説教題: 『惑わされずに歩む』
聖書箇所: マルコによる福音書 13章1~13節
説教日: 2023年7月30日・聖霊降臨節第十主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
さて、本日よりマルコによる福音書の13章に入ります。12章では主イエスは律法学者や他の人々と神殿の境内におられましたが、今日の13章の始まりにおいて、神殿の境内を出ていかれるとき、と記されております。今日の御言葉において、この「神殿」はとても意味を持っておりますから、エルサレム神殿についておさらいしておきたいと思います。エルサレムに神殿が最初に造られましたのは前960年、ソロモンがイスラエルの王の時でした。その後、イスラエルは北王国と南王国ユダに分裂。そして前722年には北王国はアッシリアによって陥落します。前586年にはバビロニア軍がユダ王国に侵攻し、エルサレム神殿は破壊され、人々はバビロンへ連れて行かれ捕囚の時代となります。そして、前539年にバビロンがペルシアに征服され、ペルシアのキュロス王によって、人々は帰還が許されることとなりました。帰還が許された民はゼルバベルの指揮のもと、神殿を再建しました。エズラ記にその詳細が記されています。神殿は前515年に完成しました。これが第二神殿と呼ばれているものです。そしてその後、ローマ帝国がエルサレムを征服、ユダヤの王となったヘロデ大王によって前20年から増改築されたのでありました。何十年もの歳月をかけてまことに壮麗な神殿が造られたのであります。今日の13章1節の弟子の言葉「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」彼らが見ていたのは、このヘロデ大王によって増改築された(正確には神殿の完成は紀元64年でありますから、主イエスと弟子たちが神殿を見ていた建築中の)神殿でありました。ヘロデ大王は自分の権力の誇示のために様々な建築土木工事を行いました。また、彼はユダヤ人ではなく、イドマヤ人であり、ユダヤのハスモン家から権力を奪ったということからもヘロデ大王に対するユダヤ人の反感は強いものがありました。それだけに、ユダヤ人の歓心を買うためにも、ヘロデ大王は神殿建築に力を入れていたのです。ギリシア、ローマ、エジプトから建築家が呼び寄せられ、巨大な大理石が積み上げられて作られているその神殿は、ヘロデ大王の名を永遠に残すだけでなく、神殿そのものが未来永劫続くと思わせるほどに、人々の目は奪われ、圧倒されていたのでした。
■偶像化された神殿
弟子たちもその壮麗な姿に息を呑み、そして感嘆の言葉を述べたのでありました。それに対して、主イエスは言われました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩れずに他の石の上に残ることはない。」この立派な神殿が徹底的に崩壊される時が来る、と主イエスは言われました。実際それは紀元70年、ユダヤ戦争において、ローマ帝国によってエルサレム、および神殿は徹底的に破壊されたのであります。主イエスは数十年後に起こることを予告されたわけですが、なぜ主イエスはそのように言われたのか。それは、神殿そのものの意味を主イエスが見つめておられたからです。それはすでに神殿から商人を追い出した、あの宮清めと呼ばれる出来事にも示されていました。その時に主イエスがエレミヤ書7章にある「聖なる神殿を強盗の巣にしてしまった」と言われたように、神殿の持つ問題性を見ておられたのです。神殿とはそもそもどのような意味を持つものでありましょうか。それは、祈りの家であり、神が民と出会ってくださる場、それはそこへ行けば礼拝ができる場であり、神の恵みを覚えるための場でありました。そこでの祈りによって、そこで礼拝を捧げることで、神が共にいてくださる恵みを受け取ることができる場でありました。しかし、神殿があることで、神がわたしたちと共にいてくださる、ましてやこれだけの立派な神殿なのだから、と、神殿の立派さを誇り、そこに安住するという神殿の偶像化が起こっていたのです。イスラエルの一般の民のみならず、「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物」と感嘆する弟子たちにもそのような思いがあることを見て取られ、それは崩れるものである、と言われたのです。
■小黙示録として
さて、このマルコ13章は小黙示録と言われています。黙示録というのは新約聖書の最後にヨハネの黙示録を見出すことができますが、この世の終末、最後の審判、再臨と神の国の到来、キリスト者の勝利などの預言的内容が象徴的に書かれたものです。13章3節の小見出しに「終末の徴」とありますように、主イエスが神殿崩壊の予告を聞いた弟子たち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人の弟子たちは主イエスにひそかに尋ねたのでありました。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」彼らは神殿の崩壊をこの世に起こる出来事として捉えております。それゆえに、それはいつ起こるのですか、この世の終わり、終末はいつ来ますか、何によって知ることができますか?と問うたわけです。主イエスの神殿崩壊の予告を、この世の終わりの予告として聞き、質問いたしました。こんなにもすばらしい立派な神殿が崩壊するなんて世の終わりだ、と考えていたのです。このことは私たちにも似た感覚があります。例えば、東日本大震災のような大きな地震、あの時の津波による大破壊、それらを目の当たりにした時、この世の終わりなのではないか・・・と思われた方があったと思います。また最近ではロシアによるウクライナ侵攻や、北朝鮮のミサイル、核兵器の存在、また地球温暖化の問題など、この世界が向かっている先に不安を覚えることがたくさんあります。東日本大震災の後は、それに伴い、東海地震、いわゆる南海トラフと言われている地震の可能性は?それはいつ起こるのか、ということが大きく取りざたされて、テレビでも長い間、特集番組ばかりしていたように思います。そのように、いつ起こるのか分からないから不安なのであり、それが現実となる時には、どんな徴があるのだろうか、と考え、問うた弟子たちは、まさに現代の私たちも同じであります。
