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『恵みは等しく与えられる』 2024年3月10日

説教題: 『恵みは等しく与えられる』

聖書箇所: ガラテヤの信徒への手紙 3章6~14節

説教日: 2024年3月10日・受難節第4主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

■はじめに

今日の御言葉は、「『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた。』と言われている通りです。」と始まっています。これは旧約聖書創世記15章1節からの引用です。「恐るな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」神はアブラハムにこのように語られました。そして、そのように語りかけられたアブラハムは「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子孫もありませんから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」そのように答えます。再び、主の言葉。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」そう言われたアブラハムは「主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」創世記15章6節に記されています。今お話ししましたこの主の語りかけをアブラハムが信じた。今日の6節でパウロはこのアブラハム契約と呼ばれる箇所のことを引用して話を進めるわけです。アブラハムとサラの夫婦に子供が与えられ、そしてそれは空の星のようになる、と神は言われたのです。アブラハムとサラはすでに年老いていましたが、神のその約束を彼は信じました。神のその言葉を「信じた」、それを神はアブラハムの義と「認められた」と書かれていますが、アブラハムは神から立派だと認められるような行いを特にしたわけではありません。ただ、神を言われたことを「信じた」、それが義の根拠となっているということです。

 

■アブラハムへの祝福

今日の御言葉は前回の3章の始まり、1節に繋がっているものであります。パウロがここでアブラハムの信仰を取り上げるのは、パウロがこの手紙の始まりから主張している「救いは律法によるか、信仰によるか」というこの議論は、パウロが勝手に言っていることではなくて、旧約のイスラエルの歴史の始まりから続いているものであるということを明らかにするためです。「だから」信仰によって生きる人々はアブラハムの子である、とわきまえなさいとパウロは言います。アブラハムは決して正しい行いを積み上げることによってではなく、信仰によって義とされました。先ほどの創世記15章より少し前の12章にアブラムの召命と言われるところがあります。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。』・・・アブラムは主の言葉に従って旅立った。」準備万端というわけではなく、何の見通しもないまま、アブラハムは主の言葉に従って、どこへ行くのかも知らないまま、旅立ちました。何一つ確約されたことはありませんでした。それでもアブラハムは主の言葉だけを拠り所として旅立ったのです。それは「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」という言葉でありました。この約束だけがアブラハムの支えであったのです。パウロのいう「アブラハムの子」とは、このように神のみにより頼む生き方をする人のことを指しています。しかしながら、旧約聖書、ユダヤ教の歴史においては、このアブラハムが義とされたこと、これが神の言うことに従った行いによる、と言うように理解されてきました。それゆえに、義とされる、救われる、と言うことが正しい行いに基づくとされてきたのです。確かに、アブラハムは無条件に従って、旅立つと言う行いをしました。その後も、愛する一人息子のイサクを捧げるように命じられた時、断腸の思いでその命令に従い、息子イサクをモリヤの山へ連れて行き捧げようとしました。そのような「行い」によって救われるという考えはこのようなアブラハムの行為によって、と理解されて、そのような正しい行いが代々受け継がれていったのです。しかし、アブラハムの行為は神への信頼によって裏付けられているものであり、大切なのは目に見える行いではなく、目には見えない神への信頼であるのです。

 

◾️ 民族宗教から世界宗教へ

パウロは続けます。8節、「聖書は神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。」これはこのアブラハムの召命、創世記12章3節の言葉によります。そこにはこのようにあります。「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」氏族と訳されている言葉は

英語で言うところのファミリー、つまり家族、また部族とかいう言葉です。パウロはこの言葉をあえて異邦人と訳します。ここでパウロが言おうとしていることは、神の救いは民族単位の計画ではなく、世界規模の計画であるということです。パウロは神へ信頼して生きる者への救いはユダヤ人に限らず、異邦人全体へ及んでいくと言うのです。ユダヤ人は神から選ばれた民であり、その救いの証明は割礼を受けるという行為によって約束される、これが旧約ユダヤ教の基本的な考え方でありました。しかし、パウロは、救いはただ主イエスを救い主と信じることのみである。アブラハムが神を信じて救われたように、全世界の民も同じように、神を信じることによって救われるのだと主張しているのです。パウロは同様のことをローマの信徒への手紙3章21節でも告げています。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者とによって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」続く29節以下、「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。」ロマ書4章23節、「「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」にもこのように記されています。パウロはこのようにユダヤ教の民族宗教から、キリスト教の世界宗教へと、救いが全世界に及ぶものであると言うことを語るのです。パウロの視野の広さは驚くべきものであります。ガチガチのユダヤ教の教師であったサウロ、律法を守ることで救いが得られると信じ、実行していたサウロ、救いのためには律法は不可欠であると思っていたサウロが、律法は救いの絶対条件ではない、律法を積み重ねが救いに至るのではなく、ただ主イエスを救い主と信じることによって救われるのである、と全くの方向転換したのであります。ですから、パウロは第一コリント11章3節において、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と言います。自分自身のこのような生まれ変わり聖霊の働き、聖霊の賜物でなくて何であろうか、と言うのです。

