『御心を問うて生きる』 2025年1月12日
- NEDU Church
- 1月13日
- 読了時間: 9分
説教題: 『御心を問うて生きる』
聖書箇所: 旧約聖書 詩編34:1―23
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書6:9-10
説教日: 2025年1月12日・降誕節第3主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
「主の祈り」。だから、こう祈りなさい。と主イエスが弟子たちに教えられた祈りであります。「天にまします我らの父よ」で始まる主の祈り。キリスト教といえば、主の祈り、と言えるぐらいに密接に結びついているものであるといえましょう。実際に、私もキリスト教主義の中学校に入りました時、まず覚えたのが主の祈りでありました。覚えたのが、というよりは、覚えさせられたのが、といった方が正確でありましょう。自らの思いを持ってというよりも、とにかく朝の礼拝の終わりにも、昼食の始まりにも、「主の祈り」となるわけで、深くその意味を知ることよりも、とにかく覚えるということであったように思います。私の場合は、中学高校と6年間、ほぼ毎日、必ず主の祈りを口にしていたということになりますが、恥ずかしながら、味わいを持って本当の祈りとして口にしたことはなかったと思います。つまり、ご飯を食べる前の呪文のように、定型文として、「国と力を栄とは限りなく、汝のものなればなり、アーメン、いただきます」といった具合です。しかしながら、この後、聖書から離れた社会人時代以降、何か辛いことがあった時、どうして良いかわからない時、自然と手を組んで、祈りの姿勢になって、そして口にする言葉は「天にまします我らの父よ」であったのです。また、キリスト者となってからも、祈りの言葉として表現できず、言葉にならない思いでいっぱいになった時に、手を組んで口に出る祈りの言葉は主の祈りであります。そのような祈りは、おそらく私だけでなく、皆様も経験したことがおありだと思います。そのような「主の祈り」、前半と後半の2回に分けて、今日は前半の9-10節から共に聴きたいと思います。
■呼びかけ「アッバ、父よ」
さて「主の祈り」はとても身近なものであり、私たちに染み込んで、私たちの祈りの基本となっています。この祈りは、「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけの言葉で始まります。主イエスは父なる神のことを「アッバ、父よ」とお呼びになりました。このアッバというのは、アラム語で「お父ちゃん」という、愛情のこもった、親しみを込めた呼び方です。父上でもお父様でもなく、まさに子供が父を呼ぶ時の呼び方です。この主イエスが話されたアラム語が、ギリシア語に翻訳されずに、こうして新約聖書の中に記されているのは、珍しいことであると思います。主イエスご自身のお声がまるで録音されているかのように、そのまま残されているのです。主の祈りの冒頭で私たちは主イエスと共に祈ることが許されています。この表現は愛情に満ちています。私たちが子供であった頃、父に抱かれて、あやされていた頃、お父さん、と呼びかけたその頃の自分に帰るのです。幾つになっても、親の前では子供であることができるのです。小さい子供は甘えたい時、周りを考えずに親の元に飛び込んできます。しかし、私たちは、いわゆる「おとな」と呼ばれるようになって、どのくらい経つでしょうか?一人前の「おとな」は親に甘えずにやっていくものである、という意識が刷り込まれてしまいました。ですから私たちは父なる神に甘えるのがとても下手なのです。しかし、父なる神は、私たちが、「アッバ、父よ」と呼ぶのを常に待っておられるのです。私たちは甘え方を再び学習する必要があるのではないでしょうか。
■第一の祈り「御名が崇められますように」
第一の祈りとして「御名が崇められますように」とあります。御名が崇められるというのは、単に神の名前のことではありません。神の本質、神ご自身のことです。旧約の民にモーセを通して与えられた十戒は、今の私たちに対しても与えられています。その十戒の第一の戒め、出エジプト記20:3にはこうあります。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」このように記されています。これがまさに、この「御名が崇められますように。」とぴったり重なっていると思うのです。主イエスは、マタイ5:17で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである。」と言われました。このマタイの連続講解でも主イエスは旧約の完成者として、旧約を成就するためにいらした、と何度もお話ししてまいりましたように、主イエスが弟子たちにこのように祈りなさいと示されたこの祈りの手本「主の祈り」は旧約の民に与えられた十戒、律法の成就として、示されたのであると思うのです。
そしてエゼキエル書36:22にもこうあります。「主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。」イスラエルの民の背きによって汚され、損なわれた神の名誉は、神ご自身がご自分のために回復する、そのような神であるとエゼキエルは告げています。そしてその名誉はイスラエルを通してなされるのであります。罪にまみれた人間を、神はご自身の聖のゆえに聖なる者としてくださるのです。神はそのように人間と世界とを新しく造り直されるのです。その変革が主イエス・キリストの十字架の死による罪の清め、罪の贖いによってなされたのであります。神を神として崇める、それは神を大きくするということです。そしてそれは同時に、自分を小さくするということです。神の名を崇める、神を讃える、それは神を大きくし、自分を小さくする。私たちが自分を小さくすればするほどに、神のお姿は大きくなるのです。ですから主の祈りを祈る時、私たちは頭を垂れて祈るのであります。
