説教題: 『安心して行きなさい』
聖書箇所: マルコによる福音書 5章21節~43節(1)
説教日: 2022年9月25日・聖霊降臨節第十七主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
マルコによる福音書5章21節から43節、かなり長い箇所を読みました。お分かりの通り、ここには2つの大きな出来事が重なり合って同時進行で書かれております。登場人物として見てみますと、会堂長ヤイロ、十二年間出血の止まらない女性、そしてヤイロの娘、であります。この出血の止まらない女性とヤイロの娘の救いの出来事が今日の聖書には記されています。しかも、この二つの救いの記事は並んで記されているのではなく、ヤイロの娘の癒しに挟まれるようにして出血の止まらない女性の救いが記されています。つまり、21節から24節の前半でヤイロが娘のことを話し、24節の後半から34節が女性の救い、そして35節から43節にヤイロの娘の救い、という構造です。なぜマルコはこの出来事をこのように書いたのでしょうか。それはこの二つの話が密接に結びついており、両方合わせて一つのことを語りたい、という意図があるからです。本来であれば、切り離さずに読みたいのですが、2回に分けて、今日は真ん中に挟まれている十二年出血が止まらない女性の救いの出来事を前編として聴きたいと思います。
■ひれ伏すヤイロ
「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると」と21節は記します。この直前の記事で
主イエスはカファルナウムから弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われて、東側のデカポリス地方ゲラサ人の地へ行かれ、悪霊に憑かれた男を癒されました。そして再び舟に乗ってガリラヤ地方に戻ってこられました。主イエスを出迎えたのは、会堂長のヤイロでした。会堂長はユダヤ人の礼拝所、シナゴーグの責任者です。人々から信頼されていた信仰者でありました。ヤイロと言う名前が記されていることからも、この人がある程度知られている人であることがわかります。主イエスは安息日には会堂で教えておられましたから、おそらく顔見知りであったと思われます。そのヤイロの12歳の娘が死にそうになっていました。主イエスのお姿を見るなり、「足元にひれ伏し、願ったのです。」この地域での有力者ともいえるヤイロですから、医者をはじめとしてできる限りのことはしたはずです。しかし万策尽きてしまったのです。主イエスに手を置いていただいたら、きっと癒される、ヤイロはそのように思い、主イエスにしきりに願ったのです。主イエスの周りには大勢の群衆が集まっていました。その群衆の目の前で、主イエスの足元にひれ伏して、しきりに願う、普段人々から尊敬を集めているヤイロにとって、それは勇気のいる行動でした。
■十二年間も出血の止まらない女性
主イエスと弟子たちはヤイロに案内されて、家へ向かいます。大勢の群衆も事の成り行きを見守りつつ、一緒について行きました。ここで今日の主人公が登場いたします。十二年間も出血の止まらない女性もその群衆の中にいました。彼女については名前も記されていません。出血が止まらないという婦人病にかかったこの女性は汚れたものとされていました。彼女だけでなく、彼女と接触することも汚れとされていました。ですから、隔離されるかのような扱いを受け、他者から疎まれ、関係を断たれていました。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、まずます悪くなるだけであった。」と記されています。様々な治療法をためし、病気を治すために何でもやってきました。それでも病気は良くならず、悪くなるばかりでした。病気による肉体の苦しみ以上に、汚れたものとして扱われて精神的に苦しめられていました。そんな彼女が主イエスの癒しの御業のことを聞いたのです。主イエスのことはガリラヤ地方に知れ渡っていました。「あのお方なら、癒して下さるのではないだろうか、」彼女はそう考え、主イエスに望みをかけて群衆の中に紛れ込んでいました。おそらくはすっぽりとベールをかぶり、顔を隠していたことでしょう。知っている人に見られたら、「汚れた者がくるところではない。汚れが移るではないか」と叱責され追い返されてしまうからです。身を隠しつつ、人をかき分けて、主イエスに近づいて行ったのです。
■服に触れる
「この方の服にでも触れればいやしていただける。」彼女はそう思いました。会堂長ヤイロのように、主イエスに話しかけ、「癒して下さい」とお願いするようなことはできるはずはありません。「直接に触れていただくことはできなくとも、この方の服に触れられれば・・・」彼女はそう考えたのです。彼女は汚れた者とされていたわけですから、彼女が「触れる」というのは、とても大胆な行為です。決して他のものに触れてはならないとされてきました。その手は汚れているとされていました。ずっと人々から疎まれ、拒否され、人と関わってはならないとされてきた彼女は、震える手を伸ばして、そして主イエスの服にそっと触れるのです。
主イエスに触れると、「すぐに出血が止まって病気がいやされたことを体に感じた」と聖書は記しています。「触れれば癒していただけるのではないか」と思った通り、癒しが与えられました。彼女は喜びに満たされたことでしょう。そしてひそかにその場を立ち去ろうとしたはずです。自然に病が癒されたとして、規定通りに汚れの清めの儀式をおこなえば、再び共同体に戻ることができるからです。しかし、主イエスは「自分の内から力が出ていったことに気づいて」「わたしの服に触れたのは誰か」と言われました。弟子たちが言うように、主イエスの周りは群衆で一杯でした。主イエスを取り囲んで群衆がひしめき合っていたのです。ですから誰が触れたかと言われても・・・と言う状態でした。しかし、主イエスは問われるのです。主イエスは癒しを求めて触れた、ひとりの人を見つけようとされたのです。実は主イエスは誰が触れたのかはご存知でありました。しかし、そうしてお言葉をかけて、ご自分から出会おうとしてくださる。主の交わりへの招きの言葉なのです。
