのです。
彼らは主イエスが復活なさったということを期待したりするよりも、混乱と不安の中にいたのです。他の福音書に記されていますけれども、主イエスが捕えられたとき、弟子たちは一斉に逃げ去ってしまったのです。自分もユダヤ人当局に捕まってしまうのではないか、という思いもありました。ですから、主イエスの墓の前で待ち続けることもしませんでした。人の目につきたくなかったのです。
■マリアに
しかし、マグダラのマリアは違いました。そのまま墓にとどまるのです。そして泣き続けていました。すると、マリアに天使の声がかかりました、「婦人よ、なぜ泣いているのか」マリアは言います。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」そしてマリアは振り向きます。そこには復活なさった主イエスが立っておられました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」そのようにマリアに話しかけたその人は復活なさった主イエスでした。主イエスは、「私は復活してここにいる。私がここにいるのに、マリア、なぜ泣いているのか。」主イエスはそのように言われたのでした。しかし、マリアはそれが主イエスだとは分かりませんでした。園丁だと思ったのです。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」そう言ってまた泣き続けるのです。マリアは自分が慕い続け、深く愛し続けてきた私のイエスを探しています。マリアは「これまで」共に居られた主イエスを探しています。取り去られたその亡骸を自分が引き受け、そして丁寧に香油を塗ってきちんと葬るつもりであることを告げました。しかし、今、ここでマリアに語りかけてくださったのは、これまでの主イエスではなく、復活の主なのです。自分に語りかけてくださったのは、今、生きておられる主イエス・キリストです。それはマリアが探し求めていた「私のイエス」とは同じではないのです。
■結び
復活なさった主イエス、今、生きておられる主イエス・キリストは、「マリア」と呼びかけました。そしてマリアは振り向いた。生きておられる主イエスの呼びかけに振り向くと、そこに、目の前に主イエスがおられたのです。過去の「私のイエス」ではなく、今の主イエス。私たちは前を向いて歩いています。そして過去は自分の後ろにあると思っています。しかしながら、実はマリアと同じように過去を見て、つまり後ろをみて歩んでいることもあるのではないでしょうか。前を見て歩いているつもりでも、思いは、心は、過去にとらわれていることがあるのです。しかし、復活の主が未来の方向からマリアに呼びかけられて、マリアは今まで見ていた過去から、未来の方向に向き直った。過去に執着していたマリア、これまでの主イエスを探していたマリアが、振り向いたその時、過去の主イエスではなく、今の主イエスに出会ったのです。私たちも振り向かなくてはなりません。心の向きを変えましょう。見つめる方向を転換しましょう。主イエスとの時間は終了済みの過去にではなく、これから始まる信仰の歩みの中にあるのです。復活の信仰は、道の先を行き、そこで待っておられる主イエス・キリストに道の先でお会いしていく希望なのです。主イエスのご復活に心から感謝し、共に祈り、そして共に祝いましょう。
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