top of page

『子供たちの共同体』 2026年3月29日

  • 1 日前
  • 読了時間: 10分

説教題: 『子供たちの共同体』 

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書11章1-10節

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書18:1-9

説教日: 2026年3月29日・受難節第6主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」やってきた弟子たちが主イエスにこう尋ねるシーンで今日の箇所は始まっています。かなりあからさまな質問です。なぜここで弟子たちはこんな質問をしたのでしょうか?ここで「だれが」と言っているのは、明らかに自分たち弟子たちの中の上下関係のことを言っているのでしょう。この状況の背景として、少し前からの主イエスと弟子たちのことを振り返っておきたいと思います。16章13節以下でペトロが「主イエスはメシア、生ける神の子」と告白し、主イエスは「この岩の上にわたしの教会を建てる」と、教会はそのような信仰告白という岩、土台の上に建てられるということが示されました。そして主イエスはそれに続けて受難予告をなさいましたけれども、弟子たちはそれをきちんと受け止めることはできませんでした。エルサレムに行って、立派な王として君臨するという幻想を抱いていたということです。そしてその後、主イエスは弟子の中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて山に登られました。残された9人は、あの3人だけ特別扱いか・・・と思っていたことでしょう。さらに彼らは麓で待っている間に、病を癒すことができなかったという失敗もありました。続く17章の終わり、前回のところでは主イエスとペトロだけのシーンがありました。ペトロは最初の弟子としての自負があったでありましょうし、弟子たちを代表するかのように信仰告白をしたのも彼でした。そのような弟子たちの中の人間関係において、やっぱりあいつが一番か・・・となるとその次はだれなのか、というように順番を気にして議論していたのでしょう。もはや、彼らの中だけでは収拾がつかなくなり、それでは師であるイエス様に聞いてみようということになったのではないでしょうか。弟子たちの姿はまるで私たちの姿です。

 

■子供のようにならなければ

弟子たちのこの問いに対して、主イエスは一人の子どもを呼び寄せて、彼らの中に立たせました。そしてこのように言われました。3節、4節です。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」実はこの弟子たちの中でだれが一番偉いのか、という話は共観福音書のマルコとルカにも記されていて、いずれも一人の子どもを彼らの真ん中に立たせて、主イエスがお語りになるのですが、今お読みした3節、4節の言葉はマタイだけにしかない言葉です。つまり、マタイは後に続く5節「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」に「心を入れ替えて子供のようにならなければ」という教えを加えているということです。そのように読みますと、今日の箇所において、マタイが告げたかったことというのは「心を入れ替えて子供のようになりなさい」ということと、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのだ。」というこの二つの教えがつながっているということです。「子供」というキーワードで二つの教えが繋げられていると言っても、「子供のようになる」と「一人の子供を受け入れる」というのは全く別のことです。そしてそれがこの弟子たちの発した「だれが天の国で一番偉いか」という問いの答えである、と主イエスは言っておられるわけです。

 

