説教題: 『憎しみからの解放』
聖書箇所: 旧約聖書 レビ記24:17-22
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書5:38-42
説教日: 2024年11月3日・降誕前第8主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
「目には目を、歯には歯を」この言葉はどなたでも聞いたことがある言葉でありましょう。ただ、その意味は少々、誤解されて伝わっているようであります。本来、この言葉は、古代バビロニアのハンムラビ王が制定したハンムラビ法典に記されている条文です。ハンムラビ法典には「復讐法」というものがあり、やられた分と同等のものだけであればやり返しても良い、というものでありました。つまり、過剰な復讐を抑制するものであり、報復合戦になることを抑えるためでありました。一般的には、やられたらやり返せ、と言うような意味合いに使われることが多いのですが、復讐しても良いのではなく、過剰な復讐をしてはならない、と言うのが本来の意味であります。
■エスカレートする憎しみ
さて、旧約聖書においては先ほど読んでいただきましたレビ記24章に記載されています。ここに記されていますのも、同じ傷害を受けねばならない、であります。この律法の意図するところは、私的な恨みで復讐してはならないと言うことです。例えば誰かから何らかの損害を受けたとしましょう。それはたとえば物を壊されたとか、いうようなことに始まり、金銭的な損失、身体的な怪我や障害と様々あるでありましょう。その時に相手に対しては憎しみや怒りの感情が湧き起こります。その感情に基づいて、復讐、やり返す、と言うことをしていったら、際限なくエスカレートすると言うことを戒めるために同害同複ということが定められてきました。人間の感情としては、自分が受けた以上のことを経験させないと相手は反省、ないし、謝罪しないであろう、そしてそうしないと自分の気持ちがすまない、と言うのが自然な感情の動きなのです。交通事故、それも相手の過失により家族が死に至ったというような時、相手を死に至らしめないと納得がいかないというような思いを家族の方が語られるのを聞くことがあります。そのようなお気持ちになられるのは極めて普通であると思うのではないでしょうか。しかし、その感情に基づいて、やり返す、と言うことをしていったら、それは際限なくエスカレートすると言うことです。この言葉に従っていいませば、自分の片目をつぶされたら、相手の片目を潰すことは許されるが、両目はだめ、歯を折られたのが一本であれば、何本も折るというのはだめということです。人間の感情に従えば、倍にして返したくなる。時にそれは命を奪ってしまうということにもなりかねないのです。それを規制するために、法律が定められており、この「目には目を、歯には歯を」という掟は、裁判などの公的な判断によって損害の程度を決めて、それと同等の復讐にとどめなさい、それ以上はしてはならないということです。私的な復讐、憎しみの感情はどんどん膨れ上がっていきます。それを律法によって秩序を保とうとするものなのです。
■主イエスの三つの例-1
にもかかわらず、主イエスは「しかし、私は言っておく」とおっしゃって、今日の教えを語られました。「悪人に手向かうな。」この言葉に続けて三つの例を挙げてお話になられました。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、右だけでなく、左の頬も向けなさい。」これは主イエスの無抵抗の教えと言われたりしますが、この教えの真なる意味はそうではありません。片側の頬を打つのではなく、その反対側の頬をも打つということは、平手打ちした後に、手の甲で相手を払うように打つということです。この行為は相手に対する侮辱を表す行為です。したがってここで問題となっているのは、暴力的な行為のことではなくて、侮辱的な行為に対することです。左の頬をも向けなさいとは、相手があなたを侮辱するならば、さらに侮辱させなさいということなのです。先ほどの「目には目を、歯には歯を」においては、怒り、憎しみを同等に抑えて、過剰に取り戻そうとするな、ということでありましたが、ここで主イエスが言われているのは、一切、手向かうな、取り戻すのではなく、差し出せ、ということです。
■主イエスの三つの例-2
続く40節ではさらに難しいことが要求されます。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」この下着を取る、上着を取る、というのは借金の差し押さえの話です。出エジプト記22:25-26に「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」と記されています。つまり、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者」というのは、「あなた」にお金を貸している人が、取り立てに来て、お金を返せないのであれば、下着を借金の代わりに取っていくという前提です。借りているお金を返せず、その代わりに下着を取られる、それでも足りない場合、上着を持っていく、ということになるわけですが、そのことに関する掟が今お読みした出エジプト記です。パレスチナは日が照っている間は暑い地域でありますが、日が落ちて、夜の帳が下りると急に冷え込みます。貧しい人、つまり今で言ったら路上で生活しているような人をイメージしたらわかりますけれども、上着はなくてはならないものです。生きるための最低限必要なものとして、持っている権利がある、ということです。どんなに貧しく借金が返せない人であっても、夜を過ごすために上着は持つことが許され、それを取り上げてはならない、と掟で定められているのです。しかし、主イエスは「上着をも取らせよ」と言われました。貧しい人、弱い人に寄り添ってくださるのが主イエスであるはずなのに、ここではそのような人に厳しいと感じることが語られています。どのような意味があるのでしょうか。
