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『子供の時代』 2024年4月21日

説教題: 『子供の時代』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書59:21 

聖書箇所: 新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙4:1−7

説教日: 2024年4月21日・復活節第4主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

■はじめに

今日の4章の御言葉は「つまり、こういうことです。」と始まっています。パウロが何を説明しようとしているのか、と言いますと、前回3章23節以下に語ったことを改めて別の喩えを用いて説明しようとしているのです。前回の箇所では律法が養育係である、と告げられていました。養育係はまだ物事を理解できない子供を守り、導く、そのためには時に監視の役割も果たすこととなったというわけです。神がイスラエルのために律法を与えた目的はこのように理解できるのではないでしょうか。つまり、肯定的側面と否定的側面です。肯定的側面とは、本来、律法は神の民としての歩みが示されたものでありました。神との正しい関係、神の御心を行うための道、それが言語化されたものであると言えます。主イエスが最も大切な戒めとして挙げられたように、「心を尽くして、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する。そして隣人を自分のように愛する。」つまり神と人とを愛する生き方を歩むために示されたのが律法であります。逆に律法の否定的側面と言えるのは、例えばこのようなことです。十戒に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」とありますが、それに続く言葉はこうです。「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」そのような「罰せられる」という言葉に人間は目を留めました。罰せられないためにはどうするべきか、といった形に変質していったのです。そのことをパウロは前回のところは養育係という例を用いて話し、律法は主イエス・キリストのもとへ導くためのものであり、成長した子供が養育係を必要としないように、私たちキリストに結ばれた者は、律法の持つ否定的な側面からは解放されるのだと語ったのです。

 

■人間の持つ悪の性質

本来、人間は神から愛され、神を愛す、人を愛し、人から愛されるという相互関係、win-winの関係にありました。しかし、人間の自己中心性、また、アダムがエバに責任転嫁し、エバはヘビに責任転嫁したように、自分かわいさ、自己愛ゆえに人をおとしめるという罪に入り込むことになりました。それらの罪をパウロは悪徳表という形で列挙しています。その一つ、ローマの信徒への手紙1章29節以下にはこのようにあります。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念、陰口、人へのそしり、神を憎み、人を侮り、高慢、大言、悪事をたくらむ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲。」パウロがこうしてあげた悪、こうして聞きますと、私はこんなにひどい人ではない・・と思いたいし、思うと思いますが、その一つ一つが時々顔を出す、心の中にこのような思いが生まれる、という意味においては、私たち人間すべてがこのような悪の性質を持ち合わせています。人間は律法の役割の肯定的側面に従って、神と人を愛し愛されるということよりも、悪の性質に従って、否定的な側面に傾き、それによって人を裁き、同時に律法の支配下に生きる者となってしまったのです。

 

◾️世を支配する諸霊

2節に「父親が定めた期日まで」とあり、そして3節に「未成年であったときは」とあります。父親は多くの財産を持っています。そしてその子供はその財産を受け継ぐことになっています。しかし、未成年である間は、その財産は後見人や管理人のもとにあり、財産を自由にすることはできない状態にあったということを示します。後見人や管理人は現代でいうところの司法書士や弁護士といった立場のような人を指すと考えたら良いでしょう。この「未成年であったとき」というのは前回見ました御言葉の「信仰が現れる前」ということと同じであります。つまり、「主イエスが来られる前」という意味であり、パウロは福音によって与えられる霊的な真理を説明するのに、このような世の中の仕組みを用いて詳しく説明しているのです。そして、わたしたちが「未成年」つまり、主イエスの福音に出会う前は、世を支配する諸霊の奴隷であった、というのです。ユダヤ人にとっては律法に捉われていた、ということでありますが、ここではもっと広く異邦人に向けての意味が含まれています。つまり、ヘレニズム文化に生きる人々に向けて語られているからです。ヘレニズムとは、古代オリエントとギリシアの文化の融合を指す言葉です。

この「世を支配する諸霊」という言葉から思い出されるのが、使徒言行録17章16節以下です。パウロはギリシアのアテネでキリストの福音を伝えます。しかし、アテネの人々、つまりヘレニズム文化における哲学の代表的な人々、エピクロス派やストア派の人々にはなかなか理解してもらえません。エピクロス派やストア派の哲学的な考え方をここで詳しく紹介することは控えますが、簡単に言えば、どちらも個人の幸福を追求するものでありました。そしてそれは人間の理性においてコントロールできると考えているといったら良いでしょうか。ですから、神を唯一絶対的な存在とは考えておらず、人間の幸福のためにその場に見合った神を祀っていたのです。パウロはそのような人々を尊重しつつ、というか、けなすこと無くこのようにいうのです。17章22節以下「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることをわたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると『知られざる神へ』という祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物を造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」パウロはこのようにして、唯一絶対の神を知らせようとしました。このヘレニズム文化における神の考え方は日本の八百万の神々の考え方、日本人の宗教観と似ていると思うのです。その場にあった神を当てはめて満足する。それは決して、唯一絶対の神に従っているのではなく、パウロが3節でいう「世を支配する諸霊」の奴隷であったということに他なりません。この「世を支配する諸霊」というのは日本人の宗教観と似ていると申しましたが、個々の人の内面にも見ることができるでありましょう。

