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『恵みに何も付け加えず』 2024年3月3日

説教題: 『恵みに何も付け加えず』

聖書箇所: ガラテヤの信徒への手紙 3章1~5節

説教日: 2024年3月3日・受難節第3主日

説教: 大石 茉莉 伝道師


■はじめに

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」今日の御言葉はこのようなパウロの厳しい言葉で始まっています。「物分かりの悪い」と訳されている言葉は、「愚かな」と訳すのが一番適した言葉です。新しい聖書協会共同訳でも「ああ、愚かなガラテヤの人たち」と訳されています。2章までは、自分の経験や出来事などを語る文章でありましたが、この3章からは直接にガラテヤの人々に訴えかけます。1章の11節では、兄弟たち、と呼びかけているにも関わらず、ここでは、「ガラテヤの人たち」、もっとストレートに原文を訳しますと「ああ、愚かなガラテヤ人」であります。物分かりの悪いガラテヤの人たち、だけでも十分に激しく、そして相手に対して侮辱とも取れる言葉でありますが、愚かなガラテヤ人とまで言われてしまいますと、これはかなり激しく強い言葉であるとわかります。3節にも「あなたがたは、それほど物分かりが悪く」と同様の表現が繰り返されます。しかし、これは相手に対する侮辱ではありません。ここで問われているのは福音、信仰の問題です。何かを理解する力が足りない愚かさではなく、誤った福音へと靡いてしまっていることの愚かさを突きつけているのであり、そしてパウロの深い嘆きの言葉でもあるのです。

 

■「惑わされた人々」

1章から問題として挙げられていますように、ガラテヤの教会の問題は、救いのためには信仰だけではなく、やはり律法の行いも必要なのではないか、と考えるようになってしまったということでありました。ここで言われている律法の行いとは、割礼の問題でありました。何度も繰り返してお話ししていますが、ある人々がガラテヤの教会の人々に対し、異邦人としては救いのためには、やはり割礼も受けるべきではないか、つまりユダヤ人にとって救いの保証である割礼を受けるという律法の行いが必要である、と主張しているということです。ガラテヤの人々はその言葉に「惑わされています」。1章の7節にも「ある人々があなたがたを惑わし」と訳されていますが、この言葉は、混乱させる、と言う意味の言葉です。しかし、この3章1節の「だれがあなたがたを惑わしたのか」の「惑わした」は「魔法にかけられた」とか、「魅了された」「虜になった」と言う意味の言葉です。つまり、混乱に陥った挙句に、その誤った教え、誤った信仰に魅了されて、虜になった、まるで魔法にかけられたかのように、そちらに誘われ、靡いていってしまった、とパウロはそのことを憂慮しているのです。決して実際に魔法を使ったわけではありませんが、まさに魔法にかかったかのようにガラテヤの人々は惹きつけられていったのです。それはなぜでありましょうか。割礼という行いは律法に適うものであり、目に見える行為です。目に見える行為によって救いという確証が得られるのであれば安心するのです。一方、主イエス・キリストを信じること、これは目にみえるものではありません。これは今の私たちにも当てはまることです。私が神を信じていることをどうやって証明できるでしょうか。どうやって人に示すことができるでしょうか。神と自分との関係性の問題なのです。私たちには割礼そのものがピンときませんが、ユダヤ人にとって救いの証明書が割礼、律法に忠実であることの証明が割礼なのです。何の証明書もないよりは、証明書があったほうが安心と考える気持ちが生じるのは私たちも一緒ではないでしょうか。

 

◾️ 「十字架につけられたイエス・キリスト」

パウロはガラテヤの人々に、イエス・キリストが十字架につけられた姿で目の前にはっきり示されたではないか、と言います。実際、ガラテヤの人々は主イエスがゴルゴダの丘で十字架にかけられたお姿を直接に見ているわけではありませんから、これは罪の赦しを示す象徴的な表現です。私たち人間は神の子であられる主イエスが十字架にかかってくださったことによって、罪の赦しを得ました。私たち人間の罪は、主イエスの十字架で清算してくださった、それが神の無条件な赦しであります。しかし、ガラテヤで起こっている割礼の問題はこの無条件な赦し、神の恵みを条件付きにしようとするものであります。神のこの無条件な赦しに疑いを持ったということです。神の赦しを不完全なものと考えたということになります。神の恵みは無条件であるにも関わらず、彼らがしたことはこの恵みに何かを付け加えようとしたということになります。

 

■原点を問う

パウロはそのように惑わされてしまったガラテヤの人たちに原点に帰れ、ということを言うために、このように言います。「あなたがたに一つだけ確かめたい。」このことを確かめれば、救われた時のことに立ち戻り、そして今、あなたがたが辿ろうとしている道が誤っていることがわかるはずである、パウロはそのように言っているのです。さて、その確かめたい内容、それは「あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも福音を聞いて信じたからですか。」この一つの質問であります。「霊を受けた」少し難しい言い方に聞こえるかもしれません。「霊を受ける」このことがどのようなことであるかを示しているのが使徒言行録2章37節以下に示されていることであると言えましょう。ペトロの説教を聞いて人々は大いに心を打たれ、私たちはどうしたら良いですか、と問うた時、ペトロは彼らに言いました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を許していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。」こうして多くの人々が洗礼を受けた、と使徒言行録は記しています。洗礼において、私たちは聖霊を受けます。逆の言い方をすることもできます。聖霊によって私たちは洗礼に導かれました。そのぐらい洗礼と聖霊は一つのことなのです。洗礼によって聖霊を受け、私たちは罪と死の支配から解放されて、神の恵みの支配へと移されました。そのように神の恵みのうちに生きるものとされているのは聖霊の働きによってであります。一体、どのようにしてこの聖霊の働きを受けることができたのか、それは律法を守ったから与えられたのか、それともキリストの福音を信じたから与えられたのか。どちらなのか。これがパウロがいう「一つだけ確かめたい」質問であります。このことをもっと端的に表現しますとこうなります。「律法をやり抜くこと」か「福音を聞いて信じたこと」か、であります。

