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『心の清め・心の汚れ』 2022年11月20日

説教題: 『心の清め・心の汚れ』  聖書箇所: マルコによる福音書 7章14~23節 説教日: 2022年11月20日・降誕前第五主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

今日与えられております御言葉は、7章14節から23節です。今日の御言葉の主題となるのは、15節に記されている主イエスのお言葉です。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものはなにもなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」このお言葉が今日の中心となる御言葉です。

前回、共に読みましたこの7章前半には、ファリサイ派と律法学者が主イエスの弟子たちの幾人かが食事の前に手を洗っていないということを汚れとしてとがめたことが記されておりました。律法学者たちは自分を清く保つために、多くの規則を作り、それを厳格に守る生活を送っていました。その規則を守らなければ、汚れてしまうと考えていたのです。前回の箇所で、主イエスの弟子たちが手を洗わないで、食事をした者がいた。このことは彼らの論理で言えば、洗わないということは手が汚れている。汚れた手でつかんだ食べ物は、汚れてしまう。それが人の中に入れば、その人は汚されてしまう、ということになります。今日の御言葉はその続きであります。

先週もお話しましたように、これは衛生上の問題ではなく、宗教上の汚れの問題です。律法には、汚れについての規定があります。レビ記11章以下に記されています。食べ物について、出産について、皮膚病について、と細かく記されております。そのはじめに食べ物のことが規定されています。食べ物について、そしてまたほかのことも、清いか汚れているかというこの規定は、衛生的に問題がないかということではなくて、神の救いに与れるかどうか、ということなのです。


■主イエスの教え

さて14節にあるように、主イエスは再び、群衆を呼び寄せて先ほどのお言葉を言われました。6章の最後と繋がっていると考えるのが妥当でしょうか。そこはゲネサレトという地で、主イエスに触れたいと願う人々がたくさんいたのでした。癒し主としての主イエスを求める人々に対して、主イエスはここでも「教え」をお話になったのです。14節に「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。」とありますから、これは譬えであります。人々に諭し、そして弟子たちにもよく理解するように求めておられるのです。4章では「種」の譬えがいくつか主イエスによって語られていました。そしてそれらの多くの譬えのあと、弟子たちには密かにすべてを説明されておられました。

今回も、弟子たちは主イエスの説明なしには理解できなかったようです。群衆と分かれて主イエスが家に入られると、弟子たちはさっそくこの譬えについて主イエスに尋ねました。主イエスは言われます「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。」マルコは主イエスを理解しない弟子たち、最後まで主イエスとは、ということがわからなかった弟子たちを描き続けています。ここにも弟子たちの無理解ということが示されているのです。


■革命的宣言

そうして問うてくる弟子たちに向かって主イエスは言われました。「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうしてすべての食べ物は清められる。」主イエスは「すべての食べ物は清い」のだ、と宣言されました。先ほども申しましたように、レビ記11章以下にはどのような食べ物が清くて、どのような食べ物が汚れているか、詳細な区分けが記載されております。そしてそれに続いて、人が汚れた場合、どうやって清めるかという手続きも規定されています。これは祭儀規定と呼ばれるものです。人々は、これは清いか、汚れているか、という基準で食べ物を見て、判断していました。では、元々、どうしてこの清い・汚れという考え方が人々の生活を規定していたのか、と言いますと、それは主なる神こそ、聖なる清い唯一の神であることを、この世の中で、生活の中で意識させ、そしてその神に属する者であることを証明するものであったのです。

しかし、以前に出てきました徴税人や罪人は、そのような食物規定を守っていませんでした。守っていなかったというよりは気にしていなかったと言ったらよいでしょうか。現代でもイスラム圏の人々は豚肉を食べませんが、私たちは気にせずに食べる、そのことは、厳格なイスラム教徒から見たら、豚肉を食べる私たちは、「汚れ」に属する者たちになるという論理です。現代では一般的なイスラム教徒の人々は、私たちと同じ食卓について、「汚れる」とは考えず、ただ違いを認め合うということでしょうが、二千年前のかの地においては、この「汚れ」の概念は深く人々に浸透していましたから、認めることは到底できないことでありました。しかし、主イエスはそのような徴税人や罪人と食事を共にされました。レビ人を神の国に招くため、罪人を招くため、です。主イエスは福音を宣べ伝えるためには、そのような食物規定を変更することもいとわず、むしろたいしたことではない、と考えておられました。しかし、当時のユダヤ人にとっては、それは革命的宣言と言えるでしょう。

律法では、清い食べ物と、汚れた食べ物が定められていますが、その食べ物自体が人を汚すのではない、ということです。どんな食べ物を食べたとしても、人の体の中に入り、消化して、やがて排泄される、体から出て来る。口から入った食べ物は、人の心の中にはいるのではない、単に体の中に入って体から出て来る、だけのことである、と主イエスは言われました。

