説教題: 説教題:『彷徨う人々』
聖書箇所: 旧約聖書 ホセア書11:1−4
聖書箇所: 新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙4:8−11
説教日: 2024年4月28日・復活節第5主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
パウロは3章の後半から律法は養育係として人が未成年であったとき、つまりキリストに出会う前にはその役割があり、意味を持つ正しいものであったが、キリストを通して神の救い、神の恵みを知ったからには、律法に縛られることなく、恵みのうちを歩むのだ、それが未成年から大人へと成長したということなのだと語って来ました。そして今日の9節で「しかし、今は、神を知っている。いや、むしろ神から知られている」とパウロは言います。人は自分自身の努力では神を知り得ないのであり、神が私たちにご自身を示してくださったのであるからです。神は私たち一人一人を見知って、捉えて、恵みを与え続けてくれる存在であり、そのうちを歩む、ただそれだけで良い、と言われているにもかかわらず、なぜ、逆戻りするのか、とパウロはガラテヤの人々へ語り掛けています。
■「かつて」と「今」
キリストに出会う前、それは8節にある「かつて」という言葉であり、キリストに出会った後、それは9節にある「今は」という言葉で示されています。キリストがこの世に来てくださったということは、歴史を「かつて」と「今」と分ける決定的な出来事でした。実際、世界史的にも、キリスト以前とキリスト以降、が紀元前、紀元後と言う時代の分け方をしているわけですから、キリスト教信仰に出会っておられない方でもこの歴史区分は知っておられます。それほどキリストがこの世に来てくださったと言うことは大きな出来事なのです。そしてキリストに出会っている私たちにとっては、単なる歴史区分という以上の大きな意味を持つものであります。
主イエスはこの世にいらしてガリラヤでの福音宣教の始まりに「時は満ち、神の国は近づいた。」(マルコ1:15)と言われました。「神の国は近づいた」という表現ですが、それは近い将来に迫って来ているのではなく、すでにこの世で始まっている、ということが主イエスの行われたこの世でのさまざまな「しるし」に現れています。主イエスの」到来によって新しい時代が始まっているのです。それはそれまでの「かつて」とは大きく変わることであり、そしてその「今」はこの私たちの生きる「今」に至るまで続いています。そして私たち一人一人も、主イエスに出会う前と、主イエスに出会ってからの生き方は、「かつて」と「今」というように大きな分岐点となったわけです。「かつて」は洗礼を受ける前であり、「今」は信仰者として主イエスの到来によって始まった新しい時代を生きるということです。パウロ自身にもそのような大きな分岐点があり、そのことはこのガラテヤ書1章13節に「あなたがたは、わたしが『かつて』ユダヤ教徒として」生き、神の教会を迫害し、誰よりもユダヤ教に徹しようとしていた。」と「かつて」を語り、しかし、主イエスとの出会いにより、「今」は使徒とされ、その「今」はこのようである、とパウロはフィリピ3章8節で「他の一切を損失と見ています。キリストのゆえにわたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。」と語っています。パウロにとって、それは誇張でもなんでもなく、劇的な違いであると言うのです。そしてそれをなぞるかのようにして、ガラテヤの人々へも「かつて」と「今」の大きな違いを述べようとします。
◾️神を知り、神に知られている
「あなたがたはかつて、神を知らずに、神でない神々に奴隷として仕えていた」。このガラテヤの教会がどのあたりであったのか、というのはすでにお話しいたしましたけれども、現在のトルコ、聖書ではよく小アジアと呼ばれる地域であります。当時の小アジアはギリシア・ローマ世界の一部でありました。前回、パウロがアテネでギリシア哲学者たちが「知られざる神へ」と祀ってある祭壇を見て、「本当の神をお知らせしましょう」と告げた理由は、そのようにギリシア・ローマ世界では多神教、ギリシアの神々のみならず、多くの神々が祀られ、崇拝されていたからでもありました。ここでパウロが神々と言っているのは、そのような多神教社会に生きていた人々に向けての発言であり、さらに踏み込んだ神との関係のことを言っているのでありましょう。