■第二の祈り「御国が来ますように」
第二には「御国が来ますように」という祈りが続きます。御国、つまり、神の国、神のご支配がこの地上で実現しますように、という祈りです。現実の私たちの目には見えるわけではありません。究極の終末における神の国という意味では、「いまだ」実現していないものでありますが、主イエスがこの地上に来てくださったということにおいて、「すでに」となっている出来事であります。ルカ17:20-21で主イエスはこのように言っておられます。「「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」」また、ルカ11:20でもこう言っておられます。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」これがこの祈りが捧げられる根拠です。主イエスのご生涯は、神の支配が隅々にまで行き届き、ご自分は隅に打ち捨てられる、そのような生き方であられました。ご自身で体の不自由な方、心病む者たちのところに出向かれて、声をかけて神の支配をそこまで運んでくださいました。そのようにして私たちに神の支配を届けてくださるために生き抜かれた主イエスは、そのために十字架におかかりになって死んでいかれました。「御国が来ますように」このことをご自身の祈りとして祈られた主イエスが、私たちが祈るべき祈りとして与えてくださるために死んでくださったのです。そのことを私たちははっきりと知るべきでありましょう。ですから、この祈りは漠然とした期待感などで祈る祈りではありません。私たちの今生きているこの世界に何かが成功して出来上がるように、というような祈りではないのです。苦しみ、悲しみの中で神の愛が、慰めが、今ここで与えられることを祈る祈りなのです。そして、この神の支配、神の国は死をも超えるということを覚えます。死に打ち勝つ神の支配、天の父の右に座しておられる「主イエスが再び来たりたもうを待ち望む。」私たちが使徒信条で告白する通りなのです。
■第三の祈り「御心がおこなわれますように、天になるごとく、地にも」
第三の祈りは「御心がおこなわれますように、天におけるように地の上にも」であります。原文のままに訳しますと、神のご意志が出来事となりますように、その通りに起こりますように、ということです。この地に生きる私たちの意志ではなく、神の意志が優先されるように。つまり、それは信仰の戦いであります。なぜなら、私たちは神の意志に逆らい、自分の思いを優先させるからです。マタイ16:24「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と主イエスは言われましたけれども、私たちは心では従いたいと思っても、なかなか従うことができない、そのような存在なのです。この「地」、そこは罪に満ちた地、私たちの意志が支配している地です。ですからこの地においても、天において成就しているように神の御心の成就を求めるのは、戦いなのです。戦いの祈りです。しかし、その戦いは私たちが頑張って戦うのではなく、すでに主イエスがゲッセマネで祈ってくださいました。マタイ26:39父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」十字架におかかりになる戦いの中で主イエスが祈ってくださったのです。ですから、私たちがこの言葉を口にするとき、それは、主イエスがご自分の思いではなく、父なる神の御心に従って、苦しみの杯、死の盃を受けてくださいました、ありがとうございます。」という祈りであるのです。
■「あなたの名、あなたの国、あなたの心」
ここまでの「御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が行われますように。」この3つの祈りが主の祈りの前半部分です。今、申しましたように、この3つの祈りを貫いている言葉は、神である「あなた」の、という言葉です。御名、御国、御心。いずれも神についての祈りであり、この後の11節からがわたしたちの生活に関わる祈りであるといえます。ここまでの神についての3つの祈り「あなたに委ね、従います」という思いがその本質にあると言えるでしょう。ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とありますように、神は私たちが滅びることを望んではおられないのです。滅ぶべき私たちをなんとかして救いたいと思っていらっしゃる、それが神の御心であります。私たちはそのことを知っているのです。私たちを神の国に招き入れ、神の子としてくださっているのです。今を生きるこの私たちは、その証しとして信仰が与えられ、洗礼によってキリストと結ばれており、礼拝によって神の恵みを味わうことも与えられています。ですから私たちは、神の御心が何であるのか、また何を目指しているのか、も知らされています。神の計画がなることこそが一番であると私たちは知らされています。しかし、私たちには神の国をもたらすことはできないし、自分自身をも神の国に入れることもできません。この自分の罪をも自分では解決できないのです。できるのは神様だけであり、だから神に祈るのであり、こうして祈りが勧められているのです。
■結び
「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」1コリント1:21にある御言葉ですが、神はこの私たちを用いて、この拙い祈りを用いて、一人また一人と神のもとに招いて、神の子としてくださろうとしています。何でもできる神が全てをなさるのではなく、「宣教という愚かな手段」を用いて、「御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が行われますように。」という祈りを重ねさせてくださるのです。感謝いたします。私たちは神様のお働きを信じて、今日も共に祈るのであります。
コメント