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『心に記された律法』 2024年5月26日

説教題: 『心に記された律法』

聖書箇所: 旧約聖書 エレミヤ書31:31−34

聖書箇所: 新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙5:2−15

説教日: 2024年5月26日・聖霊降臨節第2主日

説教:大石 茉莉 伝道師

 

はじめに

今日の箇所でパウロは再び、ガラテヤの人たち、つまり、誤った教えに惑わされて割礼を受けようとしているガラテヤの教会の人々に向かって、それは誤りである。もし、割礼を受けるのであれば、キリストは何の役にも立たない方になる、ときっぱりと言います。2章の終わりにおいても、パウロは同じことを言っています。2章21節、「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」割礼を受けることによって、救いに与れるのだとしたならば、キリストは何のために十字架にかかって下さったのか。神は何のために愛する独り子を十字架へ歩ませたのか。神の恵みを無駄にすることなく、キリストの恵みのうちを歩め、と告げます。割礼を選択すると言うことは、ユダヤ民族への帰化を意味するのであり、それはユダヤ民族への手始めに行うことではなく、ユダヤ民族へ最終的に組み入れられること、最終的なしるしとして体に刻むものであり、それは律法全体に留まることを意味しています。律法のもとにあるイスラエルの民へ自らの名前を連ねると言うことなのです。パウロはここ2節、3節で、割礼がキリストへ所属する者となるか、律法体制に所属する者となるのか、それを決する最終的な分かれ道である、と警告しているのです。

 

■義を待ち望む

そしてパウロは5節、6節で、キリスト者のあるべき姿を確認します。パウロは今日の始まりのところで、警告、そして、キリストの恵みを失うという否定的なことを述べたのは、この5節以下を示すためでありました。すなわち、このように警告したのは、「なぜなら、本来のわたしたちのあるべき姿はこうであるからです」と言うように、理路整然と理論を展開しようとしています。それはこうです、5節、「なぜなら、わたしたちは御霊によって、信仰によって、義の希望を熱心に待っているからです。」6節、「なぜなら、キリスト・イエスにあっては、割礼も無割礼も何の意味もないからである。重要なのは、愛によって働く信仰だけです。」これが理由であります。「なぜなら、〜である。」と言う文を二つ重ねて、畳み掛けるように強調しているのです。この5節で「わたしたちが、熱心に待っている」ものは「義の希望」であるとパウロは語るわけですが、すでにわたしたちはキリストへの信仰によって神に義とされました。つまり、救いを与えられております。キリストを仲介者として神との正しい関係性が得られていると言うことです。しかし、ここではその「義」を待っているわけですから、将来における完成と言うことが語られているわけです。つまり、私たちはすでに救われている、義とされていますが、その救いは終末において完成するということを言っているのです。この終末における完成と言うことをもう少しわかりやすく説明しますと、私たちは毎週、日本基督教団信仰告白を口にしておりますが、その最後のところに、こうあります。「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い、愛の技に励みつつ、主の再び来たりたもふを待ち望む。」まさに、この一文に示されていることでありますが、主イエスの十字架、そして復活から、主イエスは父なる神のもとにお戻りになられました。私たちが今のこの世を生きていますのは、主が再び来てくださる、その再臨の時を待ち望む日々であるわけです。この再臨の時、それが終末における完成と言うことです。ですから、私たちキリストを信じる者たちは、すでに与えられた救いに依り頼みつつ、将来において完成するその姿を見据えつつ、生きるということが求められているのです。終末と言うことが語られる時、それは「すでに」であり、そして「いまだ」と言われるのは、そういうわけです。私たちの救いはすでに与えられていますが、未だ完成はしていない、と言うことです。この終末を待ち望む私たちの時代、私たちはキリストに倣い続けるように、と促されているのです。私たちは、キリストの霊を受け、そして私たちは「アッバ、父よ」と祈ることができ、神に対する信頼を深め続けてくださるのは「霊」によるのです。霊はその完成の時まで、私たちを支え続けてくれるのです。

 

■愛によって働く信仰

6節でもキリスト者の在り方を説明しています。ここまでガラテヤの人々、そして、現代に至るまでの私たちを含むキリスト者は神の契約の相続人である、とパウロは告げてきました。神の契約の相続人としてあるということは、律法体制に属するものではなく、キリスト・イエスに結ばれていることであるのです。キリストに所属しているということが「しるし」であって、割礼という「しるし」は問題ではない、とパウロは言っているのです。そして愛の実践を伴う信仰がキリスト者の定義であると言います。この新共同訳聖書では「愛の実践を伴う信仰」と訳されておりますが、この訳は少々誤解を招くのではないかと思います。以前の口語訳では「尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」新改訳、新しい協会共同訳でも「愛によって働く信仰」であります。「愛の実践を伴う信仰」と聞きますと、私たち人間の信仰的な行いは愛が伴っていなければならない、と言う人間側の行為、と言うことになり、ここまでせっかく、恵みは私たちの行いによるのではない、ただ神の恵みによる、と主張してきましたのに、ここで人間の側の行為が問題にされますと、話は振り出しに戻ることになります。と言うことで、他の聖書訳に従って、「愛によって働く信仰」と言う言葉に置き換えたいと思いますが、その「愛」それは、人間の愛ではなく、神の愛、ただ神から与えられる恵みとしての愛、であります。今日のこの6節までに使われております、「霊」も「信仰」も「愛」も全て神からのものである、と気づく時、大切なのは、私たちの側の信じる思いの強さや実行力が問題なのではなく、ただ主イエスを通して示された神の真実、そして約束に信頼することであるとわかります。「霊」も私たちのうちにある霊感というようなものではなく、上からの働きかけ、神の命の息であります。この霊が私たちの中に愛を呼び起こし、信仰を起こして、希望へと心を開くのです。神の愛、神の霊が私たちを愛の働きへと動かす原動力であるということです。

