説教題: 『愛のまなざし』 聖書箇所: マルコによる福音書 10章17~22節 説教日: 2023年4月16日・復活節第二主日 説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
「イエスが旅に出ようとされると」という言葉で今日の御言葉は始まっています。「旅に出ようとする」というと感覚的には旅行というような明るいイメージが思い浮かびますが、ここでは全く違うものであります。原文に忠実に訳しますと、「イエスが道に出ると」です。「道」、主イエスの歩まれる道、それはエルサレムへの道であると、数回前からお話してまいりました。このマルコ福音書8章のペトロの信仰告白から、第三幕に入っており、主イエスのご受難、十字架と死、そして復活へというクライマックスへ向かう、そのように進んでいく「道」であります。この10章はエルサレムへ入られる直前の、弟子たちへの最後の訓練の道のりです。「ある人」との出会いもまさにその道の途中で起こった事でありました。
■永遠の命のために
「ある人」は主イエスに走り寄って、そしてひざまずいて尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」彼は正しいものを求め、礼儀正しく、まじめな努力家であったのでありましょう。主イエスの前にひざまずいて主イエスに尋ねました。ここで彼は「永遠の命を『受け継ぐ』には」と言っています。ちょっと不思議な表現です。「永遠の命を得るには」とか、「永遠の命を手に入れるには」というような表現の方が自然な気がいたします。この「受け継ぐ」という言葉は遺産相続などの時に使われる言葉であります。つまり、自分がもらうと約束されているもの、という意味です。ですから、この人は、「善い先生、自分がもらえることになっている永遠の命をもらうには、何をしたらよいでしょうか?」と尋ねたのです。永遠の命とは何でしょうか。それはこの肉体が死なないということではありません。人間の命が尽きて終わりの時を迎えたとしても、肉体の死を超えた神さまによる恵みによる新しい命、それをいただく、そのためには自分は何をしたらよいか、と彼は問いました。
■神のみが
さて、ここで注目したいのは、彼は主イエスのことを「善い先生」と呼びかけたことです。ここで使われている「善い」はギリシア語ではアガソスという単語ですが、これは主イエスご自身が言われているように、他と比べることのできない神の善さについて使う単語です。このある人は主イエスに対して、敬意を払って用いたのでしょうが、主イエスはそれを否定、拒否されました。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりの他に、善い者はひとりもいない。」この人は子供の時から、律法に従い、律法を守って歩んできました。しかし、それでも救いの確証が得られませんでした。それ故に彼は主イエスに、「わたしは今までやってきたことの他に、何をすればよいでしょうか」という問いを携えてきたのです。この人にとって、主イエスは行うべきことを教えてくれる律法の先生でありました。救いを成し遂げて下さる救い主、神の子イエスではなかったのです。他の律法教師では満足できなかった答えを主イエスに律法の教師として求めているのです。この人の「善い先生」という呼びかけには、律法の教師としての主イエスの教えによって、神の救いを得ようとする姿勢が表されています。それゆえに主イエスはこの人の「善い先生」という言葉に目を留められ、それを否定されたのです。
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