『きょうだいを得るために』2026年4月26日
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説教題: 『きょうだいを得るために』
聖書箇所: 旧約聖書 レビ記19:13-18
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書18:15-20
説教日: 2026年4月26日・復活節第4主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
四つあります福音書は、いずれも主イエス・キリストを証しするものでありますけれども、このマタイ福音書は「教会論の福音書」と呼ばれています。「教会」と言う言葉が登場する唯一の福音書です。「教会―エクレシア」という言葉は、このマタイ書の中でも2箇所だけで、最初は16章18節、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白をしたことに対して、主イエスが「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたところ。主イエスの言われる「わたしの教会」、主イエス・キリストの教会とは、ペトロに代表される「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白という岩、土台の上に築かれるということがここで示されていました。もう1箇所は今日の18章17節です。この18章は、教会とはどのような群れなのか、どのように築かれていくのか、ということが語られてきました。今日のところでは、主イエスご自身によって、共同体としての教会の存在が明確に語られています。
■教会共同体とは
18章ではその始まりから教会共同体としての秩序や関係が具体的に示されてきました。6節以下では、小さい者をつまずかせない、10節以下では迷い出た羊を探し出す、そして今日の箇所では、教会における罪の扱いと赦しの原則というように、教会がどのような共同体であるべきか、ということが示されているのです。そしてここまで一貫して語られている主題は、失われた者を回復することです。神は一人ひとりを大切に思っておられ、それゆえに私たち教会、そしてここを家とする者たちは、御心を問い、御心に従うとき、それは小さな者に目を向け、迷い出る者を主イエスとともに連れ戻すことに心を向けることであると言われていました。主イエスは今日の箇所では、現代の教会に当てはめれば戒規を語っておられます。戒規とはなかなか耳にすることのない言葉かもしれません。戒めと規則という漢字で「戒規」です。処罰のように捉えられがちですが、戒規の目的は処罰ではありません。関係回復のための一時的な措置ということです。今日、旧約聖書はレビ記19章15節以下をお読みいただきましたが、レビ記19章はイスラエルの民に与えられた聖なる民としての生活規範です。その中心は2節にあります「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者だからです。」ということです。宗教的儀式だけでなく、社会生活、倫理、隣人関係に至るまで、「聖さ」が求められ、神の聖さに倣いなさいということが一貫して語られているのです。19章17節には、「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。」とあります。憎むのではない、戒めなさい、というのです。この旧約の考え方というのは、戒めるというのは愛の行為であるということです。憎むことで何も言わないのではなく、指摘することによって愛を示しなさいということなのです。そのようにして関係を回復しなさいということが言われています。このようにして関係を回復することが兄弟を得ることである、と言います。ちなみにこの「兄弟」兄と弟という漢字が当てられていますが、協会共同訳ではひらがなで「きょうだい」と表記されるようになりました。兄と弟の男の兄弟の場合は、今までと同じ漢字の兄・弟ですが、男女の両方を指す場合はひらがな表記です。つまり、厳密な日本語の意味から言えば、兄弟姉妹を指すということになりましょう。
■自ら行きなさい
さて、15節では、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とありますが、どのようなことが起こったと考えられるでしょうか。具体的にはさまざまなことが考えられますが、とにもかくにも、誰かの何かの行為や発言によって、傷つけられて、落ち着いて教会生活が送れなくなってしまうとか、教会の和が乱されてしまった、というような事態になっているということでしょう。そのような時にどうすべきか、というと、「行って二人だけのところで忠告しなさい。」と主イエスは言われます。相手と直接に話しをして、問題を指摘し、悔い改めを求めなさい、ということですが、これはなかなか難しいことでありましょう。被害を受けたと感じている以上、怒りの感情があります。また、悲しみもあることもあるでしょう。時には言葉にできないほどの痛みを覚えていることもあるかもしれません。そのような中で、相手に忠告をするというのは難しいことです。相手を責めるのではなく、忠告する。そしてその結果として相手を赦す用意もなければならないということです。私たちは感情を持つ生き物ですから、自分の感情に振り回されずに忠告をすることができるだろうかと悩みますけれども、先ほども触れましたように、忠告をする、戒めるということは、相手を憎むのではなく、愛を示す行為であるのです。そしてここで言われていることで注目したいのは、「行きなさい」と言われていることです。自分は被害者、傷つけられた側である時、私たちは往々にして相手が謝ってくるのを待っているのではないでしょうか。謝るべきは相手、相手が態度を変えるのを待っているのが当然であって、そこに自分から行くなんて・・・と思うのではないでしょうか。しかし、主イエスは言われるのです、「あなたから行きなさい」と。それも、もし相手が聞き入れないならば、他に一人か二人、一緒に連れて行きなさい、と再び行くように言われるのです。これが兄弟を得るということである、と主イエスは言われます。主イエスの言われたお言葉をじっくりと考えてみますと、この「あなたが行きなさい」ということは相手に対する愛の行為、相手に対する愛を示すことであるということがわかってきます。教会というのは失われたものを回復する共同体であると示されてきました。小さなものをつまずかせない、迷い出てしまった羊を探し出す、という前半部分で語られてきたこととの繋がりが見えてくると思うのです。迷い出てしまった羊を放置する、見捨てるのではなく、取り戻す共同体が教会です。相手との関係に黙って距離を置くことは見捨てることと同じであり、探し出すことは、つまり、ここで言えば、主イエスが言われる「行きなさい」ということなのです。
