『キリスト経由の関係』2026年5月3日
- 5月4日
- 読了時間: 9分
説教題: 『キリスト経由の関係』
聖書箇所: 旧約聖書 ミカ書7:18-19
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書18:21-35
説教日: 2026年5月3日・復活節第5主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日の箇所でこの18章が締め括られます。このマタイ福音書18章と言うのは教会についての教えであるとすでに何度かお話ししてきました。ここまでの1節から20節までのところでは、それぞれの箇所において、マルコやルカの並行記事がありましたけれども、今日のこの「仲間を赦さない家来」のたとえはこのマタイ福音書のみが記している記事です。と言うことは、マタイはこの18章に語られてきたことのすべてを、この箇所に繋げているということでありましょう。マタイにとっては、この箇所こそが要であるということです。今日の箇所は先週の15節以下の主イエスの教えとつなげられています。きょうだいがあなたに対して罪を犯した時、どうすればよいかということに対する教えでした。きょうだいとしての関係を回復して、きょうだいを得なさいということであり、それには赦しと祈りを求めなさい、と主イエスは言われました。今日の箇所の始まりのペトロの問いはそれを受けてのものであります。
■七の七十倍も
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」ペトロは主イエスにそのように申しました。主イエスは自分に罪を犯したきょうだいを赦せとおっしゃった。さて、自分は何回まで赦すことができるだろうか・・・このように考えたのでしょう。仏の顔も三度までという言葉がありますように、三度ぐらいなら赦せるかなというのは自然な感覚でありましょうから、ペトロが七回までと言ったのは、主イエスのお言葉に精一杯応えて、三度どころか、七回までも赦そうと思ったのでしょう。聖書では七という数字は完全数として表されていますから、ペトロの七回というのも具体的な数字というよりは、完全さを表す表現でありましょう。そしてこんな風に考えたペトロは、主イエスから褒めてもらえると思ったかもしれません。しかし、それをお聞きになった主イエスは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」とキッパリと言われました。完全数の七の七十倍、完全に完全を掛け算する、つまり無限に、どこまでも許しなさいと主イエスは言われた。主イエスはこのお言葉から何を示そうとされているのか、そのために語られたのが、「仲間を赦さない家来」の譬えです。23節「そこで、天の国は次のようにたとえられる。」「そこで、天の国は、ある王が家来たちと清算をしようとしたのに似ている。」協会共同訳ではこう書かれています。王と家来、つまり、主イエスは神と私たちの借金の清算について語られました。
■一万タラントンの借金
王に10000タラントン借金している家来がいました。1タラントンとはどのくらいの額なのか、聖書巻末の付録を見ていただくとわかりますが、1タラントンは6000デナリオン。1デナリオンは一人の労働者の1日の賃金の相場ですから、1タラントンは6000日分の賃金で、ざっと20年分の賃金ということになります。そしてこの人が王から借金しているのは10000タラントン、つまり1万倍ですから、天文学的な数字です。到底、返済できるような金額ではありません。そして23節に示されていますように、王はその貸したお金を決済しようとしたということですから、ここで一括返済を求めたということです。これはどんなに頑張って働き続けたとしても20年分の賃金の1万倍ですから、返済などできるはずはありません。すべてを売り払って返すように求められたこの家来は、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願いました。その様子を見たその家来の主君は、彼を憐れに思い、その借金を帳消しにしてくれたのです。この家来は10000タラントンという途方もなく大きな金額、一生かかっても返すことのできない借金を免除、チャラにしてもらったのです。驚きと共に途方もない開放感を味わって主君のところを後にしました。すると、外で自分から100デナリオン借金している仲間に出会いました。彼が主君から借りていた10000タラントンに比べれば、小さな額ではありますけれども、それでも100日分の賃金。おおよそ4ヶ月分の賃金になる計算です。年収の3分の1ほどになりますから、そこそこの金額であることは間違いありません。彼はその仲間を捕まえて首を絞めて、取り立てようとし、「借金を返せ」と迫りました。仲間はひれ伏して「どうか待ってくれ。返しますから」としきりに頼みました。彼が王の前でしたのと同じです。しかし、彼は承知しませんでした。そしてその仲間を牢に入れたというのです。仲間たちはこれを見て、心を痛めました。事の顛末を全て主君に告げたのです。そうしたところ、主君はこの家来を呼びつけて言いました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」怒った主君は、この家来を借金の帳消しを取りやめにし、彼を牢に入れたのです。彼は一生、そこから出ることはできません。これがここで主イエスが語られた譬えです。わかりやすい話です。自分が相手にかけた迷惑や損害は忘れてしまい、人が自分にかけた迷惑や損害は忘れないという人間の身勝手さがよく表されています。また、自分に与えられている恵みは忘れてしまい、欲に生きる姿が示されています。わかりやすい譬え話であり、ほとんどの方が、主君が彼に言った言葉がその通りだと思うことでしょう。それではなぜ、彼はそうできなかったのか、なぜこんなひどい人になってしまったのでしょうか。