■主イエスの三つの例-3
三つ目には「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」と言っておられます。一ミリオンというのは約1.5キロ、その距離を行くことを強いるなら、ということですから、当時で言いましたら、ローマの支配下にあって、軍隊が何かを運ぶというような時に、その権力を行使して、人に物を運ばせるというような状況が想定されます。その際、際限なくというわけには行きませんから、決められていた距離というのが一ミリオンであったようです。ですから、そのように、あそこまでこれを運ぶように、と指示されて労働を強いられたならば、その倍である二ミリオン運びなさい、と主イエスは言われたのです。ここでも普通であればちょっと理不尽に感じられるようなことを求めておられます。加えて、最後には求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはならない、拒んではならない、とダメ押しとでも言えるようなことを語られました。
■主イエスの見つめる世界
さて、今日の主イエスの教え、皆様はどう思われたでしょうか?主イエスが何を、何のためにこのように言われたのか、つながってきましたでしょうか?この箇所で主イエスは忍耐することや、我慢すること、耐えることを要求しておられるのでしょうか?最初に挙げました同害報復、目には目、歯には歯、それはその意味を正しく理解する限り、憎しみの感情に左右されることなく、同等の損害、苦しみを相手に返す、ということで決着を見る、という律法であり、客観的でもあり、争いや対立を解決するのにはフェアであるとも言えるでしょう。現在は受けた損害をお金に換算して、賠償金を払うという形で問題の解決を図るというものが通常の形でありますが、この考え方も同害報復の法思想から発展した形であると言えるのです。そのようなこの世においてある意味、理に適ったものとは異なる理解を主イエスは示しておられます。主イエスは私たちに何を教えておられるのでしょうか。
ここでこのマタイ福音書5章から主イエスが何をお教えになったのか、という基本に立ち帰りたいと思います。5章からは主イエスが山上の教えとして語られた、それは何について語られたのか、それは、神の国、マタイでは天の国、と表現されますけれども、神の国、天の国の実現のための教えです。ですから、今日の教えで主イエスが見つめておられる世界、それは神の国を見ておられるのです。それではこの現実に生きる私たちはどうしたら良いのか?ということになりますけれども、私たち、主イエスの救いに与って生きている者たちは、主イエスが来てくださり、救いが実現したということにおいては、「すでに神の国は来ている」のであり、そして、主イエスが再び来てくださる日を待ち望み、その時には神のご支配が完成するという意味においては、「いまだ」の世界を生きています。ですから、すでに主イエスが来てくださったことで新たな命に移され、神の国の相続人とされている私たちは、主イエスが語られる神の国、そこで実現される完全な平和な世界を、実はすでに知らされているのです。
■主イエスによる実現
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、右だけでなく、左の頬も向けなさい。」「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」主イエスが語られたこれらのこと、全てを実行されたのが主イエスでした。主イエスは神の国がこの世界において実現するために、その通りに実行されました。誰にも手向かうことなく、侮辱と苦しみを全て受け入れられました。最も弱い者として生きて、罪人として十字架において死刑とされる、そのような道を歩まれました。十字架上で自分を十字架につけた者たちのために祈られたのです。主イエスはそのようにして、復讐や憎しみの思いからの解放をご自身で示してくださったのです。復活して今生きておられる主イエスは、今、私たちの目の前にはおられませんけれども、私たちには今、聖霊が与えられ、私たちは聖霊の導きによって、主イエスを信じ、また、主イエスが再び来てくださることを信じ、そしてさらに神の国が実現することを信じるのです。「御国を来らせたまえ」私たちは日々、そのように祈っているではないですか。「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」それを願っているではないですか。
■結び
それゆえに私たちは、「そんなのはただの理想」と言い捨てるのではなく、主にある希望として祈り願い、待ち望み、この世において憎しみよりも愛することを、たとえ小さな歩みだとしても続けていくのではないでしょうか。私たち自身に沸き起こる感情や行動は主イエスが言われたこととかけ離れていたとしても、それをなしてくださったのが主イエスである、ということに思いが至る時、私たちの心は神の前に鎮まり、神に祈りを捧げて、主に従う者としての歩みを続けたいと思うのではないでしょうか。そして何よりもその歩みを支え、導いてくださっているのが主イエスであるのですから、それは私たちにとっては希望の歩みとなってゆくのであります。
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