この律法と福音の対比をもう少し続けましょう。律法とは、守るものです。律法は「〜してはならない。つまり、殺してはならない、姦淫してはならない、などの命令の掟がその中核をなしています。それを守って初めて律法は意味をなします。律法は信じるとか、聞いて喜ぶ、というようなものではありません。一方、キリストの福音は聞いて喜ぶものです。キリストの福音はただ受け取るだけ、信じるだけであって、律法のように、だから頑張る、やり抜く、というようなものではありません。つまりパウロはこういうのです。霊をいただくという恵みは何かを達成できた人、頑張った人に対して与えられたものか?それともできる・できないに関係なく、ただ聞いて信じて受けた者に与えられたものか?その原点に立ち返るならば、割礼を受けるということに惑わされている今のあなた方の行動がいかに愚かなものであるかわかるであろう、と言っているのです。

 

■「霊による始まり・肉による仕上げ」

パウロは3節で、物分かりが悪く、と再び繰り返し、そして“霊”によって始めたのに、“肉”によって仕上げるのか、と言います。主イエス・キリストの救いを信じて生きる者は神の霊に生かされ、神の御心を尋ね求める存在です。神の霊によって、喜びを持って仕える、喜びを持って生きる。日本基督教団信仰告白の中に、「聖霊は我らをきよめ、義の実を結ばしめ」という一節がありますが、まさに聖霊により、きよめられた私たちは、聖霊によって力をいただき、喜びを持って生きる生き方へと変えられる、これが聖霊の賜物であり、救いによって与えられる果実なのです。自分が神によって赦されている存在であるということはこの上ない安心をその人に与えます。そして、神に愛されているこの私が神を愛するためにはどうしたら良いだろうか、というように人を前に向かせるのです。神が一方的にこの私を変わることなく愛し、そして救いを与えてくださっている、その感謝に溢れる時、自分に与えられた賜物を用いて主にお返ししていくことができるだろうか、と考える。そのような生き方が霊によって生きる生き方であります。そのような生き方を始めたはずのガラテヤの人々に対して、パウロの肉による仕上げという言葉は痛烈な皮肉を込めたものなのです。

あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。とパウロは続けます。あれほどの体験というのは、神の一方的な恵みによって救いを与えていただいたこと、そして聖霊が与えられ、霊に導かれて歩む生き方へと方向転換したことです。

パウロは2節の問いを5節でも繰り返します。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも福音を信じたからですか。この問いを、5節では、あなたがたに霊を授け、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。

パウロはここでも疑問文の形を取って、自分の主張を明らかにいたします。質問に対する回答ははっきりとわかっていましたが、あえて何度も何度も言い含めるかのように繰り返します。そうすることによって、ガラテヤの人々に何が問題とされているのかを自覚させて、信仰者としての生き方を改めて問いただすことが目的でありました。信仰はただ神から与えられるものを受け取るという受動的なものでありますが、その上で、それにどのように応答するか、という人間の応答責任があるのです。ガラテヤの人々は受け取ったものに対して、どのような責任ある関わり方をしているか、そのことをパウロはこの質問の形で問いかけているのです。そして神によって与えられた霊に導かれて生きる生き方、そうして与えられた喜びを捨ててはならない、とパウロは切実に訴えているのです。4節の後半に、「無駄であったはずはないでしょうに・・・」と点々でパウロの言葉が終わっていますが、この言葉が途切れているところに、パウロの深いため息、涙を飲み込むかのような思い、言葉に詰まるほどの込み上げてくる思いがあったのだと思うのです。今日の始まりでは愚かなガラテヤ人!と怒りを爆発させるほどのパウロの気持ちが表現されていますが、それは恵みのうちにとどまってほしいというパウロの強い願いが込められていたゆえであったのです。

 

■結び

「十字架につけられたキリスト」この言葉を突きつけられると胸が痛みませんか。神と一対一になることは、大いなる安心であり、大いなる喜びでもありますが、同時にそれはキリストの十字架が介在しているのであり、その時、私たちの罪の姿があらわになります。それゆえにこのキリストの十字架、そこにスポットを当てるとき、私たちはどうしても痛みを伴います。しかし、それは表裏一体なのです。十字架にかかられた主イエス・キリストゆえに、神の大いなる恵みがある。これが私たちの姿であり、主イエスが言われたように、「誰でも私に従いたい者は自分の十字架を負って」ということであるからです。これが神への応答責任です。その痛みがあるがゆえに、神へ向かう気持ちはさらに増し加えられ、そして喜んで神に仕える者として生きていきたいと思うのです。私たちの生の原点は「キリストの十字架」であります。私たちが神に正しく向くために、神の恵みを受け取るために、それはキリストの十字架を通してしか、ないのです。そのことのために主イエスは人としてこの世に来てくださり、そして十字架にお架かりになってくださったのであります。神と私たちとを繋ぐ「主イエス・キリストの十字架」私たちに痛みを覚えさせながらも、大いなる喜びへと導くそのお姿を私たちは、ただ救い主であることを信じる。それが恵みに何かを足そうと考えることなく、神の絶対性を信じるということであります。ただただ素直に神からの恵みを受け、それに応答して終わりの日まで主に仕える者でありたいと願います。

 

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