それは自分が王に赦されたことを忘れてしまったからです。この譬え話の王とは神のことです。そしてこの話から学ぶべきことというのは、まず、神は神ご自身に対する負債は赦しくださるということです。神様はとても懐が深く、器が大きく、寛大なお方です。しかし、この家来が仲間を赦さなかった時、主君は「怒って」とありますように、とても厳しく、そしてその懐は狭いものでありました。この家来同士、仲間同士が赦しあわなかったところで、王自身には損失はありません。しかし、家来同士が赦しあわないことに対して、王は怒りと処罰を持って臨まれました。神は赦してくださるお方です。神に対する負債はどんなに大きくとも赦してくださるのです。負債が免除されて神との関係が正しくなったように、人間同士の関係も赦しあうことによってその関係をよきものにしなさいと言っておられるのです。
■赦しは神の憐れみによって
さて、ではどうしたら赦せるかということになります。さて、ペトロが「何回赦すべきでしょうか?七回まですか?」と言ったのは、何回なら我慢できるか、ということを前提としています。二回や三回ではなく、なんとか七回までは赦せるか、つまり我慢できるか、ということで、それを超えたら、もう我慢ならない、ということを言っています。つまり、それは決意と努力によるものになります。主イエスがそれに対して、七の七十倍まで赦しなさい、と言われたのは、努力が足りないということではありません。兄弟を赦すということは、努力や決意によるものではないと主イエスは言っておられます。それでは赦しは何によるのでしょう。35節の「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」に「心から」とありますように、回数の問題ではなく、赦し方の問題ということです。「心から」というのが心のどのような状態なのかといえば、それは27節にあります「主君は憐れに思って」という言葉です。身体がよじれるほどの痛みを覚えてということです。この身体がよじれるほどの痛みというものを主イエスは十字架上で示されました。私たちを憐れに思ってくださいました。そのような憐れみを神が私たちに示してくださったように、お前も仲間を憐れむべきでなかったか、と王は言われます。神が私たち人間に憐れみを示してくださった、そのことを知るとき、相手に憐れみを示すことができる、と神は言われます。
■キリスト経由
しかし、実は私たちはなかなか赦すということができません。人間は感情の動物だからです。自分の感情に向き合うとき、どうしても相手に対して、赦すことはできない、到底、握手して仲直りはできないという思いが湧き上がってきます。しかし、相手と握手、手を繋ぐことはできなくとも、私の隣におられる主イエスと手を繋いでいることを思い起こしてください。私自身が主イエスと手を繋いでいるのと同じように、その相手も主イエスと手を繋いでいます。直接には、手を繋げない、赦せない、という思いに悩まされても、主イエスが私と相手との間におられて、それぞれと手を繋いでいてくださるのです。主イエス・キリスト経由で繋がっている。それが心からきょうだいを赦すということです。相手を怒りの思いの目で見るのではなく、主イエスへ愛の眼差しを向ける。そのそうすることでそれは相手を赦すことへとつながるのです。自分の思いによれば、相手に対するさまざまな感情に捉われたまま、離れることはできません。しかし、主イエスが間に立ってくださり、その右の手を私、左の手を相手と繋いでくださっていることできょうだいになるのです。それは相手と仲良くなるということとは別の次元のことです。主イエスは私にも相手にも愛の眼差しを注いでくださいます。憐んでくださいます。主イエスは、私のために、そして相手のために、わたしたち人間全てを憐んでくださり、ご自分を差し出してくださいました。神は私たちの罪を赦してくださいました。私たちの借金を帳消しにしてくださったのです。ただ、私たちを憐れむという思いからです。そしてその借金の帳消しのために主イエスが十字架におかかりになってくださったのです。神の独り子のいのちはお金に換算することのできないものです。10000タラントンという途方もない金額、私たちが到底返すことのできない数字はそのことを示しています。私たちが我慢や努力によって何回までなら赦せるというように考えるのとは違う形で、神は赦しを示してくださいました。独り子主イエス・キリストのいのちという10000タラントンの犠牲を払って私たちの罪を赦してくださったという、はかることのできないほどの恵みの中で生きるようになるということです。赦さなければならないのではなく、努力して赦すのでもなく、主イエスの十字架と死によって赦された自分として生きる時、その恵みを感謝して受け取って生きる生き方は赦し、赦される関係となります。
■結び
私たち人間をつなぐ要は主イエス・キリストです。私が主イエスとつながり、そしてあの人も主イエスとつながっていることを知る。私が主イエスの十字架によって罪赦され、あの人も同じく主イエスの十字架によって罪赦された。キリスト経由であの人とつながる。それが実現していく場が教会です。この赦しが広がっていくことが神の御心であり、主イエスはそのようにして教会が築かれていくことを願っておられるのです。今日の旧約聖書ミカ書に記されているように、このようにして罪を赦してくださる神は他におられないのです。主イエスによって罪赦された、その憐れみによる赦しが、自分だけでなく、多くの者たちに注がれていることを覚え、きょうだいを赦せないと思う私たちの罪の思いから解き放たれるよう祈り、神の憐れみに感謝し、共に主イエスに目を注ぎたいと思います。そして私たちの手は、まず主イエスと繋がっているということを覚えたいと思います。
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