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『希望の道が開かれる』2025年12月28日

  • NEDU Church
  • 1 日前
  • 読了時間: 10分

説教題: 『希望の道が開かれる』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書35:1―10

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書14:1-12

説教日: 2025年12月28日・降誕節第1主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

アドヴェントの4週間は主のご降誕を待ち望む時として、御言葉を聖書日課に沿って聴いて参りましたけれども、降誕節に入りました今週から、再び、マタイ福音書の連続講解に戻りたいと思います。今日からちょうど14章に入ります。13章では天国のたとえがいくつもの形で示されていました。分量的にもちょうど半分ということですが、内容としてもこのマタイ福音書独特の表現、つまり山上の説教に始まる多くの教え、主イエスご自身によるお言葉、たとえ、が13章で終わり、後半部分はクライマックスの十字架へと向かわれる主イエスのお姿が示されていくことになります。

 

■洗礼者ヨハネ

洗礼者ヨハネはこのマタイ福音書3章で登場し、ユダヤの荒れ野で「悔い改めよ、天の国は近づいた。」と宣べ伝えました。そして主イエスはヨハネからヨルダン川で洗礼を受けたのち、4章12節にありますように、ヨハネが捕えられたと聞いて、公の宣教活動を始められました。主イエスはガリラヤを中心として、御言葉をお語りになり、人々に癒しの御業をなさいました。牢に捕えられているヨハネが主イエスの活動をしり、弟子たちを送って「あなたが来るべきメシアですか」と尋ねさせたことが記されていました。この時にはまだヨハネは生きていたということですが、これ以降、今日の聖書箇所に至るどこかのタイミングで今日の聖書箇所に記されている出来事が起こったということです。

ヘロデの兄弟の妻を奪って結婚したヘロデに面と向かって律法で許されていないと言ったことから捕えられたヨハネでありました。5節にはヘロデがヨハネを殺そうと思っていたが民衆を恐れたとありますが、マルコ福音書の記述によれば、「その教えにヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」とありますように、ヘロデは複雑な心境でいたようです。そのことが今日のマタイ福音書では、主イエスの評判を聞いたヘロデが「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」という恐れとして表れていると言えるでしょう。そのような心境であったにも関わらず、ヘロデはヨハネの首をはねて殺しました。誕生日の祝いの宴席でヘロディアの娘の官能的な踊りの褒美として、「願うものはなんでもやろう」と約束した手前、断ることができず、もしくはそれを口実にして殺したということです。

 

■ヘロデの不安と恐れ

先週、私たちは主イエスの御降誕を祝い、クリスマスを迎えました。主イエスがお生まれになった時、ユダヤ人の王が生まれたという知らせを聞いたヘロデ大王は自分の王としての地位を脅かす者が現れたという不安から、主イエスを探し出して殺そうとしました。そしてそれに失敗すると、ベツレヘム近郊の2歳以下の男の子を皆殺しにしました。このヘロデ大王の息子であるヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを殺したわけですが、自分を守るためにはどんなに残酷なことも平気でするということにかけては、父・ヘロデ大王、息子・ヘロデ・アンティパスいずれも同じです。両者ともに、同じ不安と恐れが満ちていました。ヘロデ・アンティパスは洗礼者ヨハネが正しい聖なる人であったことを知っていたと思われるわけですが、それでも自分の弱さと周囲の圧力に屈してしまった。ヨハネを恐れ、民を恐れ、そして人の目を恐れたのでした。彼は力を持っていましたが、真の自由は持っていませんでした、それどころかますます罪の闇に囚われていったのです。

 

■恐れではなく

洗礼者ヨハネは荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と語りました。それは今日、与えられたイザヤ書35章の預言者イザヤの言葉と重なります。イザヤは言いました。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。」こうして神の栄光が荒れ野から始まるのだという希望が告げられています。続く3節には「弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」と力強く神の救いの約束を告げています。このイザヤの言葉は、支配の中に生きる者たちへの希望が語られています。闇から光へ、支配から解放へ、絶望から栄光へと大きく変容する世界の始まりがここに告げられているのです。5節にはこうあります。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」主イエスによってなされた数々の回復の奇跡、人々の解放の御業はここにイザヤによって示されていました。8節にありますように、この道は「聖なる道」です。神は荒れ野の中にも道を開かれます。絶望や悲しみの只中に、神は命の道を通されるのです。ヨハネはその道を指し示す先駆者でした。ヨハネは後からくる優れたお方のために、恐れるなという神の希望の言葉を伝え、神が共にいてくださるという慰めを語ったのです。

 