■父の子供として

最初の教え、「子供のようにならなければ、決して天の国に入ることができない。」と聞きますと、どんなふうになることだと考えますでしょうか。「子供」という言葉から私たちが考えますことは、純真であるとか、無邪気であるとか、心が清い、というようなことでしょうか。この後の主イエスのお言葉には、自分を低くして、という教えもあります。そうしますと、人よりも偉くなろうと考えず、自分を低く謙遜になるということでしょうか。そして4節で主イエスはこう言われました。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」これを聞きますと、天国でも偉さの競争はあるのか、と混乱するわけです。「弟子たちの誰が一番偉いか」という一等賞をめぐる競争は、大人のようでなく、子供のようになって、自分を低くして謙遜になり・・・そうしますと今度は誰が一番小さいか、小さくなれるかという競争になってしまいます。主イエスは当然ですが、そのような競争を言っておられるわけではありません。ここで「一番偉い」と訳されている言葉は、元の言葉では「大きい」です。天の国における大きさというのはそのような基準で測れるものではないのです。ここで主イエスがなさった行動を見てみたいと思います。2節です、「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ」とあります。どのような子供なのかはわかりません。しかし、近くにいた子供をお呼びになった。そうしたら、その子供は素直に主イエスのもとにきた。呼ばれたからきた、ただそれだけのことです。何も複雑に考えているわけではありません。しかし、これがポイントです。主イエスの招きに応えた。これが「子供のようになる」という言葉の意味なのです。大人は招かれても、素直に招きに応じないことがあります。この招きの意味は、とか、自分では相応しくないのではないか、とか考えて、招きに対して色々考えて躊躇いたします。ここで示されている子供とは大人、親に対して表現されている子供です。子供は自分の親を信じています。人混みの中では親の手を離さず、迷子になれば泣いて親を探す。それが子供なのです。子供の眼差しは真っ直ぐにただ親を見つめているのです。それが父と子の関係です。ですから、「子供のようになる」ということは、私たちが神様を、天の父を、主イエスが天の父を「アバ」「お父ちゃん」と呼んだのと同じように呼ぶようになるということです。私たちが洗礼を受けるというのは、そのように父を呼び始めることなのです。私たちが罪から救われるというのは、その父から愛されていることを知ることです。子供が親の愛を疑わずに甘えるように、神の愛を信じてよりすがることです。神がこの私を子供として受け入れてくださり、愛し、赦してくださっているということを信じて、神の子供となって生きるということです。その時、私たちは自分がどんなに小さい者であるかを知ります。しかし、同時にそれは神の目に自分はかけがえのない大きさで受け入れられているのかということを知るということでもあります。イザヤ書43章4節には「わたしの目にはあなたは価高く、貴く」という言葉がありますように、神の目には一人ひとり、それぞれが途方もない大きさで受け入れられているということです。天の国はそのような者たちが生きるところなのです。そしてその天の国を地上に実現しているところが教会なのです。

 

■小さいものを受け入れる教会

前半部分で「子供」と表現されていた言葉が、6節以降では「小さな者」と表現されています。この6節以降では「つまずき」についての教えです。5節で語られた「一人の子供を受け入れる」ということは、神の愛を信じて生きる、天の父を素直に父よ、と呼んで生きるということであると申しました。主イエスがこのように弟子たちにお話になった時、地上にはまだ教会はできていませんでしたけれども、主イエスはすでにペトロの信仰告白を受けて、主イエスが天に昇られた後、弟子たちによって形成されていく地上の教会のあゆみに目を向けておられました。この「教会」という言葉は、福音書にはこのマタイ福音書にしか出てきません。主イエスはこの後、形成される地上における天の国がどのような群れ、どのような教会であってほしいかということをここでもお話しされているのです。子供を受け入れる、つまり、天の父を父として受け入れる、それはキリスト者となるということであり、教会共同体の一員であるということです。今日のこの箇所で、主イエスは教会の本質と責任について語っておられます。子供とは、信仰的に弱い者、社会的に小さい者、共同体の中で力を持たない者の象徴です。そして教会は小さい者を受け入れる共同体であり、教会がキリストの体として具体的に現れる場であるがゆえに、小さい者を受け入れることはキリストを受け入れることなのです。教会は小さい者を守る責任があるということを主イエスは弟子たちに語っておられます。

 