私たちも唯一絶対な神、主イエスの父なる神を知っていても、時に「世を支配する諸霊」の奴隷となるのです。例えば、実生活において、会社や学校における成果という具体的なものだけではなく、あらゆる人間関係の行いによって達成感や満足感を得て、それによって自らの人生に価値があると実感しているということはないでしょうか。自分の人生の意味は自分の行いによって得られると思っているのです。しかし、そのような生き方においては、できないことで失望し、できない人を裁きます。その判断基準は「世を支配する力」ということでありますから、その基準は神ではなく世を支配する何かの力ということになってしまうのです。しかし、私たちはもはや、そのような「世を支配する諸霊」の奴隷であった「未成年」ではなくなっている、とパウロは言います。

 

■時が満ちると

ヘレニズムの哲学者たちは人間の感覚によって神を見出そうとしましたが、神を見出すことはできませんでした。そして唯一絶対的な神を知っていても、それよりもその戒めに捉えられてしまい、神の求める本質から離れてしまったユダヤ人たち、彼らも神の求めておられる道には辿り着きませんでした。しかし、神はその解決の時を定めておられました。4節、「時が満ちると」神は、その御子を女から、しかも律法のもとに生まれた者としてお遣わしになりました。いうまでもなく主イエスのことであります。主イエスを人として、我々と同じ人間の肉体を持つ者としてマリアから生まれさせ、そして神ご自身が定められた律法の下で生きるようになさいました。それは人間が誰一人として守り通すことのできなかった律法の要求をこの方において満たすためでありました。それは主イエスが満たすのと同時に、私たちの解放のためでもありました。前回の3章27節にはこのガラテヤ書を代表すると言っても良い御言葉がありました。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」。主イエスを救い主であると告白して、洗礼を受けた私たちは、皆、キリストという衣を纏っているのであり、それによって私たちは「神の子」とされているのであります。この「『神の子』となさるため」というのはいわば養子縁組ということです。ちょっと具体的にこんな状況をイメージしてください。父を病気で失ってしまった子供がいました。母と二人の生活をしていました。しかし、しばらくして母が良い人と出会い、結婚したのです。子供である彼と戸籍上も養子縁組をしました。父となった人はとても優しく温かい人でした。新しい生活が始まり、彼は「お父さん」と呼べる人ができました。はじめはなんだか恥ずかしいような気がしましたが、慣れるとそれはとても自然な呼びかけになりました。「お父さん!」こう呼びかけて、「なんだい?」と応えてくれる人がいることが、こんなにも幸せなことなのか、と思うのです。「アッバ、父よ」私たちがこのように天の父を呼ぶことができるのは、まさにこのようなストーリーに似ています。私たちもキリストによって、父と養子縁組をしていただくことができました。そして神は、そのようにして子供となった者たちのことを一人として離れることはないのです。神がはじめに契約を結ばれたのはアブラハムでした。そしてその契約はアブラハムだけでなく、その子孫、そのまた子孫、それはとこしえに続くのだと言われました。民がどんなに神から離れても、神はその約束を反故にはなさいませんでした。それは一方的とも言えるものでありました。神の言われる「とこしえ」は私たち人間の「とこしえ」、永遠とはスケールが違うのです。私たち人間にとって、「とこしえ」は自分の命の続く限り、という約束はできても、それ以上のことは約束できません。しかし、神の「とこしえ」は子孫の、子孫、そのまた子孫へ、と忘れ去られることなく続くのです。そのイスラエルの民への約束は、主イエスが人として来てくださったが故に、十字架におかかりくださって、私たちを解放してくださったが故に、主イエスを救い主と信じる者は皆、神の子どもとなり、それは全世界へと広がりを見せるものとなっているのです。

 

■結び

神は主イエスを通して、私たちと養子縁組をしてくださいました。それによって、神の戸籍謄本には私たちの名が記されております。フィリピ3章20節に「私たちの本籍は天にあります。」と記されていますが、その通りであります。神の約束は取り消されることはありませんから、私たちは神の子どもとして戸籍に記されて、そして一人一人が神からの財産分与を受けることができる、とされているのです。そしてそれは始まっています。神は全ての良きものを私たちにすでに与えてくださっているのです。私たちのこの世での歩みはそれらの神から与えていただくものを一つ一つ受け取っていく歩みです。後見人や監督者のいる未成年ではなく、すでに相続権を認められているというのは、ひとえに主イエスが神との間にいてくださり、父なる神が独り子主イエスを愛されたように、私たちを愛してくださっているからであります。神の御心は主イエスに従うことであり、私たちが親しく「アッバ、父よ」と呼びかけることをいつも待っておられるのです。心からの感謝を持って、父を呼び、父なる神の子供としての歩みを続けて参りたいと思います。

 

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