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『復活の主に生かされる』 2024年3月31日・復活節第1主日(イースター)

説教題:『復活の主に生かされる』 

聖書箇所: テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章13~18節

説教日: 2024年3月31日・復活節第1主日(イースター)

説教: 大石 茉莉 

 

■はじめに

主イエスのご復活おめでとうございます。イースターは基本的には春分の日の後の最初の満月の次の日曜日、というややこしい測定の仕方で決まりますので、毎年いつ、と決まっているわけではありません。実際、今年度は2023年4月9日にイースターを祝いました。ですから今年度は年度内に2回、イースターのお祝いをするということになりました。

復活祭はキリスト教の三つの祝祭のうちの一つです。つまり、主イエスの御降誕を祝うクリスマス、そして十字架にお架りになって死なれた主イエスが三日目に甦りをなさったこの復活祭、そして主イエスが父なる神のもとに戻られた後、弟子たちに聖霊が降り伝道が始められ教会が誕生した、教会の誕生日と言われるペンテコステです。キリスト教をご存知ない方にキリスト教のことを説明するときに、一番難しいのがこの「復活」であります。主イエスが来られた、そのご降誕を祝うクリスマス、これは商業ベースを抜きにしても比較的すんなりと納得していただけるものとなっています。そしてペンテコステはキリスト者以外にはあまり知られていないものの、伝道が開始されて、教会が作られた、教会の誕生日と言われるペンテコステは、キリスト教の歴史という点から考えて教会の始まりとして説明すれば理解していただけるのが一般的です。しかしながら、このイースター「復活」ということに関しましては、一番やっかいと言いますか、キリスト者である私たちにとっても、難しいことのように思います。それは私たち誰もが、直接に見たわけでなく、主イエスのご復活を見た当時の弟子たちですら、「疑う者もいた」と聖書に記されている事柄だからです。確かに私たちは、現実のこの地上で生きて働いておられた主イエスを見た人はいません。しかし、私たちはさまざまなことで生きておられる主イエスのお働きを見たり、感じたりすることができます。そして、毎週、使徒信条で「三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。」と告白しています。私たちは、クリスマスにお生まれになった主イエス・キリストが、十字架の死と復活、そして昇天なさって父なる神のもとにおられ、そして将来、また来てくださる、そしてその時、全ての者たちをお審きになる、その再臨と最後の審判とを信じる者たちなのです。日本基督教団信仰告白にありますように、「愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。」と主の再臨を待ち望む者たちなのです。今日、主イエスのご復活を祝うこの時、改めて、「主の再び来りたまふを待ち望む。」の意味を御言葉から聞き、主のご復活の喜びを味わいたいと思います。

 

■第二の到来

今日、与えられました御言葉は、13節、「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たない他の人たちのように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」と言うパウロの語りかけから始まります。

このテサロニケの信徒への手紙は紀元50年ごろに書かれたと言われています。パウロの手紙の中でも最も早い時期に書かれました。テサロニケは現在のギリシア、テサロニキと呼ばれる場所です。聖書巻末の8.パウロの宣教旅行2・3の一番左の端に見つけることができます。この初代教会の人々は、キリストが再び来てくださるのはすぐである、自分たちの生きている間に起こることを当然のこととして待望していました。このテサロニケの教会は同胞からの迫害という苦難の中にありましたが、主が再びきてくださり、神の国が完成する、自分たちに栄光が与えられるという希望に生きていました。ところが、教会員の一人が、主の再臨よりも前に死んでしまったのです。今日の御言葉の始まりのパウロの語りかけにはこのような前提があるのです。仲間の一人が死んでしまい、人々は動揺しました。再臨より前に死んでしまった者はどうなるのか、救いに与れないのではないか、という不安が広がっていました。ここでは、キリスト教信仰における現在と未来、未来と現在が取り上げられています。現在は未来によって生き、そして未来は現在からその意味を得ることとなります。その相互の繋がりが語られようとしているのです。

 

◾️パウロによる慰め 

14節のパウロの言葉は慰めに満ちています。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」信仰によらなければ、死は確かに嘆き悲しむしかないものでありましょう。また、受け入れるしかない出来事であります。キリスト教信仰に生きる私たちにとっても、家族や友人の死に対する悲しみは自然な感情であります。キリスト教は決してそれを禁じてはいません。しかし、私たちは悲しみすぎてはならないでしょう。死は未知のものであり、死後の状態について知る者はほとんどいません。しかし、主イエスの復活と再臨の教えは、死に対する恐れや、過剰な悲しみを宥めるものなのです。その教えとは、キリストを信じて眠っている者たちをも必ず栄光へ導くというのです。死を表すためにパウロは「眠っている者」といいます。しかし、パウロは死の恐怖を隠すのではなく、復活の希望によって慰めているのです。主イエスがキリスト、救い主であるということを信じ、教会に繋がった者たち、そして主の再臨を待たずに死んでしまった者たちは、

主が再び来られる再臨の時、必ず一緒に導き出される。主イエスが父なる神によって復活させられたように、キリストを信じて死んだ兄弟たちもまた復活する。キリスト者にとって死は終わりではないのだとパウロは言います。教会が悲しみに沈むことのないよう、望みなき他の人々と同じようになることのないように、とパウロは願うのです。