本当の神、主イエスによる救いによって与えられた唯一絶対なる神を知った今、今まで自分たちが信じていたものは神ではなかった、ということに気づいたでしょう、というのです。そして主イエスによる神、その神を知った、ということは自分たちが知ったそれ以上に、神に知られているのだ、とパウロは言います。この「知る」と言う言葉は、単なる知識としてということではなく、知る人と知られている人との人格的な関係、つまり、私たちと神との間の人格的な結びつきのことを言い表す言葉です。ですから、「私は神を知っている」と言う時、それはその神を私の神として告白し、その神にお従いしますという告白でもあるわけです。そしてまた、「神に知られている」と言うのは、その神が一人一人、それぞれを選び、招き、子としてくださり、神の財産を受け継ぐ相続人としてくださっていると言うことであります。
■知恵の書に
旧約聖書とは、通常は創世記に始まりマラキ書に終わる27巻ですが、旧約聖書続編というものがあります。これは1世紀末にユダヤ教の正典を決めますときに正典には組み入れられなかったものですが、元々は紀元前3世紀から紀元1世紀ごろの間に成立したユダヤ教の宗教的文書です。その中に「知恵の書」というものがあります。その13章1節から9節にとても示唆に満ちた箇所があります。少し長いのですが、記します。「神を知らない人々は皆、生来むなしい。彼らは目に見えるよいものを通して、存在そのものである方を知ることができず、作品を前にしても作者を知るに至らなかった。かえって火や風や素早く動く空気、星空や激しく動く水、天において光り輝くものなどを、宇宙の支配者、神々とみなした。その美しさに魅せられてそれらを神々と認めたなら、それらを支配する主が、どれほど優れているかを知るべきだった。美の創始者がそれらを造られたからである。もし宇宙の力と働きに心を打たれたなら、天地を造られた方がどれほど力強い方であるか、それらを通して知るべきだったのだ。造られたものの偉大さと美しさから推しはかり、それらを造った方を認めるはずなのだから。とはいえ、この人々の責めは軽い。神を探し求めて見出そうと望みながらも、彼らは迷っているのだ。造られた世界にかかわりつつ探究を続けるとき、目に映るものがあまりにも美しいので、外観に心を奪われてしまうのである。だからといって、彼らも弁解できるわけではない。宇宙の働きを知り、それを見極めるほどの力があるなら、なぜそれらを支配する主を、もっと早く見出せなかったのか。」これは自然崇拝について書かれたところでありますが、さらに人の手によるものを神々と呼ぶ偶像崇拝の惨めさをこの「知恵の書」は書き表しています。パウロが9節で無力で頼りにならない諸霊とは、まさにこの知恵の書に示されているものを指していると言えるでしょう。ガラテヤの人々の異教崇拝と律法遵守の行いの虚しさを並べて、その行いの愚かしさを強調しているのです。偶像崇拝とは、その命と豊かさからはほど遠いものに依り頼む愚かな行いのことを指すのです。
■時節などの守り
10節でパウロは「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。」と言っています。これは何を指すのかと言えば、ユダヤ教の律法で、安息日の厳守が絶対的と言われてきたことから理解できるでありましょう。日は代表的なものとして安息日、断食日が挙げられるでしょう。月はユダヤの暦で何か特別な行事のある月のこと。時節というのは、過越の祭りや仮庵祭などの年間行事のことであり、年はといえば、7年ごとに巡ってくる安息年、ヨベルの年などを指しているといえましょう。これらを守ることはユダヤ人として当たり前のことでありましたから、体に自然に染み付いていることでもあったわけです。これらに頼ることの問題点は、これさえ守っていれば、神への責任を果たしているという錯覚に陥ることであります。それがパウロが指摘する律法主義の問題点なのです。私たち日本人もそのような慣習的な宗教観に左右されているところがあるのではないでしょうか。例えば「仏滅」などはどの代表的なものかもしれません。縁起が悪い日だから、結婚式はやめておいた方が良い、できれば大安にしたら、というようなことはよく聞くのではないでしょうか。この神道に基づく六曜は長年、カレンダーにも記載されていますから、かなり一般的な日本人に染み付いているものではないかと思います。たとえば、日本の葬儀場は友引が休業日です。それは友人を引き込むとされている日だそうで、結婚式は良いけど、お葬式はダメということから、斎場の定休日となっているわけです。