説教題:『復活の朝』 聖書箇所:ルカによる福音書 24章1節~12節 説教日:2022年4月17日・復活節第一主日
説教:大石茉莉 伝道師
イースター、おめでとうございます。十字架にかけられて死なれた主イエスが三日目に復活されたことを記念する、私たちにとって最も大切な主日です。イースターには卵がつきものですが、なぜイースターに卵なのでしょうか?見た目には動かない卵から新しい命が生まれ出ることから、死と復活を象徴していると言われています。
今日の聖書の御言葉に目を向けましょう。1節では、「そして週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料をもって墓に行った。」となっています。誰が行ったのでしょうか、直前の23章56節に「婦人たちは」とあります。そしてもう少し前を見ますと、55節、「イエスと一緒にガリラヤからきた婦人たち」と書かれておりまして、今日の10節にその名前が記されています。「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」であります。彼女たちは、主イエスがガリラヤで宣べ伝えていた時から、従い、主イエスと弟子たちに奉仕していました。ルカによる福音書8章の始めのところには、「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」と書かれています。主イエスと弟子たちに食事を作るなどしていたのです。彼女たちは、主イエスと一緒にエルサレムまで来て、そして主イエスの十字架の死を「遠くに立って」見ていたのです。弟子たちは主イエスを見捨てて逃げ出してしまいましたけれども、彼女たちは何もできないながらも逃げ出すことはしませんでした。十字架の上で死んでゆかれる主イエスを黙って見つめていたのです。そして墓と主イエスの遺体が納められた有様も黙って見つめていました。言葉は発することができませんでした。それでも死んでゆかれる主イエスの苦しみを、そしてその体が行き着く先を、目に焼き付けようと黙って後について行ったのです。主イエスの体が墓に納められるのを見届けた頃には、安息日がせまっていました。その場を離れ家に帰り、香料と香油を用意しました。そして絶望と悲しみ、嘆きの時を経て、安息日が明けた日曜日の朝、それもまだ明け方の早い時間に、待ちかねたように彼女たちは墓に向かいます。主イエスのお体に、香料と香油を丁寧に塗って差し上げることができる、主イエスへの最後の奉仕をすることができるということに唯一の希望を見いだして安息日を過ごしたのです。主イエスを失った喪失感はそのような使命感に支えられていました。
そして彼女たちは主イエスを葬るという最後の仕事をした後にはどうするつもりだったのでしょうか。きっと何も考えられない、何もない、と思っていたのではないかと思います。主イエスに従ってきたこの人生は、主イエスの死によって終わってしまった。主イエスの福音も、主イエスの招きも、主イエスが生きておられたから、喜びとして実感できたのであって、もはや主イエスが死んでしまわれたのだから、すべてが過去のこととなって、喜びもない、あるのは絶望だけ、おそらくそんな風に思っていたのではないでしょうか。
そんな悲しみにくれながらも、主イエスをきちんと葬りたいという思いだけに支えられていた婦人たちが墓に行って見たものは予想外のことでした。ここでルカは「見出す」という言葉を使って予想外のことが起こったことを伝えます。一つ目、墓穴の入り口をふさいでいた大きな石が脇に転がされていたこと。二つ目、墓の中に主イエスの遺体がなかったこと。あるはずの大きな石がなく、あるはずのところに主イエスの遺体もありませんでした。「主イエスの遺体が見当たらなかった」と訳されていますが、原文では、「主イエスの遺体を見出さなかった」です。自分たちの目が信じられない、そんな出来事が起こったのです。彼女たちは「途方に暮れていた」と4節には記されています。安息日が空けて朝になるのを待ちきれずにやってきたのに、主イエスのお体が見つからない、どこへ行ってしまったのかわからない、絶望の上に更なる絶望が重なったというような出来事が起こったのです。「途方に暮れる」と訳されている言葉は、行き詰まってどこにも行けない状態を表します。主イエスのお体も、この先自分たちが進むべき道も、唯一の希望と思ってきた埋葬の施しも、すべてがなくなってしまい、婦人たちはまさに途方に暮れてしまったのです。
すると輝く衣を着た2人の人、つまり天使が現れました。恐れで顔を伏せている婦人たちに天使は語りかけます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」主イエスの復活はこうして婦人たちに告げられました。「ここにはおられない。」つまり墓であるここを探しても、主イエスを見つけることはできない。なぜならば、主イエスは復活して生きておられるからである。そのように天使は告げたのです。主イエスの復活を告げる喜ばしい知らせです。しかし、婦人たちはそれを聞いても、「主が復活された!ハレルヤ!」と喜ぶどころか、ますます途方に暮れてしまったのではないでしょうか。婦人たちは、この目で主イエスの十字架を見、主イエスが息を引き取られるのを見、そして墓に納められるのを見届けたのです。そして主イエスのご遺体に香油を塗って差し上げるという奉仕をするということに慰めを見出していたのです。しかし、墓に来てみたら、あるはずのご遺体が見つからず、どこに行ったのかもわからず、ここにはおられない、と告げられたのです。婦人たちが体験している現実は、主イエスのお姿がどこにも見つからない、ということです。誰かが主イエスのご遺体を盗み出してしまったかもしれないと思ったのではないでしょうか。ですから、天使のお告げは、復活の喜びに沸くどころか、主イエスのご遺体をまでも失ってしまったという絶望感に打ちひしがれ、ますます途方に暮れてしまったのです。