■共通の罪

洗礼者ヨハネはその言葉と行為において、主イエスの先駆者でありましたが、その死においても、先駆けであったと言えるでしょう。主イエスも洗礼者ヨハネと同じように、いえ、それよりももっと残虐な仕方で殺されるのです。ヨハネの死は十分に残酷ですが、あっという間に首をはねられて息を引き取りました。主イエスは鞭打たれて、そして十字架の上で晒し者にされて、苦しんで息を引き取られました。敵となったのは権力者だけでなく、民衆の敵意をも受けて、あざけられながら時間をかけて殺されたのです。更なる共通点もあります。それは洗礼者ヨハネ、主イエスを死に追いやった人々の間の共通点です。ヨハネを殺したのはヘロデでしたが、そのように誘導したのはヘロディアでした。そして主イエスにおいては、祭司長たちが群衆を誘導しました。自分の手を汚さずに、陰で操ったのです。またヘロデの誕生祝いの席において、ヘロディアの娘が「洗礼者ヨハネの首を盆に乗せて、この場でください。」と言った時、聞いていた人の中にそのような狂気に満ちた行為を止める者はありませんでした。群衆が主イエスを「十字架につけろ」と熱狂的に叫んだ時も、止める者はありませんでした。心では間違っていると思った人もいたに違いありませんが、沈黙のうちに肯定するという罪を犯したのです。最終的な判断を下したヘロデ、そしてピラト、どちらも心のどこかに痛みを覚えながらも留まる勇気を持たず、最終的に大きな罪を犯しました。力を持つ者としてその権力を誇示しながらも、その力を失うことを恐れ、周囲を恐れていた者たちでした。主イエスはご自分の先駆者となったヨハネの死を受け止めて、引き受けておられるのだと思うのです。そしてヘロデのそのような弱さは主イエスの評判を聞いたときの「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。」と言ったそのセリフに表れているのです。主イエスのなさった御業やその教え、それらは力強くヘロデに迫ってきました。天罰が下るのではないかと思い、恐ろしくてなりませんでした。彼にとって主イエスの御声、御業は自分が殺したはずのヨハネが生き返ったとしか思えなかったのです。このようにヘロデの世界には恐れがありました。恐れが彼を支配していたのです。ヘロデが洗礼者ヨハネを、祭司長たちが主イエスを殺しました。彼らはこのようにして自分にとって邪魔な神の言葉を殺しました。人間はこのように罪を犯し続けてきたのです。しかし、人間の罪を超えて、神の声は響いてくる。それが復活です。主イエスは甦りをなさいました。主イエスは今も生きておられて、そして働いておられます。神の言葉を響かせてくださっておられるのです。神の言葉は決して滅びることはないのです。ヘロデは恐れに支配されていましたが、神の国では、恐れではなく信頼が支配します。荒れ野でも神ご自身が先立って歩んでくださいますから、その道は聖なる道となり、安心して歩むことができる道なのです。砂漠であったところに花が咲くというように、命が溢れるのです。

 

■神の救いの完成のとき

洗礼者ヨハネの死は人間の目から見れば敗北に見えるかもしれません。しかし、神の目においては、それは神の救いの歴史における必然です。そして神の目から見れば、それは真理のために命をかけた証言なのです。真理とは単なる正論ということではなく、人が神との関係に生きるため、人が神に立ち返るための言葉でした。命を得るために、神とともに生きるために、ヨハネは語ったのです。彼の毅然とした態度の背後には、神へのこの上ない信頼がありました。真理に生きるということは、神の光の中に置かれること、神の光の中に立つことです。光は暗闇の中で輝き、そしてその光は、私たち人間の罪、弱さ、全てを明らかにしますけれども、同時に私たちを赦す光であり、命の光、新しく生かす光なのです。

洗礼者ヨハネの死は無駄ではなく、先駆者として、主イエスを指し示し、そして主イエスの十字架と復活によって、荒れ野に命の花が咲いたということです。今日のイザヤ書35章10節は以下のように結ばれています。「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。」ここに示されているのは喜びであり、悲しみではありません。光であり、闇ではありません。死ではなく、命です。神の救いの完成の時、このようであるという約束が示されています。荒れ野に花が咲き、人々は喜び歌いながら、聖なる道を凱旋するのです。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」とヨハネ黙示録21章3節にある通りです。神は常に私たちをこうして慰めてくださり、そこにあるのは喜びなのです。

 

■結び

2025年が終わろうとしています。今年はどのような年であったでしょうか。世界を見回せば、争いは燻り続けていますし、差別は無くなりません。自然災害も多くあった年でありました。異常気象も続きました。身近なところでも長く続く暑さのせいもあり、物が高くなり、生活に困難を覚える方もおられました。私たちの教会でも病に苦しむ方が多い年であったと思います。そんな生活のどこに喜びがあるのか、と思われるかもしれません。しかし、喜びは確かにあるのです。今日与えられた御言葉の最後にはこうあります。「それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。」今日の箇所には実際の主イエスは登場いたしませんでしたけれども、洗礼者ヨハネを通して主イエスはしっかりと映し出されています。そして来週、新たな主の年2026年の始まりに私たちは主イエスの命の御業に触れます。来週13節の始まりには「イエスはこれを聞くと」とあります。つまり、洗礼者ヨハネの死を聞いた主イエスがどうなさったか、ということが次回示されるわけですが、その場を退き、祈り、そしてそこから主イエスは五千人に食べ物を与えるという奇跡をなさいます。死の知らせの後に、命の出来事が記されるのです。これが神の救いの物語であります。わたしたちにも恐れがあり、悲しみがあり、苦難があります。しかし、わたしたちと共におられるお方は命の源。そして私たちの弱った手に力を与え、よろめく膝を強くして立たせてくださるお方なのです。その方が先立ってくださる聖なる道を、力強く歩むとき、わたしたちは喜ぶのです。その方に信頼して希望を持って歩み出す日々でありたいと祈り願います。

 
 
 

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