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『後の者が先になり』 2023年4月30日

説教題: 『後の者が先になり』 聖書箇所: マルコによる福音書 10章23~31節 説教日: 2023年4月30日・復活節第四主日 説教: 大石 茉莉 伝道師


■はじめに

今日の御言葉は10章23節から31節でありますが、この箇所は先々週ご一緒に聴きました17節から22節とつながっております。そこは永遠の命を受け継ぐためには何をしたらよいか、と主イエスのもとに尋ねに来た人の話でありました。この人は、律法は子供の時からきちんと守ってきており、後は何が足りないのかを教えてもらおうとしました。主イエスは、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから私に従いなさい。」と言われました。それを聞いたこの人は、悲しみながら立ち去りました。主イエスの言われることは到底できないと思ったからです。それは「たくさんの財産を持っていたからである。」と22節にありました。今日の箇所のはじまりにある「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか」というお言葉は、この人とのやり取りに続いております。


■財産とは

さて、財産と聞きますと、経済的なことをイメージすることが多いのではないでしょうか。あの人は財産があるといえば、イコールお金持ちである、ということを意味するのが普通の感覚でありましょう。しかし、そのイメージをここで主イエスが言われたお言葉に当てはめると間違った理解をしてしまうことになります。主イエスがお金持ちとそうでない人を区別して、お金持ちは神の国に入るのが難しく、お金をあまり持っていない人は神の国に入りやすい…主イエスはそのようなことを言われたのではありません。ここで主イエスの言われた「財産」とは、先々週もお話しいたしましたけれども、自分の善い行いによって積み上げてきたもの、自らの力によって獲得して持っているものです。それは経済的なお金も含まれますが、自分の知識や経験、善い行いや信仰生活などを指しています。そしてそれを根拠にした自分の正しさ、これも自分の財産であります。それらすべてが自分を形作っている「持っているもの」つまり「財産」として表現されているのです。

主イエスのもとを立ち去ったこの人は、自分の積み上げてきた物や事を更に積み上げていくことで神の救い、永遠の命を受け継ぐことができると考えて、自分の行い、自分の業によって獲得しようとしていたのでした。主イエスが言われた「持っているものを売り払い」というのは、それらの自分の持っている「財産」を捨て去って、それら自分の価値基準に固執するのではなく、大切にするものは別のところにある、そのことに気付けるか。という問いでもあります。自分の行いによって積み上げる生き方を止めなさい、ということでありました。そのような生き方を止めることは、わたし、つまり主イエスに従うということにつながるのです。私たちも自分の持っているものにこだわるという意味においては、自分の財産を捨てることの難しい者たちであると言えるのではないでしょうか。それが経済的な意味の財産でなくとも、今までの自分の経験や知識、自分を形作っているもの、いわば、自分の価値と思えるものを捨て去るということは、なかなかできないことだと思います。


■弟子たちの驚き

主イエスはさらに続けられました。「神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」弟子たちは主イエスの最初のお言葉で驚きました。当時の社会において、この世で多くの財産を持つことは神の祝福を受けていることだと考えられていたからです。ですから、弟子たちは財産のある者は神の国に近い者たちであると考えていました。それにもかかわらず、主イエスのお言葉はそれとは全く逆、そしてそこまで言われるのであれば、いったい誰が救いに与り、神の国に入ることができるのだろうと思ったのです。らくだと針の穴、この譬えにはいろいろな説がありますが、単純に、「らくだ」は目にする動物の中で一番大きなもの、そして「針の穴」は細い糸を通すだけの最小の穴、ということを指していると考えたらよいでしょう。つまりは、不可能であることを誇張して話されているのです。ですから、弟子たちは言います。「それでは、だれが救われるのだろう。」この弟子たちの言葉は、前回の金持ちの人の落胆と一緒です。永遠の命を受け継ぐ、神の国に入る、救われる、主イエスに従う、それはひとつの流れの中にあります。何かをなすことによって得られると考えるならば、これは財産を持つ者も、実は貧しい者にとっても難しいことなのです。主イエスはこの24節で「子たちよ」と弟子たちに呼びかけておられます。ここで使われている「子たちよ」という言葉は、少し前の幼子の祝福を思い起こさせます。神の国に入るのは幼子のようであること、何の計算もなく、報酬、見返りを求めるのではなく、恵みの中に立つこと、であることが語られていました。弟子たちへのこの呼びかけは、幼子の祝福、そして立ち去った男の人、のつながりの中で、弟子の覚悟、そしてまた主イエスに従う喜びを示されようとなさっておられるのです。


■「神はなんでもできる」

「イエスは彼らを見つめて言われた。」27節にはそうあります。主イエスはすでに2回、御自身の受難予告をなさっておられます。時は既に近いのです。主イエスは弟子であることの苦難と犠牲について、そして神の国の奥義について、真剣なまなざしで語られるのです。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」これは、神は全能であるという一般的なことをおっしゃっているのではありません。人間が、どこまでも自分の力によって成し遂げようとする力を打ち砕き、自分を神に明け渡すこと、これは神によってのみ可能なのだ、ということです。人間の善き行いをどこまで積み上げても、救いを得ることはできない、それは人間にできることではない、ということです。神の恵みに身を委ねる時、神の全能の救いは実現していくということです。パウロもダマスコ途上で「パウロの回心」と言われる神による変革を体験し、生涯をかけてキリストにお従いする身になりました。そのような変革がここにいる十二弟子たちにも必要であることを告げておられるのです。