そんな思いの中にいた婦人たちに、天使は続けます。「まだガリラヤにいたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架に付けられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そうです、このお言葉は主イエスご自身によって3度、予告されています。「まだガリラヤにいたころ」ルカ福音書の9章で2回、そしてエルサレムへの旅の終わり近く18章で1回、語られていました。弟子たちも婦人たちも、主イエスご自身の口から、聞いているのです。天使たちにこのように言われて、婦人たちはやっと主イエスがご自分の死と復活を予告しておられたことを思い出したのです。たしかに主イエスはそのようにおっしゃっておられた・・・しかし、それを聞いた時には、何のことを言っておられるのか分からなかったし、またわかりたくもなかった。そして今こうして、天使たちに言われて思い返してみて、主イエスは十字架にかけられて殺されるけれども、三日目に復活することになっていたのだ、その予告の通りのことが今、ここでおこったのだ、と納得できたでしょうか。復活の喜びに満たされたのでしょうか。聖書にはそのように婦人たちが喜んだとは書いていません。彼女たちがしたことは、「墓から帰って、十一人と他の人たちに一部始終を知らせた。」であります。婦人たちは、復活の喜びを語ったのではなく、体験したことをすべて知らせたのです。墓に行って見たら、ご遺体がなかったこと、天使が現れて、主は復活されてここにはおられないということ、主イエスが確かにそのように言われていたことを思い出したこと、を語ったのです。つまり、婦人たちは半信半疑、何がどうなっているのか、本当に主イエスは復活して生きておられるのだろうか・・・信じたいけれども確信が持てない、そんな気持ちでいたと想像できます。
それを聞いた弟子たちはどうであったでしょう。11節以下に記されています。「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」彼らも、主イエスが受難と復活を予告されたことを婦人たち同様、3度も聞いていました。そのお言葉を思い出したに違いありません。しかし、思い出してもなお、信じることができなかったのです。その中で、ペトロだけが違う反応をしたことをルカは記しています。12節、「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」ペトロは主イエスの受難の話の中で、特別な役割を果たしてきたことは皆さまもご存知でしょう。ペトロは「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」と主イエスに言ったのです。しかし主イエスは「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう」とおっしゃいました。そしてその予告通り、主イエスが逮捕された後、人々に「お前もあの仲間だ」と指摘されたペトロは三度、主イエスを知らないと言い、そして鶏が鳴きました。その時、主イエスは振り向いてペトロを見つめておられました。ペトロはこの眼差しに出会い、外に出て激しく泣いたのです。
このペトロが、婦人たちの知らせを聞いて走り出しました。ペトロも主イエスが語っておられた受難と復活の予告の言葉を思い出したことでしょう。ペトロを見つめた主イエスのまなざしにもう一度、出会いたい、自分の罪の深さに激しく泣くことしかできなかったペトロは生きておられる主イエスの前に立ちたいと願い、走り出したのです。
そんなペトロも墓に行き、見たものは亜麻布だけでした。そして驚きながら家に帰った。と聖書は記しています。婦人たちも弟子たちも、そしてペトロも復活の喜びに満たされたとは書かれていません。天使によって告げられた主イエスの復活をまだ信じることができないのです。
主イエスと共に生活し、主イエスと共に歩き、主イエスと共に食事した弟子たち、婦人たちですら、十字架の死によってすべてが終わってしまったとしか思えず、復活を信じられなかったのです。
弟子たちも、婦人たちも復活以前の現実の中を生きています。主の復活を現実のものとして受け入れられなかったのです。それは私たちも同じではないでしょうか。私たちも主イエスが復活なさって今も生きておられることを確かめたくて、走って行く所は主イエスの墓でしかありません。そして婦人たちと同じように、「あの方はここにはおられない」と告げられる、そのような現実に直面します。しかし、その体験を通して、主を探し求める旅に出るのです。そして探し求める婦人たちに、弟子たちに、私たちに、主イエスが傍らに立って出会ってくださるのです。エマオへの道で主イエスが一緒に歩いてくださったようにです。そのようにして、天使が告げた婦人たち、そして弟子たちを復活の主に従う道へと導いて下さり、そして今日のイースターの日に至るまで、それぞれの時代、それぞれの国において、その道をここまでつなげてきてくださいました。私たちは、主イエスと直接に出会ったことのない時代に生まれました。しかし、十字架にお架かりになって死なれた主は、復活して今も生きておられ、私たちそれぞれのすぐ隣に立ち、歩んでくださっているのです。疑い、迷い、見当違いの方向に走って行く私たちですが、主イエスはそのような私たちに出会ってくださるのです。主イエスに従い続けようとした婦人たち、弟子たちを主イエスの復活を最初に信じる者としてくださり、主の復活を最初に宣べ伝える者として下さいました。そして私たちもまた、今生きておられる主イエスの後に従う道を旅している者に加えていただいているのです。更に今日、神は私たちの群れに、共に主に従う兄弟をお与えくださいます。新たな命に生かされる者として、精一杯喜び、賛美し、心を尽くして神様と隣人とに仕え、主に従う者として共に歩んで参りたいと思います。
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