■信仰の友
しかし、そのようにして行って関係の回復を求めたとしても、叶わないこともあります。そのような時には、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい、と求められています。一緒に行ってもらって、相手と話をするということです。その理由は、「すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」と語られています。申命記19章15節にこのように書かれています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」裁判としての公正さを期すためには、一人ではなく、二人ないし三人の証言の一致が求められているわけです。このきょうだい間の問題においても、同じことが旧約の規定に従って必要とされています。被害者側の主観的な思いではなく、他の人の客観性によって見極められなければならないということなのです。これもきょうだい間における関係の回復のためです。そもそもこの「きょうだい」という言葉ですが、私たち血縁関係があるわけではありません。主イエスをかしらとする教会において、主イエスがその長子であり、それに連なる私たちがきょうだいであるという信仰の友とも言える関係性です。信仰の友、どんな友でありましょうか。この信仰の友というのは、私たちのこの世での関係性における友だちとは異なるように思います。学校であったり、職場であったり、趣味であったり、それぞれが生きて生活していく中で、友達を作る、友だちができるわけですが、その前提は、気が合うとか、感性が似ているとか、一緒にいて楽しい、気を遣わなくて楽、とかではないでしょうか。一旦、友だちになったとしても、気が合わなかったら、離れていきます。つきあわなければ良いのです。しかし、主イエスに連なるきょうだいはそれとは全く異なっているのです。そもそも教会ははじめからそうだったのです。ユダヤ人から始まった教会にギリシア人が加わっていきました。ユダヤ人とギリシア人は異質な存在で、普段の生活では全く相容れない関係でした。しかし、彼らはぶつかり合いながらも一緒に教会を作り続けてきたのです。それは共に主イエス・キリストの赦しの中に立つ者たちであるという、その一点において理解しあってきたからです。これが、主イエスが言われるきょうだいを得るということなのです。ですから、そのような問題が当事者間の話し合いにおいて解決しないならば、「教会に申し出なさい。」と言われるのは、それは個人的な事柄ではなく、教会の問題であるということが言われているのです。まずは当事者間で話し合い、そして二人ないし三人を含めて話し合い、そのあとは教会が三度目のきょうだいを得るための努力をしなさい、と勧められています。「それでも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさい」と言われています。異邦人や徴税人は当時のユダヤ人社会において、神に背く罪人とされていましたから、教会の交わりから追放しなさいと記されています。そしてそれは教会の歴史において、戒規そして破門というような形で制度化されていったのです。人間的な意味合いにおいては、このような距離を置く、離れるというのは放棄したようにも取れますけれども、かしらである主イエスは異邦人や徴税人を分け隔てすることがありませんでした。彼らを招いて、一緒に食事をなさいました。私たち人間の手には負えないと判断したとしても、最終的に主イエスの御手にお委ねすることができるのが私たちに与えられている恵みであろうと思います。
■赦しの務め
そのように私たちのきょうだいとの関係にはその中心に、その根本に主イエスがおられます。それゆえに、きょうだいとの問題解決のためには主イエスが間に立ってくださらないとならないのです。ですから、きょうだいを得るためには私たちは祈りにおいて一つになることが大切なのです。そのことが今日の18節以下に示されています。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」主イエスはこのように言われました。この「つなぐ」と「解く」という表現は、すでに16章19節「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」にも示されていました。この「つなぐ」と「解く」というのは、特に今日の聖書箇所で言えば、罪の赦しに関わる言葉です。「つなぐ」とは文字通り、つないでおく、ということですから、罪を赦さずにつないでおくということです。一方、「解く」とは、罪につながれていた状態から解き放つ、ということです。16章19節以下では、「天の国の鍵を授ける」という言葉と繋がっていました。つまり、鍵は王に代わって管理を行う者が持つもの。王であるキリストに代わって、教会がその権威を託されたということが語られていました。つまり、ここで主イエスが言われたことは、地上の教会が罪を赦せば、天上でも赦され、地上で赦さないならば、天上においても赦されないことになる、ということです。教会にはそのような権威が託されているということですが、決して教会が言うことを聞くように権威を振りかざすと言うことでは決してありません。それは神の御心に反することであります。すでに14節で「小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と書かれている通りです。迷い出た一匹の羊をどこまでも探し求めるように、どこまでも赦すようにと言われているのです。教会に与えられているのは、断罪の務めではなく、赦しの務めです。
■結び
それを覚えて、私たちは祈るのです。それも一人の祈りではなく、共同体として祈る。二人または三人がわたしの名によって集まるところには私もその中にいる、と主イエスは言われます。それは主イエスが、今も生きて働いておられることを信じることでもあります。心を合わせて、傷つけあってしまっている者たちを覚え、互いに相手を赦し、相手を愛するきょうだいとして得ることができるように、とりなしの祈りを捧げる、そのような群れが教会共同体です。主イエスは十字架の苦しみと死によって私たちの罪を赦してくださったのです。その主が共にいてくださり、私たちの祈りを聞き、そして共にいて祈ってくださる。それが主イエス・キリストの教会なのです。
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