■信仰者に与えられるもの

それは次のペトロの言葉からも明らかです。ペトロは申します。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」「わたしたち」と言っていますから、弟子を代表して、という意味でしょう。「すべてを捨てて」と言います。それはあの帰って行った金持ちの男とは違って、自分たちはそうしています、ということを暗に表現しています。ペトロもまた、見返り、報酬、保証を期待しているのです。並行箇所であるマタイ福音書19:27はそのことを明らかにしています。「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」しかし、それを聞いた主イエスは、彼らの驕りを非難することなく、言われます。29節以下のお言葉です。「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」これは払った犠牲の報酬としてではありません。そうでないと、努力や犠牲によって神の報いを得ようとするいわゆる功徳を積む、ということになってしまいます。この与えられるもの、それらは主イエスの恵みです。主イエスを愛するがゆえに喜びを持って捧げる時、それは主イエスの恵みの証しになりますが、捧げたものに心が向いている時、それは、自分のものを惜しいと思う気持ちに捕らわれているのであり、帰って行った金持ちの男と同じであります。ペトロの発言も同じなのです。

ここで家、兄弟、姉妹、母、父、子供、と言った家族のことがあげられています。これは前半はいわゆる自分の血のつながった身内を指し、後半はキリストにつながることによって与えられる主にある兄弟姉妹のことを指しています。主イエスを頭とする教会での豊かな主にある家族の交わりが与えられるのです。この豊かさは、後の世ではありません。百倍受けるのは、今、私たちが生きるこの世においてです。自分の正しさによるのでもなく、自分の善き行いによるのでもなく、ただただ神に依り頼む時、与えられる恵みは百倍にして神様は返してくださるのです。私たちが手離すことで、私たちは決して貧しくなってしまうことはないのです。神様は豊かに養ってくださる。たしかに悩みや苦しみ、悲しみ、経済的な困難など問題がまったくなくなるわけではありません。しかし、ヨハネ16:33で「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世で勝っている。」とあるように、主イエスを復活させてくださった全能の神のもとに生きる私たちは、おなじように復活に与り、永遠の命に生きる者とされることを信じ、その希望ゆえに絶望することなく歩み続けることができるのです。


■「先のものが後になり」

そして主イエスは言われます。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」自分たちは主に従い、主のお側にいる「先にいる」と思っているペトロ達は後になりうる。主イエスはそう言われました。私たちはこの言葉から何を学んだらよいのでしょう。この言葉は後の時代のアッシジの聖フランシスコに代表されるような清貧の勧めでも、金銭や物を所有することが悪であると言われているのではありません。この地上での先、後、といった順序がそのまま神の国における順序ではないということです。人間の功績、人間の善い行い、実績というような者を基準にしませば、当然ながら、多い人が先というような序列が生じるでありましょう。しかし、神さまの恵みはそのような人間の考える秩序とは異なっているということです。これはこのマルコ福音書ではなく、マタイ福音書に書かれている譬え話でありますが、「ぶどう園の労働者の譬え」がマタイ20章に出てまいります。「ある家の主人は労働者を雇います。1日、1デナリオンの約束です。夜明けからそのように働いた人、9時ごろから働いた人、12時、3時、5時、その都度、何もしないでいる人々がいたので、ぶどう園で働かせます。夕方になりまして、労働者を集め、最後に来た者から順に賃金を払います。5時ごろに雇われた人々が1デナリオンずつもらいました。夜明け方から働いていた人たちは、自分たちはもっと多くもらえるだろうと思っていましたが、同じ1デナリオンでありました。彼らは主人に不平を言います。1時間しか働かない人と朝から働いた私たちが一緒とはどういうことですか?主人は言います。私は最後の者たちにも同じようにしたいのだ。あなたはそれをねたむのか。」これが神の愛の論理であります。人間の論理では、やるべきことをやり、それに対する報酬をもらう、だからそれには差があって当たり前というものでありましょう。しかし、神の愛の論理は、そうではないのです。それぞれの人にとって、最も大切なものを自由に、気前よく、お与えくださる。そのことだけを願って、愛を、慈しみを与えてくださるのが神の愛なのです。


■結び

悲しみながら立ち去った人、彼はあの時は主イエスから離れていきました。その意味では後の者であると言えるでしょう。しかし、主イエスの愛のまなざしは注ぎ続けられています。ですから、依然として永遠の命を受け継ぐ道へと招かれ続け、この人が先になるかもしれないのです。一番先に得られると思っていたペトロは、主の十字架で主を否み、先の者は後になりました。しかし彼は再び主に赦され、そして福音宣教の道を歩んだのです。祝福は当然受けるべき報酬ではなく、恵みなのです。この恵みは神様のお決めになる順序であります。今は神様の恵みを拒む者が先に救いに与るということもあるのです。人間の発想ではこのような逆転は納得できないことでしょう。しかし、神からいただく恵みは自分の行いの見返りではないと知るとき、ただただその尽きぬ恵みの大きさに感謝し、隣り人とも共に喜び、共に感謝し、共に仕え合う、そのような生き方へと変えられていくのではないでしょうか。


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