『天の父の御心』 2026年4月19日
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説教題: 『天の父の御心』
聖書箇所: 旧約聖書 エゼキエル書34:11-16
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書18:10-14
説教日: 2026年4月19日・復活節第3主日
説教:大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日の箇所、「迷い出た羊のたとえ」は、おそらくほとんどの方が聞いたことがあるのではないでしょうか。この百匹の羊のたとえは、マタイとルカの15章3節から7節に記されていて、ルカでは「見失った羊のたとえ」となっております。どちらかといえば、ルカの方が読まれることは多いかもしれません。いずれもある人が百匹の羊を持っていて、その一匹が迷い出たら、見失ったら、残りの九十九匹を置いて探しに行くであろう、そして見つけ出したら、喜ぶ。と記されています。同じことが語られているようでありますけれども、マタイとルカでは意図するところが異なっています。ルカ福音書では15章にこの羊のたとえ、なくした銀貨のたとえ、放蕩息子のたとえが3つ続けて語られています。この3つのたとえに共通していることは、「失われたものを見出した喜び」です。見出されたものの喜びではなく、見出した者の喜びが語られています。ルカでは見出された羊の喜びではなく、見失った羊を見つけだした羊飼いの喜びが語られています。なくした銀貨の例えでも、それを見つけた人が喜んでいます。最後の有名な放蕩息子のたとえも放蕩の限りを尽くして帰ってきた息子の喜びではなく、迎え入れる父が喜ぶ。つまり、この3つの例えは、神のもとから離れてしまっている私たちを、まことの羊飼いである主イエスが探しにきて、見つけ出して、そして父なる神のもとに連れ帰ってくださるということ、そしてそれを神ご自身が心から喜んでくださるということが語られています。罪の悔い改めによる神の救い、その喜びが語られているのです。ここでの主題は救いであり、焦点とされているのは、悔い改めの喜びということです。
■教会において
それに対して、今日のマタイ書では全く文脈が異なります。今日の箇所は18章の始めからの繋がりの中に置かれています。つまり、天の国でいちばん偉い者は誰かという弟子たちの問いに繋がっているということです。この18章1節から9節において、対象となっているのは小さい者であり、その焦点は「つまずきから守る」ということでありました。主題となっているのは、教会共同体における、ということです。私たち一人一人が神の子ども、小さな者であり、主イエスによって招かれた一人一人は共に神の子として受け入れられている。それゆえに小さな者をつまずきから守るということが教会の務めであるということが語られていました。さらにはその前の5節に「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」とありました。「受け入れる」ことの対極にあるのが、「つまずき」であります。人をつまずかせるのは受け入れないからです。受け入れられないということが信仰の妨げになり、そしてそれは相手を軽んじているということです。今日与えられた箇所の10節で主イエスは弟子たちに「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」と言われました。教会共同体において、小さな者とは、配慮や助けを必要としている人のことでありましょう。人は時に牧師の言葉につまずき、時に信徒の言葉につまずきます。そして教会に来ることができなくなるということが起こります。また時には自分の問題で教会に来ることができなくなるということもあるでしょう。そのように教会の群れから迷い出てしまうのです。マタイはこの「迷い出た羊」の譬えを教会に対する教えとして聞き、編集しているのです。
■彼らの天使たち
主イエスは「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる。」と続けられました。彼ら、小さい者たちには天使がついていると言います。神がこれらの者たちを守るために遣わしているということでしょう。ヘブライ人への手紙1章14節にはこうあります。「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた。」天使は信じる者たちを助けるために神から遣わされている存在なのです。のちの教会、特にカトリックでは信仰者一人ひとりの人間を生涯にわたって守り導く守護天使がつくという考えが、この言葉から発展しました。ただこの箇所で示されていることは必ず一人ひとりに天使がいるということではなく、神が小さい者を天使を通して守っておられるということです。そして「天で父の御顔をいつも仰いでいる」というのは、まるで王に仕える側近が王の要求にすぐに対応するように、天使は天の父に直接仕え、神の権威を受けて働く存在であるということです。軽んじてしまわれそうな小さな存在に神は目を向けておられ、一人ひとりを大切にしておられるということがこのようにして示されています。神は、強い者よりもむしろ、弱い者、砕かれた者、見過ごされてしまう者たちを顧みられるお方なのです。
■主イエスの譬え