 

■恵みの等しさ

さて、しかしながら、私たちもなかなかこのことを頭では理解できても体得理解できない生き物のようです。私たちも行為主義とでも言いましょうか、ガラテヤの人々と同じように、良き行いによって救いが得られると考えがちです。

そのことを別の視点から考えてみたいと思います。皆さんもよくご存知の譬えをお話しいたしましょう。マタイによる福音書20章に「ぶどう園の労働者のたとえ」があります。ぶどう園の主人は自分のぶどう園で働く人を探しに出かけます。夜明けに何人か雇い入れました。1日1デナリオンの約束です。そして9時ごろ、12時ごろ、午後の3時、そして夕方の5時にも、労働者を見つけて自分のぶどう園で働かせました。そして夕方、日が落ちて主人は監督に労働者を集めて賃金を払うように言います。最後に来た者から順に呼ばれて、彼らは1デナリオン貰いました。先に来て長く働いていた人たちはその様子を見ていました。最後に来て少ししか働かない人たちが1デナリオンもらったのですから、もっと長く働いている自分はいくらもらえるだろうか。2デナリオンだろうか、いやいや、半日の人あたりが2デナリオンとして、朝から晩まで働いた自分は4デナリオンかな、もしかしたらボーナスが加わって5デナリオンぐらいもらえるかもしれない、などと考えていた人もいたかもしれません。しかし、結果は全員1デナリオン。「そのように約束したではないか、私は最後の者にも同じようにしたいのだ。」と主人は言いました。この主人は言うまでもなく神様であり、神は誰にでも平等になさる、神の恵みは等しく与えられると、これがこの譬えが語られるときに言われることであります。その話を聞いた時は納得はするものの、やはりどうにも不公平だと感じる方は多いのではないでしょうか。長く働いた自分が損をしたような気持ちになるからです。頑張ったのになぁ、と思うからです。これが私たちの陥る律法主義的な、行いによる救いの考え方なのです。この賃金は恵みです、救いであります。それでは働いた時間によって、救いの度合いが変わるとしたらどうでしょうか。あの人は夕方から来て1時間しか働いていないから、救いレベル1。この人は昼から来て半日働いたから救いレベル3。そしてあの人は早朝から丸々1日働いたから救いレベル5。さて、こう聞くとどうでしょうか。私は?半日しか働かなかったから、救いレベル3になるのか・・・では、次回はもっと早くから働かないといけないのか・・・それよりもできれば皆、救いのレベルは同じにしていただきたい、そう思うのではないでしょうか。こう考えてみると神の恵みの平等さ、行いによらない一方的な恵みとして与えられる救いのことが分かるのではないでしょうか。パウロがここで言おうとしているのはそう言うことです。救いの等しさ、それは行いによらない、と言うことです。

 

■祝福と呪い

さて10節から、パウロはさらに進めて「呪い」と言う強い言葉を口にいたします。本来、律法は人間に正しい生き方を示すものでありました。しかし、人間は、その本質を理解せず、抜け道はないか、と考えるようになり、神を愛し、人を愛すると言う本来の目的が損なわれた、いわゆる律法主義が生まれたのでした。そのような生き方は律法に縛られた生き方であり、律法の支配下にある生き方であります。パウロはそのことを律法の呪縛、律法の呪い、と言うのです。そしてそのような律法からの呪いを解き放ってくださったのが、主イエス・キリストでありました。主イエスは十字架にお架かりになってくださいました。13節、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。」この言葉は申命記21章23節からの引用です。本来は処刑された人がさらし者として木に吊るされるという呪いの儀式でありました。この呪いは神の怒りの現れであり、罪に対する神の義が示されるためのものであります。神は正しい方であられますから、罪をそのままにはなさいません。その清算のために、神は愛する御子である主イエスを十字架へと送られました。それはひとえにわたしたち人間を、わたしたち罪人を愛するが故です。わたしたちを赦し、神の子として歩ませたいという思いを叶えるためには、身代わりが必要でありました。その重責を担えるのは、単なる動物ではなく、ただ一人の罪のないお方、主イエス・キリストをおいて他になかったのです。神は十字架上でご自身と戦われました。祝福と呪い、救いと律法、恵みと律法、それらが十字架上で対立し、そして主イエスによって律法は完全に全うされ、罪が清算され、神の怒りは赦しへと変わりました。救い、恵みだけがわたしたちへ与えられ続けているのです。

 

■結び

今日の最後の15節でパウロは今一度、アブラハムに与えられた祝福が異邦人へと及ぶ、と言います。その救いの方法は、とこしえに変わることなく、ガラテヤの異邦人も、そして今のわたしたちも同じように信仰によって義とされる、と繰り返しているのです。救いはただ恵みとしてわたしたちに与えられ続けている。それは神の怒りの呪いを主イエスがお引き受けくださったからであり、そしてその恵みは律法を超える、律法の呪いから解放してくださるものでありました。わたしたちは安心して神の愛のうちを歩む者とされているのです。恵みをいただく喜びに満たされつつ、主に委ねるという信仰の歩みを送って参りたいと願うのであります。

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