私たち、キリスト者としては全く関係ない事柄ではありますが、葬儀を行う場合はそれに従わなければなりませんから、知っておく必要があるわけです。というように、このパウロが問題とするガラテヤの人々も元々はユダヤ教の慣習に従って生きてきた人々であるわけですから、この暦問題は感覚的に染み付いていたものであったのではないかとも思うわけです。しかし、パウロはNOを突きつけるのです。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ8章において、偶像に備えられた肉でも、それを食べたからといって汚されるわけではない、何かを失うことも、食べたからと言って何かを得ることもない、肉は肉である。ただ、それによって一緒にいる人が惑わされるならば、食べないほうが良い、という程度のことである、と言っていますから、この暦問題もそれに左右されない信仰を保てるならば、どうということはないのでしょうが、このガラテヤの人々はそれによって、神の恵みが見えなくなってしまい、あれこれと付け加えることで、神の恵みのみならず、神が見えなくなり、福音がわからなくなっていたのです。パウロはそのことを問題としています。神が見えなくなり、別の神を探す。これは「かつて」のキリストに出会う前の人間の行動であり、キリストに出会った「今」を生きる私たちの取るべき行動ではありません。ガラテヤの人々はキリストと結ばれることによって与えられた父なる神とはぐれて、迷子になってしまっているのです。パウロが「あなたがたのことが心配です。」と今日の御言葉の最後で言っているのは、それを指摘しているのです。
■結び
私たちにとって、帰るべき場所、居るべき場所がどこであるのか、そのことを常に心に留めておくことが大切なのです。迷子になった子どもは何をしでかすかわかりません。迷子になった子どもを親のもとに、父なる神のもとに連れ帰してくれるのは、主イエス・キリストであります。主イエスは道標でありますから、主イエスに従うことで父なる神のもとに憩うことができるのです。私たちも時に迷子となり、彷徨うこともありますが、たとえ自分を見失ったとしても、主イエスにつながることで再び父なる神との関係を取り戻すことができます。それは教会での礼拝を通して与えられるのであり、そこに真の慰めと平安があるのです。
聖書箇所: 旧約聖書 ホセア書11:1−4
聖書箇所: 新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙4:8−11
説教日: 2024年4月28日・復活節第5主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
パウロは3章の後半から律法は養育係として人が未成年であったとき、つまりキリストに出会う前にはその役割があり、意味を持つ正しいものであったが、キリストを通して神の救い、神の恵みを知ったからには、律法に縛られることなく、恵みのうちを歩むのだ、それが未成年から大人へと成長したということなのだと語って来ました。そして今日の9節で「しかし、今は、神を知っている。いや、むしろ神から知られている」とパウロは言います。人は自分自身の努力では神を知り得ないのであり、神が私たちにご自身を示してくださったのであるからです。神は私たち一人一人を見知って、捉えて、恵みを与え続けてくれる存在であり、そのうちを歩む、ただそれだけで良い、と言われているにもかかわらず、なぜ、逆戻りするのか、とパウロはガラテヤの人々へ語り掛けています。
■「かつて」と「今」
キリストに出会う前、それは8節にある「かつて」という言葉であり、キリストに出会った後、それは9節にある「今は」という言葉で示されています。キリストがこの世に来てくださったということは、歴史を「かつて」と「今」と分ける決定的な出来事でした。実際、世界史的にも、キリスト以前とキリスト以降、が紀元前、紀元後と言う時代の分け方をしているわけですから、キリスト教信仰に出会っておられない方でもこの歴史区分は知っておられます。それほどキリストがこの世に来てくださったと言うことは大きな出来事なのです。そしてキリストに出会っている私たちにとっては、単なる歴史区分という以上の大きな意味を持つものであります。