 

■キリストの再臨のとき

そしてパウロは次のように言います。15節以下です。「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。」日本語ではこのように「伝えます」と訳されていますが、「主の言葉に従って、あなた方に宣言する」というぐらいの強い意味合いで語られています。何をか、と言いますと、それが16節以下に語られていることです。つまり、主イエス・キリストが再び来られること、再臨のことが示されています。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。」合図の号令とか、大天使の声、神のラッパ、というのは、いずれもこの世の終わりを告げるものです。そしてそれらが鳴り響くと主イエス・キリストご自身が天から降ってこられます。つまり、主イエスの再臨はこの世の終わりであることも語られています。そしてその再臨の時にはどのようになるのか、何が起こるのか、そのことが16節後半に語られます。「すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」キリストに結ばれて死んだ人たち、つまり、キリストを信じ、洗礼を受けてキリスト者となった人たちという意味です。それは、15節にある「眠りについた人たち」ということです。その人たちはこのテサロニケ教会に連なった人たちでもあります。そしてその人たちに続いて、「わたしたち生き残っている者」が主に結ばれるために空中で主と出会う、とパウロは言います。ここからわかりますことは、パウロは自分が生きている間に、主イエスが再び来てくださり、この世の終わりが来ると思っていたということです。主イエスが再び来てくださる再臨の時に、どのようになるのかについては、この第一テサロニケ以外にもパウロはいくつかの手紙に記しています。フィリピの信徒への手紙においては、3章21節、新約聖書365ページにはこうあります。「わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」体のよみがえりへの熱望と強く結びついていることがわかります。また、ローマの信徒への手紙8章29節以下、285ページ、「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」主イエスがこられる再臨の時、信仰者はキリストと共に栄光を受けるのです。もう1箇所あげましょう。コロサイの信徒への手紙3章4節、371ページにもこう書かれています、「あなた方の命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」キリストの再臨はこのように考えられていました。17節後半「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」とあるように、パウロは再臨を捉え、具体的なこと、現実的なこととして語っているのです。

 

■最後の審判

しかし、実際にはその通りにはなりませんでした。パウロは再臨が近い、差し迫っている、と考えていたので、このように書き送りましたが、再臨の日まで生きていようが、それ以前に死を迎えようがそのことに本質的な違いはないのです。実際、パウロがこれらの手紙を書いた時代から2千年、主イエスの再臨は未だ起こっていません。それがいつなのか、それは父なる神のみがご存じなのであって、わたしたちも知ることを許されてはいません。大切なのは、主の再臨を待ち望むということです。そしてパウロが17節で記したように、「主と出会う」これが大切なことです。すでに死んだ者も、また生きている者も、すべての者が主イエスと出会う。そして全ての者たちが再びこられた主イエス、再臨のキリストの前に立つことになるのです。それが最後の審判であり、主イエスの前に立つことによって、救いに与る者、滅びる者とに分けられるということです。この「最後の審判」という響きは私たちに恐ろしさをも与えます。しかし、それは神を神として信じて生きるということは、神が絶対者であるということを信じることでもあり、その神への畏れを持って生きるということに他なりません。17節後半に「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」とありますように、最後の審判の時、私たちはキリストと共に生きる永遠の生命を与えられるのです。ですから、主イエス・キリストを信じて生きるキリスト者にとって、最後の審判は救いの完成の時なのです。

今日の冒頭でお話しいたしました、日本基督教団信仰告白にある「愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。」という言葉に戻ってまいりました。私たちは「待ち望む」のでありますから、ビクビクして待つのではなく、喜びを持ってワクワクして待つ、ということであります。それは主イエス・キリストが人としてお生まれになったクリスマスの喜びに始まりました。主イエスの人としての歩みは十字架の死のためであり、それは私たちの罪の赦しのためであり、そしてそのキリストに結ばれて生きることは永遠の命の約束であります。主イエスの復活はその約束の明確なしるしであります。

 

■結び

このことは私たちにどのような希望を示すのでしょうか。私たちのこの世での歩みは必ず終わりを迎えます。それは死であります。私たちのこの世の人生は死によって終わりとなります。しかし、私たちの人生を最終的に支配するのは死でしょうか。死の力に打ち勝つことはできないのか、死が勝利者なのでしょうか。主イエスがご復活されたという出来事は、神が全てを支配しておられるということを示すものです。神が死を超えて新しい命を与えてくださったという出来事です。神の恵みの力は死を超えるものであるということが主イエスのご復活に示されたことなのです。そして私たちのことも「神は同じように、主イエスと一緒に導き出してくださるのです。」パウロは途方もなく大きな恵みを今日の14節で語ってくれています。主イエスの人としての誕生、十字架、死、復活、そして私たちの救い、新しい命、それらは全て神の一連のご計画として与えられていることです。それは神の愛の表し方であり、ただただ神の恵みの出来事であります。私たちにあるのは、死が勝利者という絶望ではなく、神が勝利者であるという希望であります。このことを改めて知るとき、私たちはこの世での歩みをひとときも無駄にすることなく、神の僕として力強く歩んでゆきたいと願うのであります。

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