そして主イエスが語られたのが「迷い出た羊」の譬えでした。ある人が百匹の羊の群れを持っていて、そのうちの一匹が迷い出てしまった時、羊飼いは九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を探しに行きます。山に残しては危険なのではないだろうか、羊飼いが離れているうちに残りの羊たちが犠牲になったりしないのだろうかと思うかもしれませんけれども、マタイ福音書では、山は神との交わりの場であります。主イエスは山上で弟子たち、群衆たちに天の国について語られました。マタイ5章以下の山上の説教です。また、主イエスは何度も祈るために山に登られました。直前の17章でも主イエスは3人の弟子を伴って山に登られました。そこは神の栄光を間近に見ることのできる場所でした。ですから、このマタイ福音書においては、九十九匹を山に残して、というのはどうなるかわからない危険に晒してということではありません。最初にこの譬えは教会に対する教えとしてマタイは語っているとお話しいたしました。そうしますと、九十九匹を安全な場所に残して、とはどこを指すのかといえば、その安全な場所とは教会ということです。九十九匹はすでに神の保護の元にあります。ですから、彼らを安心できる場所において、迷い出た一匹の羊をどこまでも探し求めることができるのです。神は迷った者を忘れ去ってしまわれるのではなく、ご自身で探しに行かれるお方なのです。
■羊飼いとして
本日の旧約聖書エゼキエル書34章の前半では、本来であれば、イスラエルの指導者たちが羊飼いとして民を養い、民を守らなければならなかったけれども、彼らはそうしなかった。彼らが守ったのは自分たちだけであり、そのような偽りの羊飼いへの厳しい裁きが語られています。そして今日与えられた11節以下では、神ご自身が羊を探す。神ご自身が彼らの世話をすると言われるのです。神は失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、そして弱ったものを強くする、と言われました。よい牧場、肥沃な牧草地で憩わせ、養うと言うのです。神はそのようにして羊を養ってくださいます。この旧約の約束、ここに示されている神の姿が主イエスであられます。主イエスはここで神が約束された羊飼いは私である、と示しておられます。
◾️教会に求められていること
「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」これが今日与えられた聖書の結びの言葉です。神はたった一人の小さな者を大切に思っておられ、群れに連れ戻すために力を注がれる。どこまでも探し求められる。そしてその一匹が戻ってくるならば、九十九匹のことよりもその一匹のことを喜ぶのだとこの譬えは語ります。この例えは教会の譬えでありますから、私たちの教会において、私たちが誰かをつまずかせていないか、軽んじていないか、そしてその小さな者が群れから失われていないかと言うことが問われ、さらにその一匹が群れに戻ってくることを私たちがどれだけ真剣に願い求めているか、祈っているか、と言うことが問われています。私たちが生きているこの現実社会では1よりも99が大切にされます。世の中が回っていくためにはそれを受け入れざるを得ないことでもあります。普通の計算では合理的とは言えないでしょう。しかし、教会はそうではない。私たちの羊飼いであられる主イエスは、その一匹を探しに行かれるお方なのです。失われた一匹の羊を探して、見つけて連れ戻すことを大いなる喜びとされているお方なのです。私たちはそのお方に従う者たちです。そのお方と共に喜ぶ者たちなのです。それゆえに、ここでマタイは、私たちが主イエスと共に、迷い出た一匹の羊を探し求めることを求め、そのような教会であるようにと言うことを求めているのです。そして私たち一人ひとりはそれぞれが時につまずく者であったり、またある時は人をつまずかせる者であります。つまり、時には九十九匹の中にいて、また別の時は迷い出る一匹の羊であるのです。迷い出た羊は羊飼いが探しにきて見つけてくれなければ、自分でその群れに帰ることはできず、ただ死を待つばかりです。そのような途方にくれるのみの羊を主イエスは探し出しにきてくださるのです。この私たち一人ひとりのこれらの小さな者のために独り子であられるイエス・キリストはその命を与えてくださいました。主イエスはこのように弟子たちに言われました、ヨハネによる福音書10章14節以下、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」主イエスの十字架の出来事は、こうして迷い出た羊を神が探しに行った出来事なのです。十字架は神の目には救いの喜びの出来事なのです。
■結び
最後の14節を繰り返します、「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」神はたった一人も失いたくないのです。そのために主イエスが十字架に歩まれました。神は弱った者を顧み、迷った一人を探し、一人も滅びないことを望まれる神です。そしてその神の心を完全に表されたのが主イエスであられました。教会は主イエスをかしらとし、救い主と仰ぐ者たちの群れであります。群れとして生きる、群れとして歩む、そのことの大切さがここで語られています。私たちは主イエスによって探し出され、この安全な場所を与えられております。主イエスを牧者として、主イエスに従い、一人の失われた羊のことを主イエスと共に悲しみ、探し出す、そのような群れとして歩んでゆきたいと思うのであります。
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