主イエスはこの世にいらしてガリラヤでの福音宣教の始まりに「時は満ち、神の国は近づいた。」(マルコ1:15)と言われました。「神の国は近づいた」という表現ですが、それは近い将来に迫って来ているのではなく、すでにこの世で始まっている、ということが主イエスの行われたこの世でのさまざまな「しるし」に現れています。主イエスの」到来によって新しい時代が始まっているのです。それはそれまでの「かつて」とは大きく変わることであり、そしてその「今」はこの私たちの生きる「今」に至るまで続いています。そして私たち一人一人も、主イエスに出会う前と、主イエスに出会ってからの生き方は、「かつて」と「今」というように大きな分岐点となったわけです。「かつて」は洗礼を受ける前であり、「今」は信仰者として主イエスの到来によって始まった新しい時代を生きるということです。パウロ自身にもそのような大きな分岐点があり、そのことはこのガラテヤ書1章13節に「あなたがたは、わたしが『かつて』ユダヤ教徒として」生き、神の教会を迫害し、誰よりもユダヤ教に徹しようとしていた。」と「かつて」を語り、しかし、主イエスとの出会いにより、「今」は使徒とされ、その「今」はこのようである、とパウロはフィリピ3章8節で「他の一切を損失と見ています。キリストのゆえにわたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。」と語っています。パウロにとって、それは誇張でもなんでもなく、劇的な違いであると言うのです。そしてそれをなぞるかのようにして、ガラテヤの人々へも「かつて」と「今」の大きな違いを述べようとします。
◾️神を知り、神に知られている
「あなたがたはかつて、神を知らずに、神でない神々に奴隷として仕えていた」。このガラテヤの教会がどのあたりであったのか、というのはすでにお話しいたしましたけれども、現在のトルコ、聖書ではよく小アジアと呼ばれる地域であります。当時の小アジアはギリシア・ローマ世界の一部でありました。前回、パウロがアテネでギリシア哲学者たちが「知られざる神へ」と祀ってある祭壇を見て、「本当の神をお知らせしましょう」と告げた理由は、そのようにギリシア・ローマ世界では多神教、ギリシアの神々のみならず、多くの神々が祀られ、崇拝されていたからでもありました。ここでパウロが神々と言っているのは、そのような多神教社会に生きていた人々に向けての発言であり、さらに踏み込んだ神との関係のことを言っているのでありましょう。本当の神、主イエスによる救いによって与えられた唯一絶対なる神を知った今、今まで自分たちが信じていたものは神ではなかった、ということに気づいたでしょう、というのです。そして主イエスによる神、その神を知った、ということは自分たちが知ったそれ以上に、神に知られているのだ、とパウロは言います。この「知る」と言う言葉は、単なる知識としてということではなく、知る人と知られている人との人格的な関係、つまり、私たちと神との間の人格的な結びつきのことを言い表す言葉です。ですから、「私は神を知っている」と言う時、それはその神を私の神として告白し、その神にお従いしますという告白でもあるわけです。そしてまた、「神に知られている」と言うのは、その神が一人一人、それぞれを選び、招き、子としてくださり、神の財産を受け継ぐ相続人としてくださっていると言うことであります。
■知恵の書に
旧約聖書とは、通常は創世記に始まりマラキ書に終わる27巻ですが、旧約聖書続編というものがあります。これは1世紀末にユダヤ教の正典を決めますときに正典には組み入れられなかったものですが、元々は紀元前3世紀から紀元1世紀ごろの間に成立したユダヤ教の宗教的文書です。その中に「知恵の書」というものがあります。その13章1節から9節にとても示唆に満ちた箇所があります。少し長いのですが、記します。「神を知らない人々は皆、生来むなしい。彼らは目に見えるよいものを通して、存在そのものである方を知ることができず、作品を前にしても作者を知るに至らなかった。かえって火や風や素早く動く空気、星空や激しく動く水、天において光り輝くものなどを、宇宙の支配者、神々とみなした。その美しさに魅せられてそれらを神々と認めたなら、それらを支配する主が、どれほど優れているかを知るべきだった。美の創始者がそれらを造られたからである。もし宇宙の力と働きに心を打たれたなら、天地を造られた方がどれほど力強い方であるか、それらを通して知るべきだったのだ。造られたものの偉大さと美しさから推しはかり、それらを造った方を認めるはずなのだから。とはいえ、この人々の責めは軽い。神を探し求めて見出そうと望みながらも、彼らは迷っているのだ。造られた世界にかかわりつつ探究を続けるとき、目に映るものがあまりにも美しいので、外観に心を奪われてしまうのである。だからといって、彼らも弁解できるわけではない。宇宙の働きを知り、それを見極めるほどの力があるなら、なぜそれらを支配する主を、もっと早く見出せなかったのか。」これは自然崇拝について書かれたところでありますが、さらに人の手によるものを神々と呼ぶ偶像崇拝の惨めさをこの「知恵の書」は書き表しています。パウロが9節で無力で頼りにならない諸霊とは、まさにこの知恵の書に示されているものを指していると言えるでしょう。ガラテヤの人々の異教崇拝と律法遵守の行いの虚しさを並べて、その行いの愚かしさを強調しているのです。偶像崇拝とは、その命と豊かさからはほど遠いものに依り頼む愚かな行いのことを指すのです。