使徒言行録10章にこのような場面が出てきます。9節以下です。ペトロが空腹を覚えたとき、天から大きな布のような入れ物が吊るされて降りてきます。中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。天の声は言います「ペトロよ、屠って食べなさい。」しかしペトロは言います「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことはありません。」するとまた、天の声「神が清めたものを、清くないなどとあなたは言ってはならない。」ペトロも当然ながら、律法に忠実であったのです。しかし、神はなんでもおできになる御方です。ですから食べ物はすべて清めることができる。ですから、主イエスは本来、人を汚すことのない食べ物を、自らの掟によって人間を汚すものと決めつけて、それを避けることで自分は清いと思っている人々の勘違いを指摘しておられるのです。そしてここで主イエスが言っておられるのは、外からの食べ物で、汚れることはない、それらは皆神によって清くされているのだ、ということだけではなくて、人は皆、汚れているのだ、ということを明らかにしておられるのです。何かが入ってきて初めて汚れるのではない、存在そのものが汚れているではないか、と言われているのです。


■汚れは人の中から

主イエスが言われているのは「人の汚れ」です。人間そのものの、私たち一人一人の、汚れです。あなたを汚すのは誰か。何によって汚されているのか。それはあなたの心があなた自身を汚しているではないか。主イエスは言われるのです。「人の中から出て来るものこそ人を汚す。」人の中から出て来るもの、それはもちろん、体から出る排せつ物のことではありません。主イエスのいわれる「人を汚すもの」それが21節以下に書かれています。人間の中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来る。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別。これらの悪が皆、人間の心から生まれ出て、そして人を汚す、と主イエスは言われるのです。パウロもいくつかの手紙の中で悪徳表と言われるものを挙げています。ローマの信徒への手紙1:29では、こう言っています。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無常、無慈悲です。」これらを人間の罪として列挙しているのです。多くの共通した言葉が並んだわけですが、「ねたみ」という言葉が両方にあります。これはもとの言葉では「悪い目」という意味です。悪い思いで人を見る、ということです。人間の目つきが悪くなる。目付きが悪いのは、外見の問題ではなく、心の目のことです。心の目が濁る。心の目が濁り、目つきが悪くなると、人は自分と人とを見比べて、自分の方が相手よりも上だと安心し、自分が下だと思うと妬みのまなざしで相手を見る。例えば誰がお金持ちと結婚した、子どもが良い学校に入った、そのような時、心から祝福できない。心のどこかに妬みの心が混ざるのです。そしてこの「ねたみ」は「傲慢」と表裏一体であります。人と自分を見比べて自分の方が上だと思うことが傲慢です。いずれも、悪い目から生じるものなのです。そしてその悪い目からは、悪意や悪口も生まれてきます。さらには殺意までもを生むこともあるのです。私たち人間関係の中で起こる多くの問題は、このような悪い目から起こってくるものなのです。

そして、もう一つ、注目しておきたい言葉があります。それは、最後に挙げられている「無分別」という言葉です。「無分別」とは愚かであること、という意味でありますが、理性的にしっかり考えることができないこと、という意味でもあります。さて、この「理性的」の理性はわたしたち人間の理性ではありません。私たちが立てる理論、私たちが持つ道理、それらもまた、私たちの中に持つものですから、汚れたものであるといえるのです。私たちは自分の感情に合う道理を作ります。時に決して客観的でなく、理論的でもなく、自分の道理を正しいものとして考え、それを主張して、人を批判するのです。それは誰でもが認めるところでありましょう。そのことがまさに私たちの汚れであるといえるでしょう。


■心の吟味

さて、そのように、人間だれしも自らの中に汚れを持っており、悪い目によって心が濁るのです。自分の中から出て来るものが汚れであるならば、その汚れをどうやって取り除いたらよいのでしょうか。

詩編32編にはこのような言葉が記されています。

1節、2節です。

いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。

いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。


自分自身を欺くことなく、主が私を見たとしても、なんら汚れのない人は何と幸いなことでしょう、と詠い手は言います。そして続けます。


5節です。

わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。

わたしは言いました

「主にわたしの罪を告白しよう」と。

そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。


主に対して真実は人は自らの心を吟味した時、主に対して偽りがあることを許せず、自らではその汚れを清めることはできず、ただただ主に対して自らの罪を告白することしかできないのです。そしてその時、主は赦してくださる、と詠い手は言うのです。自らの汚れは外から来る、ただ主によってのみ与えられる、と知っているのです。


そうして詠い手は主を讃えます。10節です。

神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。

主に従う人よ、主によって喜び踊れ。

すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。


ただ主によって、生かされる。汚れはただ主によってのみ清められる。

詩編の詠い手は自らの汚れを認め、そしてそれはただ主によって清められるのだと、主へ委ねる主への信頼を強く語っています。


■結び

罪深い私たちは主イエスによって救われてもなお、神を忘れ、自分を中心に置き、罪を繰り返します。私たちの持つ「悪い目」は決してなくなることはありません。しかし、私たちは、私たちの心の中に汚れがあることを認め、神に立ち帰り、そして神様を心の中心に置くようにと繰り返し語りかけられます。主イエスの十字架と復活によって、既に清くされたことを思い起こし、何度も何度でも、神に新しくされて歩むことが許されています。私たちに与えられているキリストの福音による清さ、この方が外から来て下さった。そこに私たちを真に清めるものがあります。この方の御言葉を聞き、外から来る真の救いに生かされて歩む者でありたいと思います。

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