■終わりの徴
さて、ここでそれを問うた弟子たちの名前をマルコはしっかりと記します。ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレであります。この4人はご存知の通り、マルコの1章におきまして、主イエスが最初に選ばれた二組の兄弟であります。主イエスはご自分の死を目前にしておられます。十二人の弟子を神の国の宣教のためにお選びになり、御自分の言葉が広がっていくことを願い、訓練してこられました。ここでこの4人がわざわざに記されておりますのは、最後まで、召された弟子たちを訓練するという主イエスのご意志の表れではないでしょうか。そしてこの4人に語り始められました。先ず言われたことは、「わたしの名を名乗る者が大勢現れるということです。「わたしがそれだ」、つまり、我こそは救い主なり、我こそがキリストなり、と自己宣言する者が現れるということです。「わたしがそれだ」という言葉は、ギリシア語でエゴー・エイミ、出エジプト記3章14節にあります「わたしはあるという者だ。」という神の啓示、神の自己宣言を表す表現です。神のみがそのように言えるのであり、みずからを救い主と宣言する者に惑わされてはならない、と言われました。そして次には、戦争やそのうわさ、それらに慌ててはならないとも言われました。それらは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない、と。そしてさらに、地震があり、飢饉がある。様々な混乱が起こる。しかし、それも世の終わりではなく、産みの苦しみの始まりである、と言われたのであります。何を産むのでありましょうか。それは救いへと至るための、救いを産み出すための苦しみなのです。ですから、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。」と言われました。他のことに目を奪われるなと、言われたのです。戦争、地震、飢饉、人間の世界や自然界の異変などが起こったとしても、それらに心を奪われることなく、自分のことに気をつけなさい、と言われました。これは、つまりは、主イエスの弟子であるということで、迫害が及ぶことになるのだ、という警告なのです。
■迫害の苦しみ
その迫害のことが9節後半から語られます。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。」主イエスの弟子として、主イエスを信じる信仰ゆえに、そのような迫害にあうのです。「しかし」と10節に続きます。「それよりもまず、福音があらゆる民に宣べ伝えられなければならない。」大切なのはこの言葉です。どのような状況にあろうとも、福音を宣べ伝える。テモテへの手紙Ⅱ4章2節にありますように、「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。」続く言葉にこうあります「だれも健全な教えを聞こうとしない時がきます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話のほうにそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励みなさい。」とパウロがテモテに書き送ったように、御言葉に立った歩みをするようにと言われているのです。
紀元64年頃、ローマのキリスト教徒たちは皇帝ネロによる迫害にあっておりました。彼らはキリストの名のゆえに憎まれたのであります。ローマに大火が起き、それがキリスト者たちによるものであると決めつけた時の権力者、暴君ネロによって、多くのキリスト者が殺されました。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は父に反抗して殺す。」マルコによる福音書はおおよそ紀元70年には完成していたと言われておりますから、まさにこの皇帝ネロによる迫害は生々しく体験した出来事であったのです。キリスト者は迫害が、「イエスの名のため」「イエスの名の故」であると信じ、希望を持って耐え忍んだのでありましょう。主の言葉は彼らへの励ましの言葉として語り伝えられたのであります。今日の御言葉の最後、13節には「最後まで耐え忍ぶものは救われる」とあります。この「最後まで耐え忍ぶ」とは、決して消極的な苦痛に満ちたものではなく、むしろ、希望に満ちたものであったのであります。この「耐え忍ぶ」と訳されている言葉は、もともとは「しっかり立つ」という意味です。「しっかり立ちなさい。最後までしっかり立ち続けなさい。」主はそう言われたのです。「最後まで」とは、命の終わりの時までであり、そして主が再び来られる時まで、であります。
■結び
このように「しっかり立ちなさい、立ち続けなさい」と聞きますと、自ら頑張らなくてはならないように思いますが、そうではありません。宗教改革者カルヴァンの教えに「聖徒の堅忍」という教えがあります。「聖徒」は聖なる共々、我々、「堅忍」は堅い忍耐、しっかり立つ、であります。信仰者が信仰において堅く立ち続けること、この堅く耐えて生きる我々をだれが支えるかということです。これは私たち自身が自分で立つ、自分で経ち続けるのではなく、神が耐えてくださり、神が担ってくださるから、私たちが立っていられるのだという教えであります。カルヴァンは言います。「何人も恵みの状態から全的にも最終的にも堕落することはあり得ない。」力強い断言が与えられております。私たち自身では、信仰に堅く立つことはできなくとも、聖霊が働いてくださり、主イエスを証していく者として立たせてくださるのであります。二千年前の迫害とは形を変えておりますけれども、私たちは常に何かに惑わされ、不安を覚え、キリスト者としての歩みはおぼつかないものであります。私たちの信仰を自分の力で守っていこうとしたならば、それは不可能でありましょう。ただ神が私たちを支え、私たちの信仰を最後まで全うさせてくださるのであります。神の御手に支えられて、信仰を戦いぬいていくのです。それが神の恵みであり、私たち信仰者の希望であります。そのことに心から感謝して祈りを捧げます。
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