■つまずきへの警告

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」と語られます。「つまずく」とは主イエスを信じる信仰から逸れてしまうということです。信仰を失ってしまうとも言えるでしょう。「つまずかせる」ですから、人をそのように信仰から引き離してしまうことの災いが語られています。私たちは誰もが、他の信仰者をつまずかせることのないように、と思っているわけですが、それでも時にそのようなことは起こります。パウロはコリントの信徒への手紙1の8章以下で偶像に供えられた肉を食べる問題に対して、キリスト者はたとえそれが偶像に供えられた肉であったとしても、食べることに何の問題もないが、未熟な信仰、つまり、それを食べることによって気に病むような隣人がいるならば、その人のために食べるべきではない。その人のつまずきになってはいけない、愛の秩序を優先すべきであると言っています。そしてこの「つまずき」は自分自身でも起こることであると主イエスは言われます。「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。」「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。」と強い言葉が続けられています。これは比喩でありますから、実際に手や足や目を切り捨てなさいと言うことではないわけですが、自分のうちにつまずきがあるならば、容赦無く捨てなさいという勧告です。つまり、つまずきとは信仰から引き離すことですから、神から離れさせるものがあるならば、それを捨てよと言うことです。私たちを神から引き離そうとする力、それは誘惑として私たちに襲い続けています。また、私たちの信仰というのは、それによって養われ、練り上げられていくのです。ですから、誘惑のない信仰生活はありませんし、つまずきのない信仰生活というものもありません。その度に、私たちは、罪人である私たちを神が赦し、愛し、子供として受け入れてくださっているということを改めて覚えるのです。そしてそのために神の独り子である主イエスが私の罪を背負って十字架の苦しみと死を引き受けてくださった、そして復活してくださった、その大きな恵みに感謝して生きるのです。私たち一人ひとりが神に受け入れられた子供であるからこそ、私たちも一人の小さな者を受け入れることができます。主イエス・キリストの教会、この地上における天の国の実現である教会はそのようにして築かれていくのです。

 

■結び

私たち一人一人が神の子供であります。確かに人間的には年齢や経験の差があり、能力にも差があります。しかし、神の目には何の差もありません。同じように神の愛のうちに置かれている子供たちなのです。私たちの共同体は、小さな者を受け入れ、主イエスを受け入れ、共に神の子としてこの教会共同体を築き上げていきたいと願います。招かれて、そしてその招きを受け入れる。私たち一人一人その働きに参与したいと思います。そしてその招きの共同体の中に、神の愛があります。私たちも主イエスが言われたように、互いに愛し合う者たちでありたいと思います。そして神の赦しがあり、慰めがあります。私たちも共に慰めを祈り合うものたちでありたいと思います。さらには主の再臨の望みがあります。共にその日を待ち望みつつ、兄弟姉妹、そして自らの信仰の養いを祈り合いたいと思うのであります。

 
 
 

最新記事

すべて表示
『神の子どもたちの自由』 2026年3月22日

説教題: 『神の子どもたちの自由』  聖書箇所: 旧約聖書 出エジプト記30章11-16節 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書17:22-27 説教日: 2026年3月22日・受難節第5主日  説教: 大石 茉莉 牧師 ■ はじめに 今日の始まりは主イエスご自身による2回目の受難予告の箇所です。ご自身による受難予告は3回、第1回目は16章21節以下にありました。「このときから、イエスは、御自

 
 
 
『不信仰な時代でも』2026年3月15日

説教題: 『不信仰な時代でも』  聖書箇所: 旧約聖書 申命記32:3-6 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書17:14-20 説教日: 2026年3月15日・受難節第4主日  説教: 大石 茉莉 牧師   ■ はじめに 今日与えられた箇所は、前回の箇所と深いつながりがあります。冒頭の「一同が群衆のところへ行くと」という言葉がそれを物語っています。主イエスは3人の弟子を連れて山に登られました

 
 
 
『栄光を見せられて』2026年3月8日

説教題: 『栄光を見せられて』  聖書箇所: 旧約聖書  マラキ書3:19-24 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書17:1-13 説教日: 2026年3月8日・受難節第3主日  説教: 大石 茉莉 牧師 ■ はじめに 16章はペトロの信仰告白、そしてそれに続いて、主イエスの受難予告と大きく事が動いたことが記されておりました。今日の17章の主イエスのお姿が変わるという出来事、1節に「六日の後

 
 
 

コメント


bottom of page