■「あなたの信仰があなたを救った」
この十二年も出血の止まらない女性は、いわばご利益を求めて主イエスに触れようとしました。いままで何をやっても効果がなく悪くなるばかりでしたから、よくなったらもうけもの、のように思っていたのです。彼女の願いは確かに心からの思いではありましたが、自分の願いを叶えるため、自分の苦しみを取り除くために、神を求めたのです。
神を求めることは大切なことですが、神様は自分の希望の願いを叶えて下さるための存在ではありません。神様を礼拝し、神様の求めに従うこと、神からの呼びかけに応え、その交わりの中に生きること、それが信仰に生きるということです。ですから、彼女のとった行動は、信仰によるものとは言えませんでした。主イエスから「あなたの信仰があなたを救った」と言ってもらえるほどの立派な信仰ではありませんでした。主イエスのこのお言葉はどのような意味を持っているのでしょうか。
ここで大切なことは、主イエスの問いかけ、そしてそれに応えるという関係性です。主イエスはご自分に触れたのは誰かということは十分にご存知でした。それにもかかわらず、問いかけるのです。それはそれに応答する答えを待っておられるからです。主イエスの問いに対して、きちんと立つことを求めておられるのです。
彼女は「私に触れたのは誰か」と言う主イエスのお言葉に、「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」と記されています。彼女は十二年間も苦しめられていた病から解放され、願いが叶いました。その身に起こったことは喜びであったでしょうが、彼女は「恐ろしくなり震えていました。」この「恐れ」と「震え」「おののき」はどこから来るのでしょうか。それは、主イエスが本当の真の癒しをお与えくださる方であることを知った驚きと恐れです。彼女にとって病は絶対的なものでした。その変わらない絶対的なものが一瞬にして消え去った。絶対的な力をふるう病を超える存在、抜け出すことのできない深い闇の世界から、一瞬にして光の下へ彼女を連れ出すことのできる力、それが神であることを彼女は知ったのです。
そしてその方から呼びかけられ、彼女はそのお方の御前に立つ。今までの自分のいた世界とは違う領域へ呼びかけられ、彼女は恐れと震えを感じ、その方にひれ伏し、すべてを話す。この主の呼びかけへの応答が信仰の始まり、真の救いの始まりであります。「あなたの信仰があなたを救った」この主のお言葉は、「あなたはわたしを信じる者となった。あなたは救いを得た」という主イエスの宣言です。この主イエスの宣言によって、私たちはキリスト者として歩んでいくことができるのです。
■「安心して行きなさい」
「安心して行きなさい」と言う言葉は、「あなたは平安の内に行きなさい」と訳すことができます。これは神からの祝福のことばです。神の救いの力強い約束なのです。平安は神が人に与えてくださる究極の平和です。彼女は今まで共同体から切り離され、家族からも離れて、ひとりで生きていくしかありませんでした。おそらく生きている喜びもなく、隠れるようにひっそりと暮らしていました。しかし、主イエスとの出会いによって彼女は平安を与えられました。この女性はこの後、どのように生きただろうかと思いを馳せます。
長い間、人とかかわりを持たずに生きてきたのです、友人といえる人もほとんどいなかったでありましょう。人々と会話することもあまり得意ではないままだったかもしれません。そう考えますと、この世的にはあまり幸せな人生を送れなかったかもしれない。それでも彼女は主にある平安に満たされ、喜びをもって生きていったと思うのです。たとえ苦難が訪れようとも、主が共にいてくださる、と信じて歩み、彼女の生の終わりの時も、主イエスによって与えられた平安の内にその生涯を終えたと思うのです。「平安の内に生きる。健やかに、元気に暮らす」とはそういうことです。
そしてこのお言葉は、これからの彼女の人生を支えると同時に、辛く悲しみに満ちた病の十二年も意味のあるものにしてくださいました。財産を使い果たし、病に苦しみ、人々に蔑まれて過ごした年月、そのすべてが意味をもったのです。主イエスに出会うとはそういうことなのです。
十字架の死から復活された主は私たちとずっと共にいてくださいます。病は主によって癒されて、そして死を超えて永遠の命の約束を私たちと結んでくださり、その交わりの中に私たちを置いて下さり、新しく生かしてくださるのです。それゆえ、わたしたちは「安心して行く」ことができるのです。
■時を支配するお方
今日の御言葉はヤイロの娘の救いの前に起こった女性の救いの話でした。はじめにこの二つの出来事は大きく結びついている、それゆえにサンドウィッチするようにこの女性の話を間に挟んでいると申しました。次週はそのヤイロの娘の出来事をみますので、予告編を少しお話しいたします。この出血の止まらない女性は十二年の月日苦しみ、もはや将来に希望を持てずにいました。ヤイロの娘は12歳の少女です。その少女が死の淵に追いやられ、希望のある将来が閉じられようとしていました。
■結び
この続きは次週に、と少しもったいをつけたようでありますけれども、神は時をも支配されるお方、その救いの御業の出来事に耳を傾けたいと思います。
わたしたちが神様を求める動機は、決して正しく真っ直ぐなものではなかったかもしれません。自分の都合の良い神様を求めていたかもしれません。しかし、主イエスが私たちを招いて下さり、名を呼んでくださり、その御声に応答して私たちがその御前に立つとき、主イエスは神との交わりの中に私たちを置いて下さり、平安の内を歩む者としてくださるのです。主は言われます。「安心して行きなさい。」その言葉を頂いて、それぞれの場に送り出されて参りましょう。
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