■時節などの守り
10節でパウロは「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。」と言っています。これは何を指すのかと言えば、ユダヤ教の律法で、安息日の厳守が絶対的と言われてきたことから理解できるでありましょう。日は代表的なものとして安息日、断食日が挙げられるでしょう。月はユダヤの暦で何か特別な行事のある月のこと。時節というのは、過越の祭りや仮庵祭などの年間行事のことであり、年はといえば、7年ごとに巡ってくる安息年、ヨベルの年などを指しているといえましょう。これらを守ることはユダヤ人として当たり前のことでありましたから、体に自然に染み付いていることでもあったわけです。これらに頼ることの問題点は、これさえ守っていれば、神への責任を果たしているという錯覚に陥ることであります。それがパウロが指摘する律法主義の問題点なのです。私たち日本人もそのような慣習的な宗教観に左右されているところがあるのではないでしょうか。例えば「仏滅」などはどの代表的なものかもしれません。縁起が悪い日だから、結婚式はやめておいた方が良い、できれば大安にしたら、というようなことはよく聞くのではないでしょうか。この神道に基づく六曜は長年、カレンダーにも記載されていますから、かなり一般的な日本人に染み付いているものではないかと思います。たとえば、日本の葬儀場は友引が休業日です。それは友人を引き込むとされている日だそうで、結婚式は良いけど、お葬式はダメということから、斎場の定休日となっているわけです。私たち、キリスト者としては全く関係ない事柄ではありますが、葬儀を行う場合はそれに従わなければなりませんから、知っておく必要があるわけです。というように、このパウロが問題とするガラテヤの人々も元々はユダヤ教の慣習に従って生きてきた人々であるわけですから、この暦問題は感覚的に染み付いていたものであったのではないかとも思うわけです。しかし、パウロはNOを突きつけるのです。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ8章において、偶像に備えられた肉でも、それを食べたからといって汚されるわけではない、何かを失うことも、食べたからと言って何かを得ることもない、肉は肉である。ただ、それによって一緒にいる人が惑わされるならば、食べないほうが良い、という程度のことである、と言っていますから、この暦問題もそれに左右されない信仰を保てるならば、どうということはないのでしょうが、このガラテヤの人々はそれによって、神の恵みが見えなくなってしまい、あれこれと付け加えることで、神の恵みのみならず、神が見えなくなり、福音がわからなくなっていたのです。パウロはそのことを問題としています。神が見えなくなり、別の神を探す。これは「かつて」のキリストに出会う前の人間の行動であり、キリストに出会った「今」を生きる私たちの取るべき行動ではありません。ガラテヤの人々はキリストと結ばれることによって与えられた父なる神とはぐれて、迷子になってしまっているのです。パウロが「あなたがたのことが心配です。」と今日の御言葉の最後で言っているのは、それを指摘しているのです。
■結び
私たちにとって、帰るべき場所、居るべき場所がどこであるのか、そのことを常に心に留めておくことが大切なのです。迷子になった子どもは何をしでかすかわかりません。迷子になった子どもを親のもとに、父なる神のもとに連れ帰してくれるのは、主イエス・キリストであります。主イエスは道標でありますから、主イエスに従うことで父なる神のもとに憩うことができるのです。私たちも時に迷子となり、彷徨うこともありますが、たとえ自分を見失ったとしても、主イエスにつながることで再び父なる神との関係を取り戻すことができます。それは教会での礼拝を通して与えられるのであり、そこに真の慰めと平安があるのです。
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