 

■パン種

さて、7節からパウロは「あなたがた」と言って、ガラテヤの人々へ語りかけます。「だれが邪魔をして真理に従わせないようにしたのか」この言葉を聞きますと、3章1節にある「だれがあなたがたを惑わしたのか」が思い起こされます。パウロにとって、「キリストの福音を信じて救われる」、このことから離れるということは、なんということか、と何度でも繰り返したい言葉なのです。この邪魔、この誤った誘い、それはあなたがたを召し出しておられる方からのものではない。「召し出す」というこの言葉は神の召命、神からの呼びかけ、という言葉であり、神の呼びかけは一回きりではなく、絶えず、キリスト者を導き、成長させていく様子として使っています。ですから、神からの呼びかけに従って、キリスト者となった者たちは、神からの御声に常に聞き従いつつ、養われていくのだということを言い表しているのです。ですから、そのような神の御声に耳を傾けず、別の誤った声に従っていくということは誤りである、とパウロは言うのです。この誤りをわずかなパン種として表現します。パン種というのは、聖書の中では一般的には悪い影響の比喩として使われています。以前、共に読みましたマルコによる福音書でも、8章に「ファリサイ派とヘロデ派のパン種に気をつけなさい」という主イエスのお言葉がありました。パン種、つまり酵母菌はほんの少しであっても、大きく膨らむ。そして全体に悪影響を及ぼすのだということを説明しているのです。

 

■パウロにとっての割礼

11節で、パウロが今なお割礼を宣べ伝えているとしたら、私が迫害を受けるのはなぜか。と言います。使徒言行録16:3にこのような記述があります。「パウロは、このテモテ(彼はギリシア人の父、ユダヤ人の母との間の子どもで、パウロの弟子である、と1節にあります)を一緒に連れて行きたかったので、その地方(デルベやリストラ)に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。」パウロがテモテに割礼を授けたのは、宗教的な救いの保障となるしるしの意味ではなく、ユダヤ人の母を持つテモテが無割礼のままでパウロの宣教活動に参加すると、ユダヤ人会堂を訪問する際に、問題となりかねないという実務的な配慮でありました。パウロにとって、割礼はどっちでも良いことであったのです。やりにくくなるくらいなら、やっておこう、という気持ちで、この弟子であるテモテに割礼を授けた、ということであります。おそらく、パウロに対する反対者はこの時のことを引き合いに出して、パウロは割礼をも宣べ伝えている、ということをガラテヤの人々に語ったのでありましょう。それを聞けば、パウロが宣べ伝えていることに一貫性がなくなりますし、ガラテヤの人々は動揺したでありましょう。ですから、11節の言葉は、このような言いがかりに対するパウロの反論でもあるわけです。パウロはおそらく「あなたがたを惑わしている人たちは、私パウロが、時として割礼を受けるよう勧めていると話しているようですが、それは根拠のない言いがかりである。もし、私が割礼をも宣べ伝えているとしたら、私が迫害されるのは道理に合わないではないか。私が今、まさに受けている迫害、これが、私が割礼を宣べ伝えていない証拠であると言える。」とこのように反論したかったのです。福音を純粋に宣べ伝える、混じり気なく伝える、そこには迫害が存在する。なぜ、救い主が十字架にかけられて死ななければならなかったのか、逆に言えば、十字架にかけられるような、いわば、極悪人として処刑された人が、なぜ救い主なのか、それはユダヤ人をつまずかせるものでありました。十字架にかかって死なれた主イエスを受け入れる、見上げることで救いに与れるというものはユダヤ人にとって受け入れがたかったのです。

そして12節には「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえば良い。」という強い表現が記されています。これはここまで問題となってきた割礼を踏まえて言っています。割礼は男性の性器の包皮を切り取る儀式ですが、これがそんなに有難いものなら、いっそ全部を切り取ってしまえ!というのです。パウロは「恵みを捨てるならば、キリストの共同体から除外される」ということを言っています。それは申命記23:1に記されている主の会衆に加わる規定をもとに痛烈な皮肉を告げているのです。

 

■結び

こうしてパウロは強い表現を使って言い放った後に、キリストにある愛と自由の問題に立ち返り、「兄弟たち」と呼びかけます。この箇所は5章1節と響き合っています。キリストがわたしたちを律法の軛から解き放ち、自由にしてくださった。こうして自由を与えられたわたしたちの自由、これはどのように用いられるべきなのか、キリスト者はどのように生きるべきなのか・・・「愛によって互いに仕えなさい。」と示されます。キリスト者の自由とは、自分のしたいことを貫く自由ではなく、隣人に仕える自由であることが示されています。自分のために生きる、自分を優先に生きる、ということなら、救われる前にしてきたことであります。しかし、今や、キリストにあるわたしたちは、わたしたちのことを誰よりも愛してくださる神を知り、そしてその神の祝福のうちにあるのです。それを知るわたしたちは、もはや自分のためではなく、神に喜ばれることのために自分を捧げたいと思うようになったのです。神に喜ばれる生き方とは、愛を持って他者に仕えることなのです。この「仕える」という言葉は「奴隷」と同じ言葉であります。矛盾するようでありながら、神の前で真の自由を与えられている人は、他者の奴隷となることができる、という真理を言い表しているのです。わたしたちは、主イエスによって新しい律法が与えられました。この律法は、わたしたちを拘束するものではなく、わたしたちを自由にするものであり、そして主イエスによって、胸の中に授けられ、心に記された新しい律法なのです。それに従って生きる私たちは常に正しい道を備えられている、そのことに心から感謝いたします。

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